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蒼星歴九四二年/七月/一七日

蒼星歴九四二年/七月/一七日

今日は今年になって初めて脱皮の日──だった。

でも、上官が言うにはバロータ湖で戦闘が始まったらしいから、休憩時間抜きで歩く羽目になった。


一応は休憩時間もあったけど──脱皮期に入っだからか異常に痒いし、クリームさえ塗れないし、飯は不味いし、これからどうなるのかが分からないからちょっとだけ不安の方が優ってる気がする。

ここで弱気になったところで後々上官から怒られそうだから、とりあえずはこの日記帳にその思いを書くことにした。


──ここだけなら、弱音を吐き出せるしね。

ドヴェルグの首狩り兎こと、ドワーフの独裁者であるザクセン・カニンヒェンにより、亜人国家の一つであるヤシリツァ国に侵攻したのは、六月二八日のことであった。

ヤシリツァ国に侵攻したドヴェルグ軍は、まず最初に南方に向けて進軍する傍ら、そのまま市街地への攻撃を開始していた。


その際、ドヴェルグ第二軍と装甲第四軍が中心となって進軍しており、既にチェシュヤ川の下流に向けて進んでいた。

当然ながら、ヤシリツァ軍もこれに応戦したことにより、戦いはこの時点では泥沼と化していた。


より正確に言えば、チュシュヤ川の本流にしてヤシリツァ国に存在する湿地帯の一つ──バロータ湖での戦いが苛烈化していたので、文字通りの泥沼に塗れての戦いが続いていた。

なので、フヴォーストの街の近くに居たリザードマンの兵士の多くは、急遽という形ではあったがそこへ派遣されることになり、一人の兵士だったイワンもまた隊列を組む形でバロータ湖へ向かっていた。


「いきなりバロータ湖に向かうとか、あそこで何かあったのか?」


「さぁ?」


この時、イワンを含めた兵士達の空気は非常に和やかなものであり、穏やかな雰囲気が流れていた。

そう、誰もこの戦いの激しさを知らなかったのである。


それに加え、この時期になると季節の変わり目に対応するために脱皮をするリザードマンが多かった。

そのため、異常な痒さに耐えつつの行軍だったためか、その道中には脱皮したリザードマンの皮が所々に捨てられていた。


それを歩きつつも見ていたイワンは、随分と勿体無いことをするなと思っていた。

何しろ、リザードマンにとって脱皮は年に数回の生理現象ではあったものの、それでも彼のようにその皮を取っておく者も少なくはなかった。


だがしかし、そう思っていても流石に脱皮に伴う痒さにには耐えかねたようで、彼は次第にポリポリと顔を掻き始めていた。


事実、彼のように脱皮期が被ったリザードマンはそれなりに居たようで、フヴォースト攻防戦後のチュシュヤ川の周辺──特に軍用として整備した道の脇には、リザードマンの脱皮後の皮らしき物があちらこちらに落ちていた。

そして、それを見た現地のリザードマン達が兵士達の供養のためにそれを回収し、その遺族を数十年もの時間をかけて特定したのはまた別の話である。


とにかく、脱皮時の痒さに耐えながらの行軍は地獄であったものの、その行軍を指揮していた上官の厳しい目もあってなのか、誰もその隊列を崩してまで脱皮を行おうとする者は居なかった。


こうして、イアンを含めたリザードマンの兵士が休む暇も脱皮する暇も与えられないまま、バロータ湖に向かうこと数時間後──彼らは完全に疲労困憊の色を見せ始めていた。

しかし、それでも足を止めずに動き始めていたため、彼らの限界が近くなってきていた。


そんな中、彼らの上官は流石に休憩を入れようと思ったのか、チュシュヤ川の近くで休憩を取ることになり、彼らは心の中で歓喜の声を上げたのは言うまでもない。


「あ〜──痒い!!」


「何でまた、この時期に脱皮が被ったのやら」


イワンとニコライは脱皮期の痒さ故に、軍服越しにその体を掻いていた。

それは他のリザードマンの兵士も同じだったのか、同じく痒さに耐えることが出来ない様子となっていた。


しかしながら、敵の背後を狙われると言う理由で脱皮が思うようにいかなかったため、案の定兵士達は疲労と共に不満が溜まりつつあった。

兵士達がそう思っているとは知らない上官は、結局五分で休憩を切り上げた後、そのまま行願を続けようとしていた。


と言うのも、上官には通信経由で対ドヴェルグ殲滅作戦こと、ヤシリツァ緑軍特別号令二二七号と呼ばれる指令が降っており、その指令を全うするために軍を半ば強引な形で指揮していたのだ。


このヤシリツァ緑軍特別号令二二七号は、ヤシリツァ国王であるリザードマン──ツァーリⅡ世の名によって、軍の退却を禁止する指令として発動されたもの。

つまり、ここからは誰一人として逃げることが許されない状況となりつつあったため、上官は内心焦っていたのである。


なお、この命令は『一歩も後退してはならない』


ただ、そのことなど知らないイワン達のようなリザードマンの兵士達は、疲労が少しだけ回復したものの、不満だけが溜まった状態で再びバロータ湖に向けて進軍していた。

それに加え、脱皮した箇所に塗るであろうクリームでさえ支給されなかったため、彼は応急的な処置として水──あるいは靴のクリームを塗る物さえ現れ始めていた。


「たくっ、トイレどころかクリームを塗る暇も与えてくれないのかよ」


イワンはそう愚痴を漏らしつつも、その声が上官に聞こえないように気にしていたのか、キョロキョロと周りを見渡していた。

それを見たニコライは呆れていたが、気持ちは一緒だったので特に何も言うことはなかったが、隊列が乱れない範囲で彼に対し、肘で突いていた。


ちょうどその時、整備された道の近くの草陰から何か音がしたため、イアンが見上げてみたところ──そこには、木に吊るされていたコボルトの死体があった。

正しくは、ドヴェルグ側の軍服を着た比較的に新しいコボルトの死体だったため、イアンは思わず胃の中の不味い軍用食を吐きそうになっていた。


彼は軍の兵士になったとは言え、当たり前だが死体とは無縁な生活を送っていた。

それは他の兵士も同じだったため、彼らもまたコボルトの死体を見たのが原因で、精神的なショックを受けていたのだった。


「ォ、オェ──」


「オイ!!しっかりしろ!!」


ニコライの掛け声により、何とか正気を取り戻したイアン。

上官の軍人はこの死体に対し、"ドヴェルグの犬め"と呟いた後、ワルサーP3の銃弾を何発か放っていた。


結局、その記憶はイアンの脳内に強く刷り込まれてしまったのか、彼はフヴォースト攻防戦が終わってもなお、この光景を二度と忘れることはなかった。


そして、数日を掛けてバロータ湖へと向かった彼らを待っていたのは──紛うことなき地獄であった。

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