第45話 釣りをしながら、この10日間を振り返る(前編)
マオとバンポーが大庭園へ向かったあと。
俺たちは昼飯も食べ終え、午後をのんびり過ごすことにした。
朝から湖底の大庭園を歩き回ったこともあって、今日はもう何かをしようという気にはならない。
「今日くらいは、のんびりしよう」
「賛成です」
というわけで、久しぶりに釣りだ。
湖畔には緊急避難用として一号車――赤いランクルを一台だけ出しておき、そのすぐそばにキャンピングチェアを並べる。
竿を伸ばし、餌を付けて湖へ投げ込む。
ぽちゃん。
小さな音とともに浮きが水面へ落ち、波紋がゆっくりと広がっていった。
風は穏やかだ。
青く澄んだ湖面が陽の光を反射してきらきらと輝き、対岸には深い森が広がっている。
時折吹き抜ける風が湖面をなで、足元の草をさらさらとゆらしていく。
「……平和だな」
「平和ですねぇ」
こういうのでいいんだ。
何も起こらない。
ただチェアに座って、景色を眺めながら魚が掛かるのを待つ。
俺が異世界へ来てやりたかったのは、むしろこういう生活だったはずだ。
隣では良太もチェアへ深く腰掛け、のんびりと竿を握っている。
バハはというと、俺たちの間の芝生で腹を上にして寝転がっていた。
「きゅ~……」
昼飯のベヒーモスカレーをたらふく食べたせいだろう。
完全にお昼寝モードだ。
「こいつも満足そうだな」
「何回もおかわりしていましたね」
「ああ」
俺と良太は湖面を見たまま笑う。
しばらく、そのまま湖へ糸を垂らしていた。
釣れてもいい。
釣れなくてもいい。
そんな気分で浮きを眺めていると、良太がふと思い出したように口を開いた。
「先輩」
「ん?」
「そういえば僕たち、この世界に来てから十日目ですよ」
「…………」
俺は浮きを見つめたまま、数秒固まった。
それから良太を見る。
「は?」
「今日で十日目です」
「うそだろ、まだ十日なのかよ」
「僕も驚きました」
良太は苦笑しながら湖へ視線を戻した。
「こんな濃い十日間を過ごしたのは、人生初ですね」
「十日……」
改めて聞くと信じられない。
もう一か月くらい、この世界で暮らしているような気がしていた。
「いろいろありすぎて、もう小さなことは覚えていないぞ。毎日、何かあったんじゃないか?」
「ありましたねぇ」
良太が少し考える。
そのとき、湖面の浮きが小さくゆれた。
「おっ」
俺は反射的に竿を握り直す。
ちょん。
ちょん。
浮きが二度沈む。
「来てます?」
「……いや」
次の瞬間、浮きは何事もなかったように水面へ戻った。
「食い逃げされた」
「残念でしたね」
「まあ、今日は釣れなくてもいいけどな」
餌を確認して、もう一度仕掛けを投げ込む。
ぽちゃん。
再び湖面へ広がっていく波紋を眺めながら、良太が話を戻した。
「初日は、この一号車――赤いランクルの70ショートで大草原を走り出して、いきなりロック・バルチャーに襲われましたよね」
「あったな……」
俺はすぐそばに停めてある赤いランクルを見る。
今では見慣れた赤い車体。
だが、あのときはこの一台しかなかった。
「いきなり異世界の大草原に放り出されて、車で走り出したと思ったら、空から魔物だからな」
「異世界に来た実感を味わう暇もなかったですよね」
「そうだったな」
たった十日前のことなのに、もう懐かしく感じる。
そして――
「そのあと、バハに出会ったんだ」
俺たちの間で寝転がっているバハへ目を向ける。
「サンルーフからこっちを覗いていて」
「そうです」
良太もバハを見る。
「きゅ~……」
当の本人は、そんな話をされているとも知らずに気持ちよさそうに眠っていた。
「あのときは、バハちゃんに食べられちゃうかと思いましたよね」
「思った思った」
俺は思わず笑ってしまう。
「まさか、そのバハと十日後には一緒にカレー食って、昼寝してるとはな」
「人生、わからないものですね」
「本当にな」
俺もバハを見ながら笑った。
湖面を渡ってきた風が、バハの体をなでていく。
「きゅ……」
バハが寝返りを打った。
なんとも平和な光景だ。
「あの魔曲で精霊たちが大暴れしたのは、次の日だったか?」
「そうです。ガレオン・バイソンを討伐したときですね」
「あれもすごかったな……」
思い出すだけで、いろいろとひどかった。
「曲を流したら、精霊たちがいきなり暴れ出したんだよな」
「トールもグラビトンもシロッコも、ノリノリでしたからね」
「あいつら、普段はおとなしいのにな」
「曲一つで、あそこまで変わるとは思いませんでした」
「まあ、助かったけどな」
「まとめ狩りのときも大活躍でしたしね」
「ああ。使いどころさえ間違えなければ、頼もしい連中だよ」
「ですね」
