第十三話 証言の朝
座帳は守られた。
アラム、伊佐衛門、悠一、久我玲一、そして三上宗一郎。
失われていた名は、少しずつ戻り始めた。
だが、名を返すことと、真実を書くことは同じではない。
三上怜司は、記者として最初の証言を集め始める。
※本作は、青森県に伝わる「キリストの墓」伝承を題材にしたフィクションです。
※実在の宗教、信仰、団体、地域、人物を否定・揶揄する意図はありません。
※作中の歴史解釈、文書、事件、人物関係は物語上の創作です。
旧集会所の火は、昼前には消し止められた。
けれど、煙の匂いは残った。
焦げた木材。濡れた畳。煤を含んだ雪。消火に使われた水が、黒い筋となって集会所の土台から流れている。
三上怜司は、焼け残った建物を少し離れた場所から見ていた。
旧集会所は、半分ほどが黒く焼けていた。柱の一部は崩れ、屋根も焦げ落ちている。消防と警察が出入りし、黄色い規制線が張られていた。
座帳は、保全された。
焦げた表紙。濡れた紙。ところどころ欠けた文字。
完全ではない。
だが、残った。
それだけで、怜司は何度も胸の奥に手を当てたくなった。
もしあれが燃えていたら。
また、すべては曖昧な伝承に戻っていた。
アラムの名も、三上伊佐衛門の名も、十和田悠一の最後の声も、久我玲一の死も、父・宗一郎の沈黙も。
誰かが都合よく語り直せる余白の中に、沈んでいた。
「三上さん」
背後から声がした。
振り返ると、十和田澪が立っていた。
彼女の顔には疲労が濃く出ていた。髪には煤の匂いが残り、目元は赤い。それでも、背筋は伸びている。
「少し休んだ方がいいですよ」
怜司が言うと、澪は小さく首を横に振った。
「それは三上さんも同じです」
「僕は車の中で少し座りました」
「それは休んだとは言いません」
そう言ってから、澪は旧集会所を見た。
「燃えましたね」
「はい」
「でも、全部ではありません」
「ええ」
二人はしばらく黙っていた。
燃え残った建物を、ただ見ていた。
そこは、かつて村の寄合座があった場所だった。
アラムの死を隠すことを決めた場所。
清之進の罪を処理した場所。
伊佐衛門に沈黙を強いた場所。
そして、後の時代にその罪を伝承へ変えていく始まりとなった場所。
その場所が、今、半分焼けている。
象徴的だと思った。
だが、象徴にしてしまうこと自体が危険なのだとも思った。
この建物も、ただの建物ではない。
しかし、ただの象徴でもない。
ここで決めた人間がいた。
ここで黙った人間がいた。
ここで書いた人間がいた。
ここで燃やそうとした人間がいた。
すべてを一つの意味にまとめるには、まだ早すぎる。
「記事は出ましたか」
澪が尋ねた。
怜司はスマートフォンを取り出した。
「第一報は出ました」
画面を開く。
青森日日新聞の電子版。
見出しは、怜司が送ったものに近い形で出ていた。
――新郷村伝承地の地下遺構 未確認情報拡散、故人の尊厳と地域への配慮を
本文も、大きくは変えられていなかった。
刺激的な言葉は避けられている。
「キリストの墓の真実」といった煽りもない。
人骨や古文書についても断定していない。
ただし、現場で何らかの地下遺構が確認され、警察が関係者から事情を聞いていること。ネット上で画像が拡散しているため、安易な断定や関係者への接触を控えるべきだということは書かれていた。
澪は画面を読み、ほっと息を吐いた。
「よかった」
「まだ、よくはありません」
怜司は検索画面を開いた。
すでに別のまとめサイトや動画投稿者が動いていた。
青森のキリストの墓に隠された地下空間。
ついに証明か。
村が隠した聖者の遺骨。
現地に行ってみた。
タイトルを見ただけで、怜司は画面を閉じたくなった。
「速いですね」
澪が言った。
「速いです」
「止められますか」
「完全には無理です」
怜司は正直に答えた。
