第56話 森の主
銀脈草を回収したあとも、赤いショートをゆっくりと北へ進ませていく。
セラフィナイト大森林は、奥へ入るほど少しずつ様子が変わってきた。
木々はさらに太くなり、地面を覆う苔も深い。
ところどころに見たことのない花が咲き、木漏れ日を受けて鮮やかな色をのぞかせている。
「バンデランテ。このあたりも通ったのか?」
「うむ。今朝は南へ向かっておったから、今とは逆方向じゃがな」
「じゃあ、しばらくはお前が通った場所をたどる感じか」
「そうなるのう」
俺はレーダーを確認しながら、赤いショートをゆっくり進ませる。
今のところ、目立った反応はない。
「このあたりは魔物も少ないんですかね」
「少ないとは限らんぞ。大森林の奥じゃ。何がおっても不思議ではない」
「それもそうか」
アーマー・グリズリーだっている森だし、油断するつもりはない。
「きゅ……」
後部座席から、小さな鳴き声が聞こえた。
振り返ると、バハが良太の横で丸くなっている。
「バハちゃん、完全にお昼寝モードですね」
「きゅ~……」
「まあ、何かあったら起きるだろ」
俺は再び前へ向き直る。
拠点に停めたグレーの105の中は平和そのものだ。
その一方で、遠く離れたセラフィナイト大森林では、無人の赤いショートが木々の間を進んでいる。
改めて考えると、変わった探索方法だ。
そのとき――
「先輩」
「ん?」
「レーダー、何か変じゃないですか?」
良太に言われ、表示へ目を向ける。
「……なんだこれ?」
赤いショートを中心に表示されている地形図を見ると、進行方向に青く塗られた小さな場所がある。
「水か?」
「みたいですね」
「こんなところに?」
川ではなく、円に近い形をしている。
大きさから考えると、池か泉だろう。
「ちょうどいいな。見てみるか」
そう言って赤いショートの進路を変えようとしたところで――
「待て」
バンデランテが低い声を出した。
「どうした?」
「どこに水があると言った?」
「あそこだ」
俺はレーダー上の青い場所を指さす。
「ここからそんなに離れてない。たぶん泉か何かだと思う」
「…………」
バンデランテが眉間へ深くしわを寄せた。
「おかしい」
「何が?」
「そんなところに泉なんぞなかったぞ」
「え?」
「今朝、わしはその近くを通っておる」
バンデランテがレーダーをのぞき込む。
「方角も間違いない。このあたりじゃ。じゃが、泉など見ておらん」
「見落としたんじゃないですか?」
「これほど近くなら気づくわい。それに、水場があれば周囲の様子も変わる。旅をしとれば、水場は嫌でも気にするものじゃ」
たしかに。
俺たちと違って、普通の旅人にとって水場は重要だ。しかも、バンデランテはほんの数時間前にこのあたりを通っている。
「今朝はなかった泉が、今はあるってことか?」
「そんな馬鹿な話があるか」
とはいえ――気になる。
「行ってみるか」
「うむ。わしも確かめたい」
赤いショートの向きを変える。
レーダーに表示された水場までは、それほど遠くない。
シルフが下草を刈り、邪魔な枝を避けながら進んでいく。
百メートル。
五十メートル。
やがて、ドラレコ映像にも変化が現れた。
「……明るくなってきたな」
「木が少ないですね」
それまで密集していた木々が、少しずつまばらになっている。
さらに進むと――
「……あった」
木々が途切れ、その先に小さな泉があった。
直径は二十メートルほどだろうか。
円形に近い水面は、風もないのにわずかにゆれ、木漏れ日を反射して淡い青緑色に輝いている。
水は恐ろしいほど澄んでいて、底まで見える。
泉の周囲には柔らかな草が生え、その中に白や青の小さな花が咲いていた。
「きれいですね……」
「これは……」
バンデランテが呆然と映像を見つめる。
「本当に知らないのか?」
「知らん」
返事は早かった。
「断言できる。今朝、こんな場所はなかった」
「泉だけじゃなくて?」
「この空間そのものじゃ。今朝は普通に木が生えておった」
つまり、泉だけが突然現れたわけではない。
「良太。【遠隔買取査定】で水を調べられるか?」
「やってみます」
良太がタブレットを操作する。
「…………」
「どうだ?」
「ちょっと待ってください」
いつもなら、すぐに結果が出る。
だが今回は違った。
「……ダメですね」
「ダメ?」
「査定できません」
「範囲外か?」
「いえ。そうじゃなくて……」
良太がタブレットをこちらへ向けた。
《査定対象外》
「対象外?」
「こんな表示、初めて見ました」
これまで魔物や植物、鉱石まで調べられた【遠隔買取査定】が、まさかの対象外。
「ただの泉じゃなさそうだな」
「そのようじゃのう……」
バンデランテの声も、いつもより低い。
俺は赤いショートを泉の手前で停止させる。
そのときだった。
「きゅっ!」
突然、後ろから鋭い声が上がった。
「バハ?」
振り返る。
さっきまで丸くなって眠そうにしていたバハが、立ち上がっていた。
翼をわずかに広げ、じっと北の方角を見ている。
「どうした、バハちゃん?」
「きゅ……」
いつもののんきな声とは少し違う。
かといって、警戒しているようにも見えない。
何か気になるものでもあるのか?
