第47話 11日目 朝
目を覚まし、ランクルの外に出る。
朝の澄んだ空気が肌をなで、すぐ近くからは川のせせらぎが聞こえてきた。
いつもどおりの、静かな朝だ。
大きく伸びをして、まだ少し眠気の残る頭で今日の予定を考えてみる。
――特にない。
今日は予定がない。
明日も、明後日も同じだ。
こちらの世界へ来てから、今日で十一日目。
振り返ってみれば、これまでにもさまざまな出来事があった。
魔物と戦ったり、冒険者ギルドへ行ったり、マオやバンポーさんと知り合ったり。
なんだかんだで毎日のように何かは起きている。
だが、それは別に『やらなければならないこと』ではない。
今週中にやるべきこと。
今月中に終わらせなければならないこと。
そういうものが、今の俺には一つもなかった。
やってみたいことなら、いくらでもある。
まだ見たことのない場所へ行きたいし、ランクルで走ってみたい道もある。
良太は温泉を探したがっているし、俺だってこの世界をもっと見て回りたい。
でも、それらは全部『やりたいこと』だ。
『やらなければならないこと』じゃない。
……こんな生活、いつ以来だ?
少し考えてみたが、思い出せない。
社会人時代はもちろん、学生時代――小学校までさかのぼっても、常に何かしらやることがあった気がする。
学校に行って、宿題をして、明日の準備をする。
大人になれば仕事があり、休日になっても休み明けには当然のように予定が待っていた。
元の世界でも、一日まったく予定を決めずに過ごしたことくらいはある。
だが、そんな日でも『明日からまた仕事か』なんて考えていたし、もっと先を見れば、金銭面の不安だって常にあった。
今は、それがない。
もちろん、これは俺自身の実力で手に入れた生活ではない。
神様から授かった【車両召喚】と、そこから呼び出せるランクルの存在が大きい。
そして、パートナーである良太。
異世界ものに関する知識では俺よりはるかに詳しく、【ネットショッピング】のおかげで、元の世界の食料や日用品にも困らない。
さらに、圧倒的な強さを誇る龍王バハムートが側にいてくれるという安心感。
マオやバンポーさんも頼りになる。
こちらの世界の通貨も、今は九億イエンほど残っている。
【ネットショッピング】で使うポイントだって、必要なら数百万程度はすぐに稼げる。
そして何より――体が健康だ。
神様に創り直してもらったこの体には、今のところ何の不調もない。
視力も驚くほど良くなった。
遠くに生えている木の枝葉までくっきり見えるたびに、視力がいいやつには世界がこんなふうに見えていたのかと、いまだに驚くことがある。
できれば、もう少しイケメンにしてくれても良かったんだけどな。
まあ、それはさすがに望みすぎだろう。
それに、ランクルのチート性能は移動や戦闘だけじゃない。
シートに座っているだけで、体についた汚れはもちろん、体内の不要物まできれいさっぱり消えてしまう。
おかげで風呂に入れない日が続いても常に清潔でいられる。
歯も神様のおかげで、虫歯どころか詰め物一つない。
そして周りには、嫌なヤツも、馬が合わないヤツもいない。
こちらへ来たばかりのころは、さすがに不安もあった。
今こうして改めて振り返ってみれば――
……ずいぶん安定してきたな。
少なくとも今は、ランクルの中で精神を強制的に安定させてもらわなくても、心身ともに健康だと言える。
そんなことを考えながら川まで歩き、しゃがみ込んで水に手を浸す。
「冷たっ……」
朝の川の水は、思っていた以上に冷たい。
別に手が汚れているわけではないが、そのまま両手を洗い、水をすくって顔に浴びせる。
ひやりとした感触に、残っていた眠気が一気に吹き飛んだ。
濡れた手で髪を軽くなでつけ、残った水気は服で適当に拭き取る。
そんなことをしていると、後ろで車のドアが開く音がした。
振り返れば、白いトゥループキャリアから良太が降りてくる。
「おはようございます」
「おう。おはよう」
良太の手にはコップと歯ブラシが握られていた。
磨かなくても歯は常にきれいなのだが、歯磨きをすると口の中がさっぱりする。
結局こういうものは、長年染みついた生活習慣だろう。
良太はそのままキッチンカーへ向かい、蛇口をひねると、ウンディーネの魔力水をコップに注いで歯を磨き始めた。
しばらくして歯磨きを終えると、口をすすいだ水は離れた草地へ吐き出す。
「先輩、朝ごはんどうします?」
