第十四話 久我玲一の手記
第二報の原稿を送った怜司の前に、久我透が差し出したもの。
それは、父・久我玲一が残した手記だった。
四十年前、外から来た研究者は何を見たのか。
伝承の下に、何を見つけたのか。
そして、なぜ死へ向かうほど急いでしまったのか。
怜司は、もう一人の記録者の声に触れる。
※本作は、青森県に伝わる「キリストの墓」伝承を題材にしたフィクションです。
※実在の宗教、信仰、団体、地域、人物を否定・揶揄する意図はありません。
※作中の歴史解釈、文書、事件、人物関係は物語上の創作です。
久我玲一の手帳は、思っていたより小さかった。
文庫本より少し大きい程度の革表紙。角は擦り切れ、表面には細かな傷がいくつも走っている。長い年月、誰かの手の中で開かれ、閉じられ、また開かれてきたことが分かる手帳だった。
三上怜司は、仮設待機所の隅に座り、その表紙をしばらく見つめていた。
開けば、四十年前の声が出てくる。
そう思うと、指が重くなった。
「読まないんですか」
隣で十和田澪が尋ねた。
澪はナニャドヤラに関する公開範囲を整理したノートを膝に置いていた。疲れているはずなのに、視線は静かだった。
「読みます」
怜司は答えた。
「ただ、少し怖いですね」
「何がですか」
「久我玲一さんが、父より先に正しい場所へ辿り着いていたら」
澪は少しだけ考えた。
「それは、三上さんのお父さんを責める材料になりますか」
怜司はすぐには答えられなかった。
なる。
そう言いかけた。
だが、今はもう、それだけでは足りない。
「責める材料にはなります。でも、それで終わらせたら、また父の沈黙だけを見てしまう気がします」
澪は小さく頷いた。
「なら、読むしかないですね」
怜司は息を吐き、手帳を開いた。
最初のページには、先ほど見た一文があった。
――この村の謎は、キリストが来たかどうかではない。
――人はなぜ、誰かを神にしなければ耐えられなかったのか、である。
その下に、日付が書かれていた。
昭和四十八年二月十二日。
四十年以上前の冬。
久我玲一は、その日にこの村へ来た。
怜司は次のページをめくった。
字は細く、整っていた。研究者らしい几帳面さがありながら、ところどころ筆圧が強くなっている。感情を抑えようとして、抑えきれなかった跡に見えた。
――新郷村着。雪深し。
――案内人は村役場の若い職員、三上宗一郎。寡黙だが、こちらの質問をよく聞く。
――キリスト伝承については、観光向けの説明と村内に残る口承の間に差異あり。重要なのは、その差異を誰も「矛盾」と呼ばないこと。
怜司の目が止まった。
三上宗一郎。
父の名前が、久我玲一の手で書かれている。
「父が案内していたそうです」
怜司が言うと、澪は驚いたように顔を上げた。
「最初からですか」
「はい」
怜司は続けて読んだ。
――三上氏は、説明の途中で何度か言葉を飲み込む。
――墓の由来を問うと、決まった説明をなぞる。
――だが、ナニャドヤラの歌について問うと、目を伏せた。
――彼は何かを知っている。
怜司は無意識に唇を噛んだ。
父は、最初から知っていた。
それでも久我玲一を案内した。
止めるためか。
試すためか。
それとも、自分では言えないことを、外から来た研究者に見つけてほしかったのか。
ページをめくる。
――墓は二つある。
――一つはキリストの墓。一つは弟イスキリの墓とされる。
――だが、村人の話を聞く限り、二つの墓は「神」と「身代わり」という単純な構造ではない。
――むしろ、片方は名を奪われた者、もう片方は名を背負わされた者の場所ではないか。
怜司は思わず声を漏らした。
「見抜いていた」
澪が身を乗り出す。
「何をですか」
「アラムと伊佐衛門の構造です。久我さんは、まだ座帳を見ていない段階で近づいている」
澪は手帳を見つめた。
「すごい人だったんですね」
「すごいです」
怜司は正直に言った。
「でも、すごいだけでは危うい」
その言葉は、自分に言い聞かせるようでもあった。
ページを進めると、久我の調査記録が続いていた。
村人への聞き取り。
歌の断片。
墓の配置。
古い家の口伝。
祭礼の変化。
戦後の観光化。
村の外から持ち込まれた解釈。
