第55話 チートなウィンチで崖を登る
赤いショートをさらに北へ進ませていく。
少しすると、木々の向こうで地面が大きくせり上がっている場所が見えてきた。
「ん?」
俺は速度を落とし、ドラレコの視点を少し上へ向ける。
そこには、森の中を横切るように急な斜面が立ちはだかっていた。
崖というほど垂直ではないが、普通の車ならまず登ろうとは思わない急坂だ。
湿った土には落ち葉が積もり、木の根や岩もところどころ露出している。
「バンデランテ。ここか?」
「……うむ」
隣にいたバンデランテが、フロントガラスに映る斜面を見てうなずいた。
「わしが転げ落ちたのは、ここじゃ」
「結構な高さがありますね……」
後ろから良太の声がする。
ドラレコの視点をさらに上へ向けてみる。
斜面の上までは、ざっと見ても二十メートル以上ある。
「こんなところを転げ落ちたのか?」
「好きで落ちたわけではないわい」
「そりゃそうか」
「アーマー・グリズリーに吹き飛ばされての。途中で何度か木にぶつかったから、かえって勢いが殺されたのかもしれん」
「よく生きてたな……」
「わしもそう思う」
本人が言うと妙に重い。
改めて見ると、斜面の途中には折れた枝やえぐれた土がいくつも残っている。
昨日、バンデランテが転げ落ちた跡なのだろう。
「それで、この上から来たんだよな?」
「そうじゃ。この斜面を上へ戻れれば、わしが通ってきたあたりへ出るはずじゃ」
「なら、登ってみるか」
「……あの斜面を、車でか?」
「赤いほうでな」
「本気か……?」
「ちょうど、まだ使ったことのない装備があるんだよ」
俺は赤いショートのフロントバンパーへ意識を向ける。
「ウィンチを試してみよう」
「おお、ついに使いますか」
「うぃんち?」
「簡単に言うと、車を引っ張る装置だ」
「この斜面を?」
「そうだ」
俺は【自動操縦】を通して、赤いショートの【ウィンチ】を起動する。
その瞬間――。
ドラレコ映像の片隅へ、新たな表示が浮かび上がった。
《重界牽引・グラビトン・ユニット起動》
《大精霊グラビトン――接続》
《【3次元牽引(レスキュー・フライト)】使用可能》
「……また大層な名前ですね」
「神様仕様だからな」
俺自身、説明書では読んでいたが、実際に使うのは初めてだ。
赤いショートを斜面の手前まで進ませ、停止させる。
ドラレコの視点を上へ向けながら、ウィンチを固定できそうな場所を探した。
「斜面を登った先に太い木があるな」
「ありますね。あれなら十分じゃないですか?」
「よし。あそこにかけてみる」
俺がウィンチの射出先を指定した。
――ガコンッ。
赤いショートのフロントバンパー内部から、低い金属音が響く。
次の瞬間。
シュバァッ――!
「なっ!?」
バンパーの奥から、黒い鎖が勢いよく飛び出した。
普通のウィンチなら、ワイヤーを人間が引き出して固定するところだ。
だが、このウィンチは違う。
黒金鎖は、まるで意思を持っているかのように空中で軌道を変えた。
木々の間を縫い、
枝を避け、
急斜面を越えて、その奥へ伸びていく。
「鎖が……飛んでおる……」
「俺も実際に見るのは初めてだ」
黒金鎖は斜面を登った先に立つ大木まで到達すると、その幹の周囲をぐるりと一周した。
ガキィンッ!
先端のフックが幹へ接触する。
その瞬間、フックと大木の間へ黒い魔法陣のような光が走った。
《対象へロック》
《分子結合――完了》
《固定強度――正常》
「分子結合って……もう引っかけたってレベルじゃないですね」
「木のほうは大丈夫なんじゃろうな?」
《牽引対象固定点――許容範囲内》
「大丈夫みたいだな」
「そこまでわかるのか……」
俺は巻き上げを開始する。
ギギギギギ……。
黒金鎖がゆっくりと張り詰めていく。
赤いショートのフロントが、わずかに沈んだ。
そして――
ググッ。
車体が斜面へ向かって動き始める。
アクセルはほとんど踏んでいない。
タイヤは地面へ軽く力を伝えているだけだ。
それでも赤いショートは、黒金鎖に引かれながら急斜面へ乗り上げていった。
前輪が土をつかむ。
後輪も続く。
ザザザザッ――
落ち葉と湿った土がタイヤの下から滑り落ちていく。
「結構急だな」
「映像だと余計に怖いですね」
車体が大きく上を向く。
ドラレコ映像の大半を、木々の梢が占め始めた。
《牽引角度 37度》
《負荷 18%》
《大精霊グラビトン――正常》
「十八パーセント?」
良太が表示を読む。
「まだ全然余裕ありますね」
「そうだな」
「待て」
バンデランテが割り込んできた。
「この斜面を登っておるのに、十八パーセントなのか?」
「そうみたいですね」
「残り八十二パーセントは何に使うんじゃ……」
「さあ?」
俺にもわからない。
説明書には、垂直の崖すらウィンチの巻き上げだけで登れると書いてあった。
おそらく、これくらいはまだ本気を出すような状況ではないのだろう。
――ただ、そこで別の疑問が頭をよぎった。
「……でも、ちょっと待てよ」
「どうしました?」
「そもそも、このランクルのエンジンはノーマルなんだよな」
「そうですね」
神様仕様でさまざまな機能が追加されているとはいえ、エンジンそのものは元のランクルと同じだ。
もし本当にこのウィンチを使って垂直の崖を登ったらどうなる?