こうして振り返ってみると、次から次へと思い出が出てくる。
「やばいといえば、バハがベヒーモスを狩ってきたこともあったな」
「そうです。ベヒーモスは、その翌日ですかね」
良太が指を折りながら記憶をたどる。
「ほら、二号車――白いランクルを神様に売ってもらって、その借金の話をしていたら、バハちゃんが出かけて……」
「帰ってきたらSランクのベヒーモスを狩ってたんだよな」
「はい」
俺たちはもう一度バハを見る。
「きゅ~……」
「……こいつ、寝てると普通に可愛いんだけどな」
「この子がベヒーモスを狩ってきたなんて、今でも信じられませんよ」
「見た目だけなら、完全にマスコットだからな」
「さっき食ったカレーの肉も、そのベヒーモスだもんな」
「はい。そのベヒーモスの素材を売ったポイントで、あの三号車――紺色のキッチンカーを買えたんですよね」
俺は拠点に置いてある紺色の車体へ目を向ける。
「これが来てからは、食生活がガラッと変わったな」
「本当に変わりましたね」
「料理するために買ったとはいえ、ここまで使うとは思わなかった」
「精霊たちのおかげも大きいですよ」
「ああ」
サラマンダーが火を操り、シルフが風と温度を調整し、ウンディーネが水を用意してくれる。
床下にはノームの熟成庫まである。
改めて考えると、とんでもないキッチンカーだ。
「……普通のキャンピングカー生活とは、ずいぶん違う方向に進んだな」
「そもそもSランクの魔物を熟成させて食べてますからね」
「言われてみればそうだな」
すると――
すっ。
今度は良太の浮きが沈んだ。
「あっ!」
「来たぞ」
「はい!」
良太が竿を立てる。
ぐっと竿先が曲がった。
「おお、結構引きます!」
「焦るなよ」
「わかってます!」
湖面がばしゃばしゃと弾ける。
しばらく魚とのやり取りを楽しみ、良太がゆっくりと岸へ寄せてくる。
銀色の魚体が水面から飛び出した。
「よしっ!」
釣り上げたのは、見覚えのある魚だった。
「ラズライトトラウトですね」
「ちょうど話そうと思ってたところで釣れるか」
「タイミングいいですね」
良太は笑いながら針を外す。
俺も魚をのぞき込んだ。
「この湖に来たのは、またその次の日か?」
「たしか、そうです」
良太は釣り上げたラズライトトラウトを見ながらうなずいた。
「話していると、いろいろ思い出してきますね。この湖に来て、こうして釣りをしたんですよ」
「ああ」
「おいしかったな。ラズライトトラウト」
「結局、食い物の感想かよ」
「大事ですよ」
今釣れたラズライトトラウトはそのまま湖へ返す。
ぱしゃん。
ラズライトトラウトは一瞬で水中へ潜り、青い湖の中へ消えていった。
「いや、わかるよ。自然の中で暮らしていると、うまいものを食ったことも思い出の一つになるんだな。仕事してるときの昼飯なんて、ほとんど栄養補給みたいなもんだったろ」
「来来飯店だって、いい思い出ですよ」
「それを聞いたら、おっちゃん喜ぶぞ」
「カウンターの黒電話がなつかしいですね」
「あのジリリンって、うるせーやつな」
「あはは、おっちゃんが忙しくて手が離せないときに、先輩が勝手に電話に出て注文まで取ってたのは笑いましたね」
「お前も、よく覚えてるな。それで、そのラズライトトラウトのフライを食べるときにマオがきたんだっけか?」
「いえ、マオちゃんが来たのは、その次の日の夕食ですね。タキタロウのときです」
「ああ……」
名前を聞いただけで、巨大な魚体が頭に浮かんだ。
「Sランクの魚をバハが獲ってきたときな。あれもビビったよな。生きてたし」
「普通、あんな巨大な魚を目の前に置かれたら逃げますよ」
「しかもSランクだからな」
「きゅ?」
自分の話題が聞こえたのか、バハがむくりと顔を上げた。
「お前の話だよ」
「きゅ?」
「タキタロウ」
「きゅっ!」
得意そうに胸を張った。
「タキレンタロウ」
「きゅ?」
「ひっかからないか」
そして何事もなかったように、バハはまた芝生へ寝転がる。
「自由なやつだな……」
「いいんですよ。バハちゃんは可愛いんですから『かわいいは正義』です」
俺は苦笑しながら、再び湖へ仕掛けを投げ込んだ。
ぽちゃん。
穏やかな湖面へ、小さな波紋が広がっていく。
十日前。
俺たちは、この世界のことを何も知らなかった。
魔物も。
魔法も。
精霊も。
目の前に広がるこの湖の名前すら知らなかった。
それが今では――
湖畔にランクルを停め、バハムートと一緒に暮らし、Sランクの魔物を食べながら、魔王と友達になっている。
「……改めて考えると、めちゃくちゃだな」
「何がです?」
「俺たちの十日間」
良太は少し考え――
「否定できませんね」
俺たちの笑い声が、静かな湖畔へと溶けていった。