久我玲一は、キリスト伝承を否定するために来たのではなかった。
面白がるためでもなかった。
彼は、伝承が生まれた理由を探していた。
――人は、耐えがたい死をそのままでは語れない。
――そのため、死者を神に近づける。
――神に近づけることで、村の罪は祈りへ変わる。
――だが、祈りへ変わった罪は、罪として裁かれない。
怜司はその一文を何度も読んだ。
罪が祈りへ変わる。
この村は、アラムの死を祈りに変えた。
伊佐衛門の沈黙を伝承に変えた。
清之進の罪を昔話に変えた。
久我玲一の死を事故に変えた。
十和田悠一の声を、雪の音に変えた。
変えることで、耐えてきた。
だが、変えたものは消えない。
形を変えて、残る。
「三上さん」
澪の声で、怜司は顔を上げた。
「大丈夫ですか」
「はい」
怜司は答えた。
「ただ、久我さんはかなり深いところまで来ています」
「だから、危なかった?」
「たぶん」
怜司は手帳の後半へ進んだ。
日付は、昭和四十八年二月十六日。
――本日、葛原重蔵氏より古い記録の存在を示唆される。
――座帳という言葉。寄合座。清之進。異国の子。
――葛原氏は多くを語らず。ただし、目は語っていた。
――この村には、文書がある。
怜司は息を詰めた。
葛原は、久我に座帳の存在を匂わせていた。
つまり、隠しきれなかったのだ。
いや、違う。
誰かに見つけてほしかったのかもしれない。
人間は完全には隠せない。
本当に隠したいことほど、言葉の端に出る。
目に出る。
沈黙に出る。
次のページ。
――三上宗一郎氏と長く話す。
――彼は「村には村の守り方がある」と言った。
――私は「守ることと隠すことは同じではない」と返した。
――三上氏は怒らなかった。
――ただ、「外から来た者は、去ることができる」と言った。
怜司は、その一文で手を止めた。
外から来た者は、去ることができる。
父の声が聞こえた気がした。
久我玲一は去ることができた。
記事を書き、論文を書き、村を離れることができた。
だが、村に残る者は違う。
澪も。
葛原も。
十和田家も。
久我の死後に残された透も。
そして父も。
真実を出した後も、その土地で生きなければならない。
それを父は恐れた。
分かる。
分かってしまう。
だからこそ、苦しかった。
「父は、久我さんを嫌っていただけではないみたいです」
怜司は言った。
「どういう関係だったんでしょう」
澪が尋ねる。
怜司は少し考えた。
「たぶん、互いに正しいと思っていた。でも、見ている場所が違った」
久我玲一は、死者を見ていた。
宗一郎は、生き残る村を見ていた。
どちらも間違いではなかった。
だが、どちらも足りなかった。
その足りなさの間で、人が死んだ。
ページをめくる。
日付は、昭和四十八年二月十八日。
筆跡が乱れていた。
――榊原道隆という男と会う。
――村の旧家に出入りし、観光資源化を進めている人物。
――こちらの調査内容に強い関心を示す。
――危険。
――彼は真実に興味があるのではない。真実が生む熱に興味がある。
怜司は眉を寄せた。
「榊原のことも書いてあります」
澪の表情が硬くなった。
「何と?」
「危険、と」
怜司は読み続けた。
――榊原氏は言った。
――「神様の墓より、人間の秘密の方が客は来る」
――私は強い不快を覚えた。
――三上氏も同席していたが、顔色を変えた。
――あの瞬間、三上氏は私の側にいたと思う。
怜司の胸が揺れた。
父は、その時は久我の側にいた。
真実を消費させない側に。
なら、どこで変わったのか。
次のページに、その答えの欠片があった。
――三上氏、深夜に宿を訪ねてくる。
――「あなたは、アラムという名を知っているか」と問われる。
――私は知らないと答えた。
――三上氏はしばらく黙った後、「なら、まだ引き返せる」と言った。
怜司は思わず手帳を閉じた。
澪が息を呑む。
「アラムの名を、お父さんが?」
「はい」
怜司の声は掠れていた。
「父が、久我さんに近づけていた」
あるいは、止めようとしていた。
まだ引き返せる。
その言葉は、警告だったのか。
懇願だったのか。
自分の代わりに進んでほしいという矛盾した願いだったのか。