車体が九十度近くまで傾けば、当然エンジンも同じだけ傾く。
「垂直走行なんてしたら、エンジンオイルが片側へ全部寄るよな……」
「そうなんですか?」
「オイルパンからポンプで吸い上げて各部へ送っているからな。吸えなくなれば油膜切れを起こす。そんな状態で回したら、一分もしないうちに焼きついてもおかしくない」
「普通なら、ですか?」
「そう。普通ならな」
「おぬしら、急に何の話をしとるんじゃ?」
バンデランテにはさっぱりわからないだろう。
「車の中で動いてる機械の話だ。普通は、こんな角度で使うようにはできてない」
「では、登れんのか?」
「いや……」
俺はドラレコ映像に映る赤いショートを見る。
今のところ、エンジンに異常はない。
油圧警告灯が点く気配もなく、異音も聞こえないまま、いつも通り回り続けている。
「エンジンルームには【完全結界(小)】があるんだよな」
「ありますね」
「もしかして、あれが何とかしてくれるのか?」
これまで俺は、【完全結界(小)】は外からの攻撃や水、泥なんかからエンジンを守るものだと思っていた。
だが、神様が最初から【3次元牽引】で垂直な崖まで登ることを想定しているなら――
当然、エンジンオイルが偏ることくらい考えているはずだ。
「結界の中では、オイルが正常に循環するようになっているのかもしれないな」
「そういうところまで神様仕様なのかもしれませんね」
「今度、もっと急な場所で確認してみるか」
「いきなり垂直はやめてくださいね」
「わかってるよ」
さすがに、試すためだけにランクルを崖へ吊るすつもりはない。
「……おぬしら、神が創った車の心配をしておったのか?」
「神様仕様でも、エンジンはノーマルだからな」
「そこだけ妙に現実的じゃのう……」
「大事なところだぞ」
俺にとってはかなり重要だ。
純正の1HZエンジンをおろすつもりはない。
そんな話をしている間にも、赤いショートは斜面を登っていく。
途中、大きく張り出した木の根へ前輪が当たった。
ガクンッ。
「おっ」
車体が一度止まる。
だが次の瞬間――
黒金鎖がわずかに上方へ軌道を変えた。
《牽引軸補正》
《車体姿勢を修正》
グッ――
前輪を無理に木の根へ乗り上げさせるのではなく、車体そのものがわずかに持ち上がる。
そのまま前輪が障害物を越え、後輪も続いた。
「今、車が浮いたぞ?」
「少しだけな」
「それが普通みたいに言うでない!」
「これが【3次元牽引】なんでしょうね」
良太は興味深そうに映像を見ている。
「単純に前へ引っ張るんじゃなくて、上下方向にも引力をかけられるみたいです」
「だからレスキュー・フライトなのか」
「たぶんそうですね」
俺はさらに巻き上げる。
赤いショートは、もはや急坂を自力で登っているというより、斜面に沿って吊り上げられているような状態だった。
タイヤは地面をつかみながら、ゆっくりと前へ進む。
やがて――
車体の角度が少しずつ戻り始めた。
「上が見えてきたぞ」
斜面の先へ、平坦な森の地面が見えてくる。
前輪が斜面の上へ乗る。
続いて後輪。
それでも巻き上げは止まらず、赤いショートはそのまま数メートル先まで進んでいく。
車体全体が平坦な地面へ入ったところで、ようやく黒金鎖の巻き上げが止まった。
《牽引完了》
《車両状態 正常》
《ウィンチユニット 異常なし》
「……とんでもないものじゃな」
バンデランテが、斜面の上に停まった赤いショートを見つめている。
「わしは昨日、あそこを転げ落ちて死にかけたんじゃぞ。それを、誰も乗っとらん車が登ってしまうとは……」
「俺も、ここまでとは思わなかったな」
説明書では知っていたが、実際に見るとまるで別物だ。
空を飛ぶ黒金鎖。
自在に変わる牽引方向。
必要なら車体そのものまで持ち上げる。
「【自動操縦】との相性もいいですね」
「山でもかなり使えそうだな」
俺がウィンチを解除すると、大木へ固定されていたフックが音もなく外れた。
黒金鎖が宙を滑るように戻ってくる。
シュルルルルル――
最後はフロントバンパーの中へ吸い込まれるように収納され、
カチャン。