「でも、対抗することはできます」
「対抗?」
「正確な記録を積み重ねることです」
澪は怜司を見た。
「それが第二報?」
「はい」
怜司は旧集会所へ視線を戻した。
「ただし、次は難しいです。第一報は“断定するな”で済みました。でも第二報からは、何をどこまで書くか決めなければならない」
「アラムの名を出すんですか」
「まだ出しません」
澪は少し驚いたようだった。
「出さないんですか」
「今出せば、必ず消費されます」
怜司は言った。
「“謎の異国の子アラム”として」
澪は目を伏せた。
「そうですね」
「まずは、外側から書きます」
「外側?」
「ネット上で拡散している画像や情報の扱い。地域伝承に関わる調査で必要な配慮。地下遺構や人骨が確認された場合に、どんな手続きが必要か。そこからです」
澪は少し考え、頷いた。
「土台を作るんですね」
「はい」
怜司は画面を見た。
「名前を出す前に、その名前を受け止められる場所を作る必要があります」
澪は静かに言った。
「三上さんは、少し変わりましたね」
「そうですか」
「最初は、すぐに真相を知りたがる記者でした」
「今も知りたいです」
「でも、出し方を考えている」
怜司は少し笑った。
「父に似てきたんですかね」
言ってから、胸が痛んだ。
以前なら、その言葉に嫌悪しかなかっただろう。
父に似ている。
そう言われることが、ずっと嫌だった。
けれど今は、少し違う。
父の弱さを知った。
父の沈黙を知った。
父の罪も、父が残したものも知った。
似ていることは、許すことではない。
だが、拒絶だけで終われるほど単純でもなくなった。
「似ているかは分かりません」
澪は言った。
「でも、同じ失敗をしないようにしている気がします」
その言葉は、怜司にとって救いに近かった。
同じ失敗をしない。
そうでなければ、ここまで来た意味がない。
「次に誰から聞きますか」
澪が尋ねた。
怜司は手帳を開いた。
すでに、聞くべき相手の名前を書き出していた。
葛原重蔵。
十和田澄江。
久我透。
警察。
村役場。
保存会関係者。
消防。
近隣住民。
そして、榊原道隆。
「最初は、葛原さんです」
怜司は言った。
「なぜですか」
「葛原さんは、隠した側で、記録した側でもある。座帳の昭和四十八年の追記を書いた本人です」
「つらい取材になりますね」
「はい」
「三上さんにとっても」
怜司は頷いた。
葛原に聞くことは、父のことを聞くことでもある。
三上宗一郎は、なぜ悠一を助けに降りなかったのか。
なぜその後に戻ったのか。
なぜ悠一の声を墓に入れたのか。
なぜ怜司に何も言わなかったのか。
答えを知りたい。
だが、答えが父を楽にするものとは限らない。
むしろ逆かもしれない。
それでも聞くしかない。
見ていた者は、いつか語らねばならない。
十和田悠一の言葉が、怜司の中で繰り返されていた。
葛原重蔵は、資料館近くの小さな休憩所にいた。
警察の聴取を終えた直後で、椅子に深く腰掛けている。膝の上には毛布がかけられていた。顔色は悪く、目は落ち窪んでいる。
だが、怜司が近づくと、葛原はゆっくり顔を上げた。
「来ると思っていた」
「取材させてください」
怜司は言った。
「今でなければ駄目ですか」
葛原は疲れた声で聞いた。
怜司は少し迷った。
老人は限界に近い。
本来なら、休ませるべきだ。
だが、今を逃せば、また何かが閉じてしまう気がした。
「無理なら、後日にします」
怜司はそう言った。
自分でも意外だった。
以前の自分なら、多少強引にでも聞いたかもしれない。
葛原は怜司をじっと見た。
やがて、小さく笑った。
「宗一郎なら、今聞いただろうな」
怜司は黙った。
「いや、違うか。あいつは聞かずに背負った」
葛原は毛布を握った。
「お前は、聞くのだな」
「はい」
「聞いた上で、背負うかどうか決める」
「そうしたいです」