怜司には分からなかった。
だが、一つだけ分かる。
宗一郎は、完全な沈黙の人ではなかった。
言いかけていた。
迷っていた。
踏み出そうとしていた。
そして、踏み出しきれなかった。
怜司は再び手帳を開いた。
――アラム。
――村の伝承に直接現れない名。
――異国の子か。清之進と関係するか。
――三上氏は、その名を出したことを後悔しているようだった。
――私は彼に言った。
――「名があるなら、返すべきです」
――三上氏は答えなかった。
次のページは、短い文章だけだった。
――名を返すことは、墓を掘ることに似ている。
――眠っていた者を起こすのではない。
――眠らされた理由を、こちらが問われるのだ。
怜司は、その文をノートに書き写した。
名を返すことは、問われること。
自分はいま、問われている。
父をどう書くのか。
久我をどう書くのか。
アラムをどう書くのか。
村をどう書くのか。
誰かを英雄にすれば簡単だ。
誰かを悪人にすればもっと簡単だ。
だが、簡単な記事は、また誰かを消す。
夕方の光が弱くなっていた。
仮設待機所の窓の外では、消防の車両が一台、ゆっくりと出ていく。旧集会所の規制線はまだ残っている。雪は止みかけていたが、空は重い。
怜司は手帳の最後に近いページを開いた。
日付は、昭和四十八年二月二十日。
久我玲一が死ぬ前日だった。
――座帳を見た。
――短時間。全体ではない。葛原氏が見せたのではない。
――場所は旧集会所奥。鍵は開いていた。誰かが意図的にそうした可能性。
――清之進。伊佐衛門。アラム。
――やはり、キリスト伝承の核は別にある。
――これは宗教伝承の問題ではない。村の共同体が犯した隠蔽の記録である。
怜司の指が震えた。
久我玲一は座帳を見ていた。
完全ではないにしても、核心に触れていた。
だから、死んだ。
「ここまで見ていたなら、久我さんは止まれなかったでしょうね」
澪が静かに言った。
「ええ」
怜司は頷いた。
「でも、ここからが問題です」
次の文。
――急がなければならない。
――三上氏は待てと言う。葛原氏も待てと言う。
――だが、待てば榊原氏に奪われる。
――伝承は商品にされ、アラムは見世物にされる。
――ならば、その前に私が書く。
怜司は目を閉じた。
ここだ。
ここで久我玲一は判断を誤った。
正しい怒りが、彼を急がせた。
榊原に利用される前に、自分が書く。
名を守るために、公表する。
消費される前に、記録する。
分かる。
痛いほど分かる。
だが、準備が足りなかった。
村の人間を巻き込む手順がなかった。
残される者への配慮が足りなかった。
そして、宗一郎は逆に止まりすぎた。
急ぎすぎた者と、止まりすぎた者。
その間に、久我玲一と十和田悠一が落ちた。
「澪さん」
怜司は言った。
「はい」
「僕は、久我さんを英雄には書けません」
澪は頷いた。
「その方がいいと思います」
「でも、父を悪人だけにも書けません」
「はい」
「たぶん、両方を書くことになります。久我さんの正しさと危うさ。父の恐れと罪。葛原さんの記録と逃げ。榊原の利用。村の沈黙」
怜司は手帳を見つめた。
「重い記事になります」
澪は少しだけ笑った。
「軽い記事にされたら、困ります」
その言葉に、怜司もわずかに笑った。
手帳には、まだ続きがあった。
最後の記録。
日付は、昭和四十八年二月二十一日。
字がさらに乱れている。
――十和田悠一氏と会う予定。
――彼は歌の奥にある名を知っている可能性。
――三上氏から強く止められる。
――「悠一を巻き込むな」と言われた。
――なぜか。
――十和田家は歌を守る家。ならば、歌の意味を聞く必要がある。
怜司は、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
父は、悠一を守ろうとしていた。
少なくとも最初は。
だが、守れなかった。
次の行。
――私は三上氏に言った。
――「あなたが話さないから、私は彼に聞くのです」
――三上氏はひどく傷ついた顔をした。
――あの顔を見て、私は自分が何かを踏み越えたのだと分かった。
――しかし、もう戻れない。
怜司は手帳を持つ手に力を込めた。
もう戻れない。