外から見ただけでは、そこにウィンチがあることすらわからなくなった。
「便利じゃのう……」
「初めて使ったけど、これは頼りになりそうだ」
俺はドラレコ映像へ意識を戻す。
赤いショートの前には、再び木々に覆われた森が広がっている。
ここから先は、バンデランテがアーマー・グリズリーと遭遇する前に通ってきた場所だ。
「このまま北へ行ってみるか」
「うむ。しばらく進めば、わしが通ったあたりじゃ。ただし、道があるわけではないぞ」
「道がないのは、もう慣れた」
赤いショートが再び動き出す。
さっきまで行く手を阻んでいた急斜面は、もう後ろだ。
森はさらに深くなる。
木々の密度も増し、地面には鮮やかな苔や小さな花が目立ち始めていた。
「ん?」
しばらく進ませたところで、バンデランテがフロントガラスへ身を乗り出した。
「少し止めてくれ」
「何かあったか?」
「あそこじゃ」
指さした先には、大木の根元にまとまって生えている背の低い草があった。
濃い緑色の葉に、細かな銀色の筋が走っている。
「薬草じゃ」
「薬草?」
「傷薬に使うやつか?」
「そうじゃ。あれは銀脈草といってな。潰して傷口へ当ててもよいし、乾燥させて煎じれば痛み止めにもなる」
「へえ」
良太も後部座席から映像をのぞき込む。
「見た目は普通の草ですね」
「知らん者が見れば、ただの雑草じゃろうな」
たしかに、言われなければそのまま通り過ぎていた。
「結構あるな」
「このあたりは日当たりと湿り気がちょうどいいんじゃろう。あれだけまとまって生えとるのは珍しいぞ」
「なら、少しもらっておくか」
「採るのか?」
「せっかく森を調査してるんだからな」
俺は赤いショートを銀脈草のそばへ停める。とはいえ、向こうには誰も乗っていない。
「シルフ、何本か根元から切ってもらえるか?」
『ザザッ……』
無線越しに小さなノイズが返る。
ドラレコ映像の中で、銀脈草の葉がふわりと揺れた。
シュッ。
次の瞬間、数株だけがきれいに根元から切り取られる。
「全部は採らんのじゃな」
「残しておけば、また増えるだろ?」
「ほう」
バンデランテが少し感心したようにうなずく。
「ちゃんとわかっとるではないか」
「山菜採りなんかでも、全部採るなって言うだろ」
「先輩、そういうところは妙に真面目ですよね」
「妙に、は余計だ」
切り取られた銀脈草が、シルフの風に乗って赤いショートのボンネットの前へ集められる。
「良太、これも回収できるか?」
「試してみます」
良太が【遠隔買取査定】を使う。
「……いけますね。薬草として認識されています」
「じゃあ【買い物加護】へ入れておいてくれ」
「はい」
次の瞬間、映像の中にあった銀脈草が光に包まれ、その場から消えた。
「回収できました」
「便利だな」
「……森の中のものまで、ここに座ったまま拾えるのか」
バンデランテがあきれたようにつぶやく。
「そうみたいだな」
「おぬしら、森へ入っとらんのに採集まで終わっとるではないか」
言われてみればその通りだ。
俺たちはラズライト湖畔のランクルに乗ったまま、何十キロも離れた森の中から薬草を採っている。
「これ、薬草集めにも使えそうですね」
「だな。食べられるものだけじゃなく、使えそうな植物も少しずつ回収しておくか」
「銀脈草以外にも、この森には薬になる草や木の実がいくつもあるぞ」
「それは助かる。見つけたら教えてくれ」
「任せておけ」
バンデランテが少し得意そうにひげをなでた。
なるほど。
森の案内役がいるというのは、こういうところでもありがたい。
俺たちだけなら見落としていたものでも、バンデランテなら価値がわかる。
魔物や景色だけではない。
食材。
薬草。
鉱石。
まだ知らないものが、この森にはいくらでもありそうだ。
「さて、続きを行くか」
俺は【自動操縦】を再開する。
赤いショートがゆっくりと走り始めた。
進むほど木々は鬱蒼と茂り、足元には見たことのない植物があちこちに広がっている。
セラフィナイト大森林。
ただ通り抜けるだけでは、もったいない森だ。
この先にも、まだ俺たちの知らない何かが待っていそうだった。