葛原は目を閉じた。
「なら、聞け」
怜司はスマートフォンの録音アプリを開いた。
「録音してもいいですか」
葛原は頷いた。
「構わん」
「記事に使う場合は、事前に確認します」
「好きにしろ」
「好きにはしません」
怜司ははっきり言った。
葛原は少し驚いた顔をした。
怜司は続けた。
「あなたの証言は重要です。でも、そのまま出せば、あなた自身や関係者に大きな影響があります。確認します」
葛原は、しばらく怜司を見ていた。
「本当に、宗一郎とは違うな」
「それは良い意味ですか」
「分からん」
老人は少し笑った。
「だが、悪い意味ではない」
録音が始まった。
怜司は最初の質問をした。
「葛原さん。あなたは、いつからアラムと伊佐衛門のことを知っていましたか」
葛原は、深く息を吐いた。
「子どもの頃からだ」
「誰に聞きましたか」
「祖父だ。葛原家は記録を預かる家だった。座帳そのものは寄合座のものだが、写しや要点は葛原家にも伝わっていた」
「その時点で、キリストの墓という伝承とは別の真相があると知っていた?」
「知っていた」
「それでも、伝承は続いた」
「続けた」
葛原は訂正した。
「自然に続いたのではない。わしらが続けた」
怜司はメモを取った。
「なぜですか」
「恐ろしかったからだ」
「何が?」
「本当のことが外へ出ることが」
葛原は窓の外を見た。
「村は小さい。昔はもっと閉じていた。外からの噂に弱かった。アラムのことも、伊佐衛門のことも、清之進のことも、表に出れば村は壊れると思っていた」
「でも、隠したことで別の形で壊れた」
「そうだ」
葛原は即答した。
「そうだ。わしらは、壊れるのを先延ばしにしただけだった」
怜司は次の質問をした。
「昭和四十八年、久我玲一さんが来た時、あなたは何を恐れましたか」
葛原は少し黙った。
「久我は、ただの物好きではなかった」
「どういう意味です」
「最初に来た時は、よくいる研究者の一人だと思った。キリストの墓に興味を持ち、歌を聞き、写真を撮る。だが、あの男は違った」
「何が違ったんですか」
「笑わなかった」
葛原の答えは短かった。
「笑わなかった?」
「観光客も、物書きも、記者も、たいていはどこかで笑う。キリストが青森に来たなど、面白い話だとな。だが久我は笑わなかった。墓を見ても、歌を聞いても、村人の話を聞いても、笑わなかった」
葛原は目を閉じた。
「それが怖かった」
怜司は黙って聞いた。
「久我は、伝承を面白がっていたのではない。伝承の下に、人間がいると見ていた」
「アラムや伊佐衛門に近づいた」
「そうだ」
「父は、久我さんと最初から対立していたんですか」
葛原は首を横に振った。
「違う。宗一郎は、久我と何度も話していた」
怜司の手が止まった。
「何度も?」
「ああ」
「父は、久我さんを止める側だったのでは?」
「止める側になったのは最後だ」
葛原は言った。
「それまでは、宗一郎自身も揺れていた」
怜司は父の若い頃を想像しようとした。
できなかった。
自分が知っている父は、すでに沈黙の人だった。
だが、昭和四十八年の父は若かった。
迷い、揺れ、外から来た研究者の言葉に耳を傾けていた。
「父は、公表しようとしていたんですか」
「一度はな」
葛原の答えに、怜司は息を呑んだ。
「本当に?」
「宗一郎は言った。アラムの名を戻すべきだ、と。伊佐衛門をキリストと呼び続けるのは間違っている、と」
怜司の胸が痛んだ。
父も同じ場所に立っていたのだ。
自分と同じように。
だが、その後に止まった。
「なぜ、考えを変えたんですか」
葛原はゆっくり怜司を見た。
「榊原だ」
「榊原道隆?」
「そうだ。あの男は、久我が掴んだ話を使おうとした。キリスト伝承の真相、村に眠る異国の子、冤罪の墓守。そう売れば人が来る、金になる、と」
怜司は拳を握った。
「四十年前から……」