こちらへ歩いてきた良太が、首にかけたタオルで口を拭きながら聞いてくる。
「今日は和食にするか。B定で頼む」
「懐かしいですね、それ。今どきあんまり言わないでしょ」
良太が笑う。
「じゃあ、ご飯、納豆、焼き魚、味噌汁でいこう」
「いいですね。納豆はバハちゃん食べないので、魚を多めに焼きますか」
「ああ。他はどれも残り物だが、十分だろう」
そう言って、そのバハを探す。
少し離れた河原で、バハは草むらへ顔を突っ込み、夢中で草をムシャムシャと食べていた。
……猫みたいなヤツだな。
体は中型犬ほどもある龍王なのに、やっていることは完全にその辺の猫だった。
まあ、本人が満足そうだからいいか。
◇ ◇ ◇
いつもの場所にテーブルと椅子を並べ、【車両召喚】で食料を積んであるリアカーを取り出す。
テーブルの中央には、江戸切子の花瓶を一つ。
それを見るなりシルフが近くへ花を摘みに行き、ウンディーネが花瓶に水を注いでくれた。
ほどなくして、色とりどりの野花が朝の食卓を飾る。
江戸切子のガラスに朝日が差し込み、複雑な切子模様を通った光がテーブルの上に淡い影を落としていた。
「朝飯にするか」
俺はキッチンへ向かい、ラズライトトラウトと、炊き立ての状態で【格納】していたご飯の釜を調理台に置く。
待ってましたと言わんばかりに、シルフが魚を受け取った。
ラズライトトラウトがふわりと宙に浮かぶ。
風の刃が魚体の表面を滑るように走り、鱗だけを取り除いていく。そのまま焼きやすい大きさへ切り分けられると、今度はサラマンダーの出番だ。
シルフが一人前ずつになった切り身を網へ並べると、サラマンダーが火加減を細かく調整しながら焼き始める。
俺は【格納】してあった味噌汁も別のコンロへ置き、こちらもサラマンダーに任せた。
隣では、良太が茶碗にご飯を盛っている。
「こうしていると、本当に普通の朝ごはんですね」
「精霊が空中で魚をさばいている時点で、普通ではないと思うけどな」
「ああ……それもそうですね」
やがて香ばしい焼き魚の匂いが漂い始めた。
焼き上がった魚や茶碗に盛られたご飯を、精霊たちが次々とテーブルへ運んでいく。
俺たちも席につこうとした――そのとき。
足元に見慣れた魔法陣が浮かび上がった。
「……いつも、いいタイミングで来るな」
淡い光が収まる。
そこに立っていたマオは、いつもの子どもの姿ではなかった。
身長は百六十センチほど。長い金髪に青い瞳、尖った耳を持つハイエルフの少女。
だが、俺も良太もすぐにマオだとわかった。
「マオちゃん、おはようございます」
「おはよう、マオ。王国にでも行ってきたのか?」
マオは首を横に振る。
「車の」
「運転できない」
「ああ、湖底の庭園に行ってたんですね」
そういうことか。
湖底の大庭園には、マオが自由に使えるようベージュのオープンカーを一台置いてある。
その車を運転するために、この姿になっているのだろう。
それにしても――
「朝から庭園にいたのか?」
「ん」
よほどあの場所が気に入ったみたいだ。
植物を集めたり観察したりするのが好きなマオにとって、見たことのない植物が大量に生えているあの庭園は、宝の山みたいなものなんだろう。
そして、次に何を言うのかもだいたいわかる。
「お腹空いた」
「やっぱりか」
「きゅ~♪」
マオの姿を見つけたバハが、草を食べるのをやめて駆けてくる。
そのまま勢いよく飛び上がると、翼を広げてこちらまで飛んできた。
マオはそんなバハを見てから、何かを思い出したように【収納】に手を入れる。
「おみやげ」
取り出したのは、スイカほどもある大きな金色の果実だった。
「お! 世界樹の実ですね。これおいしいんですよね」
「きゅ~! きゅ~!」
「バハも大喜びだな」
「バハちゃんの大好物ですもんね。一緒にいただきましょう。シルフ、これ切ってください」
良太に頼まれたシルフが、世界樹の実をふわりと宙に浮かせる。
風の刃が走り、大きな果実はきれいに八等分された。
良太はすぐに【ネットショッピング】でガラスの平皿を四枚購入する。
精霊たちが皿を洗って並べ、その上に世界樹の実を二切れずつ置いていく。
「そういえば、今日はバンポーさんはいないのか?」
「ん」
マオが小さくうなずく。
「仕事」
どこかまだ眠そうだ。
世界樹の実を一切れ手に取ったマオが、俺たちへ顔を向ける。
「世界樹の、実」
「いっぱい、食べて」