「バハ。向こうに何かいるのか?」
「きゅぅ……」
バハが小さく首をかしげる。
ここから赤いショートまでは、かなり離れている。
泉なんて見えるはずもない距離なのに、この反応。
「先輩」
「わかってる」
俺はドラレコ映像へ視線を戻す。
静かな泉。
ゆれる水面。
周囲には何もいない。
レーダーにも――
「……ん?」
見慣れない点があった。
「良太」
「僕も見えてます」
泉の反対側、さっきまで何も表示されていなかった場所に、小さな白い点が一つ。
「白?」
今まで見たことのない色だ。
敵対する魔物は赤、人間は青、バハは緑、味方の車両は黄色。
だが、白は知らない。
「なんじゃ?」
バンデランテも表示に気づく。
「何かおるのか?」
「わからない」
俺はドラレコの視点を白い点へ向ける。
泉の向こう、木々の間には何もいない。
いや――
「……動いた」
木々の奥で、白い何かが動いた。
俺たちは誰もしゃべらない。
やがて、木陰から真っ白な毛に覆われた、太くしなやかな一本の前脚が現れた。
続いて、ゆっくりと巨体が姿を現す。
「……狼?」
思わずつぶやいた。
形だけなら狼に見える。
だが、明らかに普通の狼ではない。
四足で立った状態でも、赤いショートの屋根を見下ろすほど大きい。
雪のように真っ白な体毛は、木漏れ日を受けるたびに淡い銀色の光沢を浮かべている。
そして何より――
「……きれいだな」
その姿からは、魔物のようなまがまがしさを感じない。
森そのものが形を取って現れたような、不思議な静けさがある。
白銀の狼は音もなく泉の縁までゆっくりと歩いてきた。
あれほどの巨体なのに、ほとんど足音がしない。
風もないのに、その周囲の木々だけがかすかにゆれている。
「…………」
バンデランテが何も言わない。
「知っているのか?」
「……知らん……あんな狼は見たことがない」
ようやく返ってきた。
「わしも長く生きてきた。いろいろな魔物やその素材も見た。じゃが……」
バンデランテが画面から目を離さない。
「少なくとも、わしの知る魔物にはおらん」
「魔物じゃないのか?」
「わからん」
白銀の狼は水際で立ち止まった。
首を下げる。
水を飲むのかと思った。
だが――
止まった。
「……こっち見てません?」
良太がつぶやく。
「俺にもそう見える」
白銀の狼が顔を上げた。
そして、まっすぐこちらを見た。
「…………」
赤いショートを見ている――いや、違う。
なぜだかわからないが、そうじゃないとわかる。
こいつが見ているのは、その先だ。
遠く離れた湖畔にいる、俺たちを見ている。
白銀の狼が、ゆっくりと首をかしげた。
「……俺たちが見えてるのか?」
「そんな感じがしますね……」
「きゅー……」
後部座席で、バハが小さく鳴いた。
すると――白銀の狼の耳がぴくりと動く。
「……え?」
あり得ない。
バハがいるのは、遠く離れたグレーの105の車内だ。声が外へ漏れるはずもないし、無線で送ったわけでもない。
それに、仮に声が届いたとしても早すぎる。この距離を音が伝わるには、もっと時間が掛かるはずだ。
それなのに、白銀の狼はたしかに何かを聞いたように顔を上げた。
「バハの声が聞こえたのか……?」
「きゅ」
白銀の狼はしばらくこちらを見つめていた。
やがて、その大きな頭をゆっくりと下げる。
まるで――
「……挨拶された?」
「そんな感じに見えましたね」
俺も同じことを思った。
敵意はまったく感じない。
俺たちの存在を確かめに来た――なぜか、そんな気がした。
白銀の狼はそのままゆっくりと泉へ顔を戻し、水面へ口元を近づける。
舌が水面に触れるたび、鏡のような水面に小さな波紋が広がっていく。
あれだけ大きな身体なのに、水を飲む姿には荒々しさがまるでない。
しばらく泉の水を飲んだあと、白銀の狼はゆっくりと顔を上げた。
口元から落ちたしずくが水面を打ち、最後の波紋を広げる。
白銀の狼は身体の向きを変えると、そのまま泉の縁を離れて森へ向かい、少しずつ木々の間へ隠れていく。