その言葉は危険だった。
記者も、研究者も、時々その言葉に酔う。
真実に近づいた。
ここまで来た。
だから戻れない。
だが、本当は違う。
戻る判断も必要だ。
待つ勇気も必要だ。
聞かない配慮も必要だ。
進むことだけが誠実ではない。
久我玲一は、それを知る前に死んだ。
最後のページには、短い走り書きがあった。
――沢へ向かう。
――悠一氏が案内を申し出る。
――三上氏、追ってくるかもしれない。
――雪が強い。
――だが、今日を逃せば座帳は消える。
――アラムの名を、もう一度眠らせてはならない。
そこで手帳は終わっていた。
怜司は、長い間動けなかった。
仮設待機所の中には、暖房の低い音だけが響いている。
久我玲一の最後の思考は、アラムの名だった。
正しかった。
正しかったからこそ、悲しかった。
「三上さん」
澪がそっと声をかけた。
「はい」
「記事にしますか」
怜司は手帳を閉じた。
「すぐにはしません」
「なぜですか」
「これは、第三報の材料ではないです」
怜司は言った。
「連載の中心になります。久我玲一という外から来た研究者が、何を見て、どこで急ぎすぎたのか。父が何を恐れ、どこで止まりすぎたのか。それを分けて書かないと、また誰かが単純な物語にされる」
澪は頷いた。
「透さんには?」
「今から確認します」
怜司は手帳を丁寧に封筒へ戻した。
その時、待機所の入口が開いた。
冷たい空気とともに、久我透が入ってきた。
「読んだか」
「はい」
怜司は立ち上がった。
「お父さんは、アラムの名を守ろうとしていました」
透の顔がわずかに歪んだ。
「そうか」
「でも、急ぎすぎた」
怜司は続けた。
透は黙っていた。
怜司は逃げなかった。
「久我玲一さんは、正しかった。けれど、村に残る人たちのことを十分には見られていなかった。悠一さんを巻き込んだことも、書く必要があります」
透は目を伏せた。
長い沈黙があった。
怒鳴られるかもしれないと思った。
だが、透は低い声で言った。
「分かってる」
怜司は息を止めた。
「俺も、読んだからな」
透は封筒を見た。
「子どもの頃は、父は殺されたんだと思っていた。村に殺された。三上宗一郎に殺された。そう思えば楽だった」
怜司は何も言えなかった。
「でも、大人になって読んだら、違った。父は、自分で危ない場所へ行った。もちろん、突き落とした奴がいるならそいつの罪は消えない。見殺しにした奴の罪も消えない。でも、父にも責任はある」
透は怜司を見た。
「それを書け」
「いいんですか」
「いい」
透の声は震えていた。
「父をかわいそうな被害者だけにするな。そんなふうに書かれたら、俺はたぶん父を憎む」
怜司はゆっくり頷いた。
「分かりました」
「ただし」
透は一歩近づいた。
「父が何を守ろうとしたのかは、消すな」
「消しません」
「宗一郎の罪も消すな」
「消しません」
「アラムの名を、見出しにするな」
怜司は、はっきりと頷いた。
「約束します」
透はそれ以上何も言わなかった。
ただ、深く息を吐いた。
その息には、四十年分の怒りと疲れが混じっているように見えた。
夜になった。
第二報は、編集デスクの確認を通り、電子版に掲載された。
見出しは抑えられていた。
――新郷村伝承地の地下遺構と古記録 確認作業進む 未確認情報の拡散に注意呼びかけ
派手ではない。
だが、それでよかった。
コメント欄には、すでに様々な反応がついていた。
もっと詳しく知りたい。
隠しているのではないか。
現地へ行きたい。
そっとしておくべきだ。
歴史的発見では。
村おこしに使えるのでは。
怜司は画面を閉じた。
世の中は、待ってくれない。
だからこそ、自分は急ぎすぎてはいけない。
待つべきところは待つ。
確認すべきところは確認する。
書くべきところは、逃げずに書く。
その夜、怜司は宿に戻らず、資料館の仮眠室に残った。
机の上には三つの記録が並んでいた。
座帳の写し。
葛原重蔵の証言メモ。
久我玲一の手記。
それぞれが、違う声で同じ場所を指していた。
アラム。
伊佐衛門。
悠一。
宗一郎。
久我玲一。
そして、村。
怜司はノートを開き、連載の仮題を書いた。
――神にされた人々