「長生きする」
マオにしては珍しく長い言葉だ。
「バンポーさんもこの前、言っていたな」
「これを食べると寿命が延びるんですか? 人間でも」
「ん」
どうやら本当らしい。
そんなすごいものを、朝飯の果物みたいな感覚で持ってくるんだから驚く。
「じゃあ、ご飯も食べましょうか。シルフ、マオちゃんの分も持ってきてください」
良太がそう頼むと、すぐにマオの分の朝食も運ばれてきた。
そこで俺は、テーブルに置かれた納豆を見る。
「マオは納豆食べられるのか?」
「これ、豆?」
「そうだ。日本の食べ物で、豆を発酵させてあるんだ」
「生卵とかキムチとか、いろいろ混ぜてご飯と一緒に食べるのが僕は好きですね」
「俺は醤油に練りがらしを多めに入れただけのが好きだな」
「シラスとか、大葉を刻んで入れる人もいますね」
俺たちの説明を聞いていたマオが、納豆をじっと見つめる。
「食べる」
「じゃあ、まずは普通のでいくか」
俺は納豆に醤油を垂らし、箸でかき混ぜる。
「こうやって混ぜると、粘りが出るんだ」
糸を引き始めた納豆を見て、マオが少しだけ目を細めた。
「糸」
「そう。初めは抵抗がある人もいて、日本でも苦手な人はいるんですけど、好きな人は毎日食べますよ」
「この醤油を入れて、ご飯に乗せて食べてみろ。ダメだったら新しいご飯とおかずを用意するから」
そう言ってスプーンを渡そうとしたところで、マオがごく自然に自分の前へ置かれていた箸を手に取った。
「え、マオちゃん、箸使えるんですね」
「ん」
「この世界にもあるんですか?」
「ある」
「へえ……」
良太が感心したように箸を見る。
「日本人とかアジア人が過去にいたのか、それともまったく別に生まれた文化なのか……」
この前、ブルーム王国の商店街でも、箸なら日本人がいなくても自然に生まれていておかしくないと話したな。
そんなことを思い出している間に、マオは納豆を一口食べる。
もぐもぐと何度か噛んで――
「おいしい」
「おお。いけるか」
「こっちの生卵やキムチと一緒にしたのもおいしいですよ。卵を入れると、まろやかになりますし」
「食べる」
良太が自分用に混ぜていた器から少し分ける。
マオはそれもご飯に乗せ、一口。
「これもおいしい」
「気に入ったみたいだな」
俺も焼き魚を箸でほぐす。
「この焼き魚と納豆ご飯、それに味噌汁。俺たちがいた国じゃ定番の朝飯なんだ」
「魚もおいしい」
マオはそう言いながら、ラズライトトラウトを次々と口へ運んでいく。
どうやら納豆だけでなく、朝食そのものが気に入ったらしい。
「そうだ、マオちゃん。食べながらでいいんですけど、一つ聞いてもいいですか?」
「ん」
「この前連れて行ってもらったブルーム王国の街って、この大陸にあるんですか?」
「ん」
「ずっと遠い」
「そうなんですね。じゃあ、ここもブルーム王国の領土なんですか?」
「たぶん」
「たぶん?」
マオが首をかしげる。
国境なんか気にして生活していないのかもしれないな。
普段から【転移】で好きな場所へ移動しているマオにとって、人間が引いた線なんて大した意味がないのかもしれない。
「じゃあ、ここから一番近い街は、この前行ったところなんですか?」
良太が尋ねると、マオは首を横に振った。
「町、ある」
「この前、連れて行ってもらったところよりも近くに町があるんですね」
「ん」
マオは焼き魚を一口食べてから、ぽつりとつけ足す。
「海にも、町ある」
「わあ! 海があるんですね!」
良太が一気に食いついた。
「どっちの方角なんですか?」
「……南?」
マオは空を見上げ、少し考えてから答える。
自信があるようには見えない。
「じゃあ、南へ流れている川をたどっていけば、海に出るんですかね?」
「でる」
「いく?」
マオが俺を見る。
たぶん「連れて行こうか」という意味だろう。
「先輩、どうします?」
「ありがたいが、このランクルで走るのも俺の目的なんだ。地続きなら、そのうち自分たちで向かってみるかな」
「ん」
マオはあっさりうなずいた。
【転移】で連れて行ってもらい、そこへランクルを一台置いてくれば、【車両入れ替え】でいつでも行けるようにはなる。
だが、それをやってしまえば――
知らない世界をランクルで走って、自分たちでそこへたどり着く楽しみがなくなるからな。
目的地だけが欲しいわけじゃない。
そこへ向かう途中の景色も、道も、全部ひっくるめて楽しみたい。