そして森へ入る直前、一度だけ振り返ってこちらを見る。
次の瞬間、真っ白な毛並みが淡く輝き、ふわりと白い光が広がった。
「……!」
ドラレコ映像が一瞬、真っ白になった。
すぐに視界が戻る。
「消えた……?」
白銀の狼はいない。しかも、それだけではなかった。
「泉も……ない?」
さっきまで泉があった場所には、何事もなかったかのように木々が立ち並んでいる。
花も、水面もない。
レーダーを見る。
青く表示されていた水場も、白い点も、両方とも消えていた。
「…………」
しばらく、誰もしゃべらなかった。
最初に口を開いたのは、バンデランテだった。
「……だから言ったじゃろう」
「何を?」
「あそこに泉なんぞなかったと」
俺はもう一度、何もなくなった森を見る。
今朝は存在せず、俺たちが近づいたときに現れ、あの白い狼が去ると同時に消えた。
「泉ごと、あいつが現れたってことか?」
「そう考えるしかなさそうじゃ」
「とんでもないのがいる森だな……」
魔物なのか。
精霊のような存在なのか。
そもそも、生き物なのかすらわからない。
「きゅー」
後ろから、いつもの鳴き声が聞こえた。
振り返ると、バハはもう緊張した様子もなく座席へ伏せている。
「バハ。知り合いだったのか?」
「きゅ!」
「会ったことがあるのか」
バハはあの白銀の狼を知っているように見える。
そして向こうも、バハの存在に気づいていた。
「先輩、追います?」
「いや」
俺は少し考えてから首を振った。
「向こうから姿を見せてくれたんだ。追い回すのは違うだろ」
「僕もそう思います」
「うむ」
バンデランテもうなずく。
「あれが何者なのかは知らん。じゃが、少なくとも敵意はなかった」
「そうだな」
それで十分だ。
俺は赤いショートを動かそうとして――
ドラレコ映像の中で、いくつもの光が慌ただしく動いているのに気づいた。
「ん?」
シルフとノームたちだ。
さっきまで白銀の狼がいたあたりを、何体もの精霊が行き来している。
「先輩、精霊さんたち、なんだか興奮してません?」
「みたいだな」
シルフたちは普段よりもせわしなく飛び回り、ノームたちも地面の近くを行ったり来たりしている。
「どうした?」
俺が無線越しに呼びかけると、いくつもの光がぱっと強くなった。
次の瞬間、精霊たちが一斉に泉があった場所へ飛んでいく。
「何かあるみたいですね」
「見てみるか」
赤いショートを少しだけ前へ進ませる。
すると――
「あれ?」
ドラレコ映像の端で、何かが青く光った。
さっきまで泉のほとりだった場所に、木漏れ日を受けて淡い光を放つ青い結晶が置かれている。
しかも、一つではない。
太い柱状の結晶を中心に、いくつもの細長い結晶が束になっている。
透明感のある鮮やかな青。
その内部では、淡い光が風の流れのようにゆっくりと巡っていた。
「きれいですね……」
「ああ」
シルフたちは青い結晶の周囲をうれしそうに飛び回り、ノームたちもすぐそばで盛んに光を瞬かせている。
精霊たちが騒いでいたのは、これを見つけたからか。
「バンデランテ?」
隣から反応がない。
「おい?」
「…………」
バンデランテは、映像の中の青い結晶を食い入るように見つめていた。
「知ってるのか?」
「……ヴェントディーヴァ」
「何だそれ?」
バンデランテがゆっくりと息を吐く。
「風属性の魔力ときわめて親和性が高い、非常に珍しい宝石結晶じゃ。魔導具や結界の素材に使われる」
バンデランテの目つきが変わり、画面へぐっと身を寄せる。
「しかも、これほど大きなものはそうそう出回らん」
「そんなに珍しいのか?」
「珍しいどころではないわい。わしが山まで来た理由の一つが、これを探すためじゃ」
「探してたものそのものか」
「うむ。風属性の素材はいくつか候補があったが、これが一番じゃ」
バンデランテは画面に映る結晶をしばらく見つめてから、俺と良太へ顔を向けた。
「これだけあれば、おぬしらの腕輪を作ってもまだ余るぞ」
「本当か?」
