電車に乗りたい。
その後、ものすごく嬉しそうにする草井医師の妻に可愛い服を着せてもらう朝霧。
意外にも、女物の服を着ることに抵抗は無かった。冷静さが仕事をしたため、「女性服が似合う」と客観的に認識できたからだ。
その後は草井の妻、佳乃に「帰りに他の衣類も貰い受ける」と約束をした。かかり気味の佳乃に約束させられたとも言える。
そして、「困ったら電話してもいいですよ」と草井医師の名刺を持たされ、夫妻に深々と頭を下げてから朝霧は肛門科を後にした。
夏色のワンピースにデニムレギンスを合わせ、暑いからと帽子も被せてもらい、明るい柄のスニーカーを履いた、草井医師の娘の一昨年の身体サイズと完全一致の朝霧。
そんな彼女は今、困惑していた。
「なにが、どう?」
駅の改札で立ち尽くす朝霧。
言わずもがな、電車の乗り方がわからないのだ。まぁ、わかるはずもない。
祖父と母に甘やかされて育ち、尚且つ当人の地頭もあまり良くない彼女は、「駅員に聞く」という発想すら出てこず途方に暮れていた。性転換をして肛門科に駆け込む馬鹿さは伊達ではない。
視線をさまよわせ、もうこれは草井医師に電話するしかないのでは、と思い始めた時…
「どうかされましたか?」
背後から、優しげな声がかけられる。振り向いて息を飲んだ。
朝霧も、そして相手も。
相手が息を飲んだのは、朝霧が余りにも美少女過ぎたから。
朝霧が息を飲んだのは…
「久能詩子……さん」
それが、知っている人だったからだ。
久能詩子。
朝霧のクラスメイトで、九醸家に連なる分家の筆頭、久能家の長女である。
「あら、私をご存知?」
知っているも何も、同じクラスである。
そして、ただのクラスメイトであれば、朝霧にとってどれだけ良かったことか。
「はい、しってます」
「そう? でも申し訳ないわ。私は知らないみたい。あなたみたいな美少女、見たら絶対に忘れないはずだもの」
かつて、朝霧は久能詩子を配下に加えようとしたことがある。
何せ分家だ。格下の家だ。筆頭といえ分家は分家。本家の長男である自分には当然、かしずくものだと思い込んでいた。
だが、そうはならなかった。
ひと昔前であればともかく、現代日本においては原則、理不尽を強制したりはできない。
とはいえ、九大家の影響力は未だ絶大なので、本来なら無視できるものでは無い。
しかし、朝霧の対外的評価は極めて低く、将来的に九醸の要職につくことはないだろうというのが公式の見解だ。
とはいえ、九醸の当主に溺愛されていることも公然の事実。なので、九醸の当主に取り入りたい者は朝霧に尻尾を振る。
だが、久能詩子は違う。
彼女は強く賢く気高く美しい。自分に自信があり、どんな境遇でも己が力でのし上がる
気概をもっている。
故に、媚びない。
なので、「僕の側に侍ることを許すぞ」とニヤついて話しかけてきた朝霧を正論でボコボコにした過去があった。
「えっと、僕は九大家の関係者でして、それでお見かけしたことが…」
「あら、そうなのね」
そんな経緯があり、意気地の無い朝霧は久能詩子に対して強い敗北感がある。極力関わりたくないと思っていて、今現在も内心はびびっていた。
「あの、ですね。星河大学駅に行きたいんです。でも電車の乗り方がわからない」
本心では逃げ出したい。今までなら確実に逃げ出していただろう。
しかし、今は違う。今の朝霧は冷静で、「なんか助けてくれそうだから、遠慮なく助けてもらおう」と、苦手意識より実利を取ることが出来た。
「そう、なら私が案内して差し上げるわ」
久能詩子は考える。
こんな美少女を知らないはずがない、と。
度を越した美少女は確実に九大家の関係者であり、そして度を越しているのだから当然、無名であるはずが無い。確実に名が知られているはずだ。こんな美少女を隠しておける筈がないのだから。
なのに知らない。一度見たら一生忘れられない程の美少女なのに。
つまりこれは訳ありであろう。
本来なら、関わるべきではない。
しかし、幼気な美少女を放置するのもまずい。
どちらにせよ問題がある。
ならば、思うままにするのが久能詩子だ。
「駅は混むから、手を繋いでいきましょうか。逸れるといけないわ」
「あ、はい、お願いします」
故に、美少女を堪能することに決めた。
久能詩子は己に忠実である。
この出会いがどう転ぶかは分からないが、丁寧に親切に接して損はないと判断した。
「……かわいいわ」
「え?」
「なんでもないわ」
「はい?」
そして、これだけの美少女の手を合法的かつ無償で握れることを、久能詩子はことのほか喜んでいた。
そう、久能詩子はどちらもいけるし、状況が許し相手が満更でもなければ、ノンケだって喰っちまう女なのだ。