「マオちゃん、ありがとうございます。どうしてもたどり着けなかったら、そのときはお願いしましょう」
「ん」
そんな話をしている間にも、マオはサラマンダーが焼き、シルフが運んでくる魚をものすごい勢いで平らげていく。
バハも負けていない。
こちらは世界樹の実を先に食べ終え、すでに焼き魚に取りかかっていた。
朝からよく食うやつらだ。
「マオちゃん、山はどうですか? このあたりにあります?」
「ん」
「北」
今度は早かった。
「北にあるんですね。じゃあ、川をさかのぼっていけばたどり着けるんですかね?」
「ん」
「滝もある」
「途中に滝があるのか」
湖へ流れ込んでいる川を北へさかのぼっていけば、その先に山と滝があるらしい。
良太の目が輝く。
「僕、温泉を探してるんですけど、その山に温泉はありますか? 温かいお湯が湧いてるところです」
「……知らない」
マオは味噌汁を一口飲み、良太を見ながら答えた。
「そうですか……」
少し残念そうだ。
だが、山があるなら可能性はある。
そのうち北へ向かってみるのも面白そうだ。
そんな良太を見ていたマオが、不意に口を開く。
「白い車、欲しい」
「ん?」
唐突に話を変えるやつだな。
「湖底の庭園」
「あれを持っていきたいのか?」
俺は少し離れた場所に停めてある白いトゥループキャリアを指さす。
「ん」
「妖精アルフ」
「何か、知ってる」
「ああ、この前あのランクルから出てきた、光の妖精ですね」
「ん」
そうか。アルフは、あの白いボディに宿っている。
「アルフなら、あそこの植物について何か知っているかもしれないってことか?」
「ん」
「なるほど。それで白いランクルを庭園へ持っていきたいんですね。先輩、グレーの105と交換してあげたらどうです?」
「ああ。それがいいな」
湖底の大庭園には、今も二台のランクルを置いてある。
一台はマオ用のベージュのオープンカー。
もう一台は【車両入れ替え】用のグレーの105だ。
あの105と白いトゥルーピーを入れ替えれば、すぐに庭園へ送ることができる。
「マオちゃんとアルフなら、何かわかるかもしれませんね」
「ん」
俺はすぐに【車両召喚】を発動する。
(【車両入れ替え】――グレーの105と、白いトゥルーピー)
次の瞬間――
目の前にあった白いトゥルーピーの姿が消え、代わりに湖底の庭園に置いてあったグレーの105が現れた。
「これで白いのは庭園へ行ったはずだ。アルフが出てくるかどうかまではわからんが」
「ありがとう」
マオが立ち上がる。
「帰る」
「もう行くのか?」
「庭園行く」
「すっかり夢中になってますね」
「ん」
「珍しいの」
「いっぱい」
今朝も庭園から直接ここへ来たというのに、飯を食べ終えたらすぐ戻るらしい。
本当に好きなんだな。
そんなマオの足元に、食事を終えたバハが寄っていく。
「きゅ~」
マオがバハを見下ろす。
「バハムート」
「また遊ぶ」
「きゅっ!」
返事をするように元気よく鳴いたバハの頭を、マオが軽くなでる。
そして、俺たちへ片手を上げた。
「また」
「ああ。またな」
「マオちゃん、また来てくださいね」
「ん」
足元に魔法陣が広がる。
淡い光がマオの体を包み――次の瞬間、その姿は消えていた。
「……相変わらず、来るのも帰るのも突然だな」
「でも、今日は結構いろいろ教えてくれましたね」
「ああ」
俺は残っていた味噌汁を飲みながら、頭の中で今聞いた話を整理する。
南へ行けば、海。
そこにも町があるらしい。
それとは別に、この前の王都より近い場所にも町がある。
北へ向かえば山があり、川をさかのぼった先には滝もある。
温泉があるかどうかはわからない。
だが――
「行きたい場所が増えたな」
「ですね!」
良太が嬉しそうに笑う。
「海も行きたいですし、山も行きたいです。温泉も諦めませんよ」
「別に急ぐ必要もないしな」
「はい。今日はどこ行きます?」
「……それを今から考えるか」
「いいですね」
予定はない。
今日も、明日も、明後日も。
けれど、行ってみたい場所なら少しずつ増えていく。
行きたくなった日にランクルへ乗り込み、ハンドルを向ければいい。
俺は椅子の背もたれに体を預け、朝の川を眺める。
水面には朝日がきらきらと反射し、涼しい風が川沿いの草をゆらしていた。
――こんな生活も、悪くない。
いや。
今の俺は、かなり気に入っている。