「宗一郎は、それを見て怖くなった」
葛原は言った。
「真実は、出せば終わるものではない。出した瞬間、誰かに奪われることもある。宗一郎はそう考えた」
「だから隠した」
「そうだ」
「でも、その結果、久我玲一さんは死に、悠一さんも死んだ」
葛原は目を閉じた。
「そうだ」
老人は逃げなかった。
その「そうだ」は重かった。
怜司は、次の質問に移るまで少し時間がかかった。
「父は、悠一さんを助けなかったことをどう話していましたか」
葛原の手が毛布を握りしめた。
「話さなかった」
「一度も?」
「一度だけ言った」
「何と」
葛原は視線を落とした。
「俺は、雪の音を聞いていた、と」
怜司は眉をひそめた。
「雪の音?」
「あの日、悠一が沢の下で助けを呼んでいた。風も強かった。雪も崩れていた。修二は止めた。今降りれば自分たちも死ぬ、すべてが終わる、と」
葛原の声が震えた。
「宗一郎は、悠一の声を聞きながら、雪の音のせいにした」
怜司の胸が締め付けられた。
雪の音。
青森の雪は、音を奪う。
第一話で自分が感じたことが、ここで残酷な意味を持った。
父は、悠一の声を聞いていた。
けれど、聞こえないふりをした。
雪の音が奪ったことにした。
「父は、自分を責めていましたか」
葛原は頷いた。
「責めていた。だが、責めているだけだった」
「どういう意味ですか」
「罪悪感は、時に逃げ場になる」
葛原は言った。
「自分を責めていれば、行動しなくて済む。宗一郎は長い間、その中にいた」
怜司は返す言葉を失った。
それは、父に対してだけの言葉ではない。
自分にも刺さった。
自分もまた、父を責めていれば楽だった。
冷たい父、隠した父、弱かった父。
そう裁けば、自分はその先へ行かなくて済む。
だが、それでは名を返したことにはならない。
「葛原さん」
怜司は声を整えた。
「あなた自身の罪は何だと思いますか」
葛原は逃げずに答えた。
「書かなかったことだ」
「座帳には書きました」
「全部ではない」
葛原は首を横に振った。
「わしは、事実の形だけを書いた。だが、誰が何を恐れ、誰が何を言い、誰が沈黙したのかを書かなかった」
「なぜです」
「それを書けば、人間が残るからだ」
怜司は意味を考えた。
葛原は続けた。
「事実だけなら、まだ耐えられる。誰が落ちた、誰が見た、誰が隠した。だが、人間の言葉を残せば逃げられない。宗一郎が震えていたこと。修二が泣いていたこと。悠一が最後に歌ったこと。久我が怒鳴ったこと。榊原が笑ったこと」
葛原の目に涙が滲んだ。
「それを書けば、わしらは怪物ではなく、人間として裁かれる。それが怖かった」
怜司は録音中のスマートフォンを見た。
今、葛原は人間として語っている。
隠した者として。
記録した者として。
逃げた者として。
「今の話を、記事にしてもいいですか」
怜司は聞いた。
葛原は、長い時間黙っていた。
やがて、頷いた。
「書け」
「名前も出しますか」
「出せ」
「葛原さん自身の名前も?」
葛原は怜司を見た。
「出せ」
その声は震えていた。
しかし、逃げていなかった。
「ただし」
「はい」
「修二のことは、怪物にするな」
怜司は黙って頷いた。
葛原は続けた。
「あいつは久我を落とした。修二の罪は消えん。だが、あいつも四十年、あの日から戻れなかった」
「分かりました」
「分かったと言うな」
葛原の声が少し強くなった。
「書く時に、分かろうとしろ」
怜司はその言葉を受け止めた。
「はい」
取材はそこで一度止まった。
葛原の体力が限界だった。怜司は録音を停止し、深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
葛原は窓の外を見たまま言った。
「礼を言われることではない」
「それでも、ありがとうございました」
休憩所を出ると、外の雪は少し弱まっていた。