「うむ。グリフォンの風属性魔核と組み合わせるには申し分ない。これほど上質なヴェントディーヴァなら、わしが最初に考えておったものより、さらに良い防護魔導具が作れるかもしれん」
「それはうれしいですね」
良太の声も弾む。
俺も同感だ。
マオからもらったSランクの魔核と、バンデランテが探していた風属性の宝石結晶。
これで腕輪に必要な素材が、また一つ揃った。
「良太。査定できるか?」
「やってみます」
良太が【遠隔買取査定】を操作する。
今度は、すぐに結果が表示された。
「出ました。ヴェントディーヴァで間違いないです。風属性の高位宝石結晶……回収もできますよ」
すると、バンデランテがすぐに口を開いた。
「売るなよ。そのまま持ち帰ってくれ。おぬしらの腕輪に使う素材じゃ」
「もちろんです」
「じゃあ頼む」
良太がタブレットを操作する。
ドラレコ映像の中から、ヴェントディーヴァがふっと消えた。
「こっちに出しますね」
次の瞬間、グレーの105の車内へ青い結晶が現れる。
「おお……」
実物を見ると、映像よりずっときれいだった。
透明感のある青い結晶の内部では細い光の筋が絶えず流れ、まるで風そのものが閉じ込められているように見える。
バンデランテは両手で慎重に受け取った。
窓から差し込む日差しに透かし、角度を変えながらじっくりと観察していく。
「……見事じゃ」
「そんなにいいものなのか?」
「うむ。にごりもほとんどない。魔力の流れも均一じゃ。これなら加工にも耐える」
バンデランテは満足そうに何度もうなずく。
「じゃあ、余った分はバンデランテが使えばいいんじゃないか?」
「よいのか?」
「もともとお前が探していた素材だろ」
「じゃが、見つけたのはおぬしらと精霊たちじゃぞ」
「俺たちの腕輪を作ってくれるんだ。それなら余った分くらい、工房で好きに使ってくれ」
「僕もそれでいいですよ」
良太もすぐにうなずいた。
バンデランテは手の中のヴェントディーヴァへ目を落とし、しばらく眺めたあと、ゆっくりとうなずいた。
「……では、ありがたく使わせてもらおう」
「決まりだな」
俺は再びドラレコ映像へ目を向けた。
さっきまでヴェントディーヴァが置かれていた場所では、シルフやノームたちがまだうれしそうに飛び回っている。
「これ……偶然なのか?」
「どうでしょうね」
今朝まで存在しなかった泉。
そこに現れた、名前もわからない白銀の獣。
そして、そいつが消えたあとに残されたヴェントディーヴァ。
「偶然にしては、できすぎとるのう」
「だよな」
あの白銀の狼が何者なのかは、結局わからなかった。
だが、もし俺たちが欲しがっているものまで知っていたのだとしたら――
「……これ、置いていってくれたのか?」
「その可能性はありそうですね」
「きゅー」
後ろからバハが鳴く。
答えはわからないが、悪い気はしなかった。
「お土産ってことかな」
「きゅ!」
今度は少し元気な声が返ってきた。
「ははっ。そういうことにしておくか」
やがて、シルフやノームたちが赤いショートの周囲へ戻ってきた。
まだ興奮しているのか、いくつもの光がいつもより明るく瞬いている。
「お前たちも、あれが珍しいってわかったのか?」
問いかけると、精霊たちの光が一斉に強く瞬いた。
「やっぱりそうか」
これだけ喜んでいるなら、精霊たちにとっても特別なものなんだろう。
「さて」
俺は【自動操縦】へ意識を戻す。
「そろそろ行くか」
「はい」
「うむ」
赤いショートが再びゆっくりと走り始める。
さっきまで泉があった場所を横切り、そのまま北へ向かう。
ドラレコの後方映像を確認しても、そこにあるのは普通の森だけだ。
白銀の狼も、泉も、もうどこにも見えなかった。
ただ、あの出会いが幻ではなかった証拠だけは、こちらの手元に残っている。
バンデランテが大事そうに抱えている、青いヴェントディーヴァ。
もしかすると、もう二度と会えないのかもしれない。
あるいは――
また、このセラフィナイト大森林のどこかで姿を見せてくれるのかもしれない。
俺はそんなことを考えながら、赤いショートをさらに森の奥へ進ませた。