書いてすぐ、線を引いた。
違う。
少し考え、もう一度書いた。
――名を返すために
それも、まだ違う気がした。
きれいすぎる。
名を返すことは、もっと泥臭い。
傷つける。
問われる。
間違える。
それでも進む。
怜司は、最後にこう書いた。
――雪の下の名
しばらく眺めた。
悪くない。
雪は隠す。
雪は音を奪う。
雪は足跡を消す。
けれど、春になれば解ける。
雪の下にあったものは、消えていたのではない。
そこにあったのだ。
怜司はペンを置いた。
その時、スマートフォンが震えた。
編集デスクからのメッセージだった。
――第二報、通った。明日の紙面にも入れる。
――ただし、上が連載化に興味を示している。
――慎重にやれ。アクセス狙いの部署も動く。
――お前が守りたいなら、企画書を出せ。
怜司は画面を見つめた。
企画書。
記事は、思いだけでは通らない。
紙面の枠。
編集方針。
法務確認。
関係者確認。
見出し。
写真。
公開タイミング。
ネットでの拡散対策。
すべてを設計しなければならない。
それが、現実だった。
怜司はノートの新しいページを開いた。
企画名。
目的。
取材対象。
公開しない情報。
公開前確認。
関係者保護。
地域への配慮。
反響対応。
一つずつ書き出していく。
書きながら、ふと思った。
父は、ここを一人で抱えたのかもしれない。
だから潰れた。
久我玲一は、ここを飛ばしたのかもしれない。
だから急ぎすぎた。
自分は、一人で抱えない。
手順を飛ばさない。
それが、同じ失敗をしないということだった。
夜が深くなる。
窓の外では、雪が止んでいた。
雲の隙間から、わずかに月が見える。
怜司は久我玲一の手帳をもう一度開いた。
最後から二番目のページ。
――三上氏は、私に言った。
――「あなたは正しい。だが、正しさだけでは村は耐えられない」
――私は答えた。
――「では、間違いに耐え続けるのですか」
――三上氏は何も言わなかった。
怜司は、その会話を何度も読んだ。
正しさだけでは耐えられない。
間違いに耐え続けるのか。
どちらも本当だった。
そして、どちらか一つだけを選んだ時、人は誰かを傷つける。
怜司はノートに書いた。
――正しさを、人が耐えられる形にする。
それが、記事の仕事なのかもしれない。
きれいごとではない。
遅すぎても駄目だ。
曖昧にしても駄目だ。
だが、速さだけで人を踏んではいけない。
怜司はペンを置き、目を閉じた。
父さん。
心の中で呼んだ。
あなたは、何を恐れたんですか。
久我さん。
あなたは、何を急いだんですか。
悠一さん。
あなたは、何を歌ったんですか。
アラム。
あなたの名を、どう返せばいいですか。
答えはなかった。
ただ、静かな夜があった。
だが、その沈黙は以前とは違った。
隠すための沈黙ではない。
書く前に、聞くための沈黙だった。
怜司はノートパソコンを開いた。
連載企画書の一行目に、こう打った。
――本企画は、青森県新郷村に伝わる宗教伝承を興味本位に解体するものではない。伝承の背後に残された実在の人物、地域の記憶、そして沈黙の構造を、資料と証言に基づいて検証するものである。
打ち終えた瞬間、怜司はようやく少しだけ息ができた。
これは記事ではない。
記事を書くための約束だ。
父ができなかった約束。
久我が急ぎすぎた約束。
葛原が書き残せなかった約束。
透が求めた約束。
澪が守ろうとしている約束。
そして、アラムの名を見世物にしないための約束。
外で、屋根から雪解け水が落ちた。
ぽたり。
その音が、また聞こえた。
怜司は顔を上げた。
夜はまだ長い。
だが、もう真っ暗ではなかった。
お読みいただきありがとうございます。
第14話では、久我玲一の手記から、彼が伝承の下にある「人間の痛み」にかなり近づいていたことが明らかになりました。
一方で、久我は正しさゆえに急ぎすぎ、宗一郎は恐れゆえに止まりすぎた。
怜司はその両方の失敗を見つめながら、記事ではなく、まず「書くための約束」を作り始めます。
次回は、十和田澪と十和田家の証言へ進みます。
ナニャドヤラの歌が、何を隠し、何を守ってきたのかが少しずつ明らかになります。