澪が待っていた。
「どうでしたか」
怜司はすぐには答えられなかった。
代わりに、空を見た。
灰色の雲の隙間から、淡い光が差している。
「父は、一度はアラムの名を返そうとしていたそうです」
澪は静かに頷いた。
「そうですか」
「でも、榊原に利用されることを恐れて、止まった」
「はい」
「その結果、久我玲一さんが死に、悠一さんも死んだ」
澪は何も言わなかった。
怜司は続けた。
「父は、悠一さんの声を聞こえないふりをした」
澪の目が揺れた。
「雪の音のせいにして」
その言葉に、澪は唇を噛んだ。
しばらく沈黙があった。
やがて澪が言った。
「それでも、聞いていたんですね」
怜司は彼女を見た。
「え?」
「聞こえなかったのではなく、聞いていた。だから、最後に悠一の声を墓へ入れた」
怜司は苦く笑った。
「それで救われるとは思えません」
「救われません」
澪ははっきり言った。
「でも、書くことはできます」
その言葉が、怜司の中に静かに落ちた。
救われない。
それでも、書くことはできる。
それが今の自分にできることだった。
昼過ぎ、怜司は資料館の仮設待機所で第二報の構成を書き始めた。
まだ本文ではない。
構成だけ。
第一部:未確認情報の拡散と現場保全。
第二部:伝承地で確認された地下遺構。
第三部:座帳という記録の存在。
第四部:名を消費しない報道の必要性。
第五部:証言編へ続く。
固有名はまだ抑える。
ただし、隠さない。
慎重に段階を踏む。
その作業をしていると、編集デスクから電話が入った。
「三上、第二報の件だ」
「はい」
「社内で揉めてる」
怜司は目を閉じた。
予想していた。
「もっと強い見出しにしろって声がある。アクセスが取れるからな」
「駄目です」
「分かってる。俺も止めてる」
上司の声は、いつもより低かった。
「ただ、上からも言われてる。お前が現場に近すぎる。感情が入りすぎてるんじゃないかって」
「入っています」
怜司は正直に言った。
電話の向こうが黙った。
「入っています。でも、だからこそ雑に扱えません」
「三上」
「客観性が必要なのは分かっています。だから、証言と資料を分けます。未確認のことは未確認と書きます。個人的な関係は社内に開示します。それでも、僕に書かせてください」
しばらく沈黙があった。
やがて上司が言った。
「一本だけだ」
「はい」
「次の原稿を見て判断する。駄目なら外す」
「分かりました」
「三上」
「はい」
「いい記事を書け。いい話じゃなくて、いい記事だ」
怜司は、少しだけ笑った。
「分かっています」
電話を切ると、澪が近くでこちらを見ていた。
「大丈夫ですか」
「一本だけ猶予をもらいました」
「厳しいですね」
「当然です」
怜司はノートパソコンを開いた。
「僕は当事者です。記者としては危うい」
「でも、当事者だから見えるものもあります」
「それを言い訳にしないようにします」
澪は頷いた。
「手伝えることはありますか」
怜司は少し考えた。
「ナニャドヤラの歌について、一般に公開してよい範囲と、まだ伏せるべき範囲を整理してください」
「分かりました」
「それと、十和田家として、今後どう語るかも」
澪は息を呑んだ。
「今すぐですか」
「無理なら後で」
澪は少しだけ考えた。
そして首を横に振った。
「やります」
彼女はノートを開いた。
「十和田も、もう歌で隠さないと決めたので」
その言葉を聞いて、怜司も原稿を書き始めた。
最初の一文は、すぐには出てこなかった。
何度も書いては消した。
「青森県新郷村の伝承地で――」
違う。
「キリストの墓として知られる場所で――」
違う。
「雪に閉ざされた村で――」
小説ではない。
怜司は目を閉じた。
記事だ。
事実から始める。
だが、人間を消してはいけない。
しばらくして、ようやく一文を書いた。
――青森県新郷村の伝承地周辺で確認された地下遺構と古記録について、警察と関係者による確認作業が進んでいる。
淡々としている。
でも、それでいい。
次に、こう続けた。
――一方で、現場画像の一部がインターネット上で拡散し、宗教伝承と結びつけた断定的な情報も見られる。関係者は、故人の尊厳と地域の生活を守るため、確認されていない情報の拡散を控えるよう求めている。
書きながら、怜司は思った。
これは、まだ入口だ。
アラムの名も、伊佐衛門の名も、悠一の声も、父の罪も、まだ本文には出てこない。
だが、入口を間違えなければ、いつか届く。
焦るな。
父のように止まるな。
榊原のように利用するな。
久我のように急ぎすぎるな。
葛原のように形だけ残すな。
悠一のように声を残せ。
怜司はキーボードを打ち続けた。
外では、雪が少しずつ解け始めている。
屋根から水滴が落ちる音がした。
ぽたり。
ぽたり。
ぽたり。
その音は、地下の水路で聞いた音に似ていた。
墓の下には、海がある。
海はまだ見えない。
だが、水は流れている。
隠されていたものは、少しずつ動き始めている。
夕方近く、第二報の原稿が完成した。
怜司は送信前に、最後の段落を見直した。
――伝承は、地域に受け継がれてきた大切な記憶である。一方で、その背後に実在の人物や故人の記録がある場合、興味本位の消費ではなく、慎重な確認と敬意ある扱いが求められる。今回確認された資料についても、関係機関による調査と、地域住民の声を踏まえた検証が必要だ。
怜司は、その下に一文を加えた。
――本紙では今後、関係者の証言と資料確認をもとに、この伝承がどのように守られ、また隠されてきたのかを継続的に取材する。
送信。
画面に、送信完了の表示が出た。
怜司は息を吐いた。
その瞬間、背後で透の声がした。
「三上」
振り返ると、久我透が立っていた。
手には、古い封筒を持っている。
「それは?」
「父の手記の原本だ」
怜司は目を見開いた。
「いいんですか」
「読め」
透は封筒を差し出した。
「ただし、条件がある」
「何ですか」
透は、まっすぐ怜司を見た。
「父を英雄にするな」
怜司は封筒を受け取った。
「約束します」
「それと、宗一郎を悪人だけにするな」
その言葉に、怜司は動きを止めた。
透は少しだけ目を逸らした。
「俺は、あんたの父親を許していない。たぶん一生許せない。だが、今日の話を聞いて分かった。宗一郎もまた、真実に潰された一人だった」
怜司は封筒を見つめた。
「ありがとうございます」
透は短く頷き、外へ出ていった。
怜司は封筒を開けた。
中には、革表紙の古い手帳が入っていた。
久我玲一の手記。
その最初のページに、細い字で一文が書かれていた。
――この村の謎は、キリストが来たかどうかではない。
――人はなぜ、誰かを神にしなければ耐えられなかったのか、である。
怜司は、その一文を長く見つめた。
やはり、久我玲一も見ていた。
聖者ではなく、人間を。
伝承ではなく、その下に埋められた痛みを。
その時、資料館の外から澪の歌が聞こえた。
ナニャドヤラ。
ナニャドナサレノ。
ナニャドヤラ。
今度の歌は、取材の始まりを告げるように聞こえた。
怜司は手帳を閉じ、ノートパソコンの横に置いた。
証言の朝は終わった。
だが、記録の夜はまだ長い。
そして怜司は、初めて心から思った。
父の沈黙を終わらせるために、自分は書くのだと。
お読みいただきありがとうございます。
第13話では、第二章として「記事を書くための証言集め」が始まりました。
葛原の証言により、宗一郎が一度はアラムの名を返そうとしていたこと、しかし榊原に利用されることを恐れて止まったことが明かされます。
次回は、久我玲一の手記を読み解きながら、外から来た研究者が何を見つけ、どこで判断を誤ったのかへ進みます。




