第18話 湖畔でのんびり昼下がり
風が吹き抜けるたび、岸辺の草木がさらさらと揺れる。
陽に温められた土の香りと、湖から運ばれてくる涼しい水の匂いが混ざり合い、心地よく辺りを満たしていた。
遠くでは水鳥が湖面に浮かび、小鳥たちのさえずりだけが静かな湖畔に響いている。
昼食を終えた俺たちは、良太が淹れてくれたコーヒーを片手に、湖を眺めながらゆったりとした時間を過ごしていた。
「午後はどうしましょう」
良太が湯気の立つマグカップを口元へ運ぶ。
「このままのんびりするのもいいですし、車で湖畔を回るのも面白そうですね。釣りも気になります」
「そうだな」
俺は湖へ目を向けたままうなずく。
「その前に、カーナビで周囲を確認してみるか」
「そうですね」
良太も同意する。
「これだけ大きな湖ですし、近くに村や街があるかもしれません」
「集落があるなら、あまり車で近づくのは避けたいな」
「はい。もし見つけたら、少し離れた場所からドローンを飛ばして様子を見てみましょう」
俺たちはコーヒーを飲み干すと、カーナビへ視線を向けた。
◇ ◇ ◇
「それじゃ、まずはカーナビで確認してみますね」
良太がマスター・ナビゲーションを操作すると、周囲一帯の地形が立体地図となって表示された。
「……やっぱりすごいですね。半径百キロメートルまで全部見えます」
「百キロか。琵琶湖くらいの広さなら、湖全体が見渡せるな」
画面には、巨大な湖を中心とした地形が映し出されていた。
俺たちがいる東岸には、果てしなく続く大草原。
南側には湖から流れ出る大きな川が一本あり、その先も草原が広がっている。
北側には湖へ流れ込む川があり、その周囲には深い森。
そして対岸の西側も、一面がうっそうとした森林だった。
全体的には琵琶湖のように南北に長い湖だ。
「……集落の反応はありませんね」
良太が地図を拡大しながら周囲を確認する。
「村も街も、人が住んでいそうな場所は見当たりません。少なくとも、この湖の周囲には何もなさそうです」
「なるほど……。水辺なら人がいてもおかしくないと思ったんだが」
「僕もそう思っていました。飲み水もありますし、魚も獲れますからね」
良太は少し考えてから続ける。
「でも、この世界は魔物が普通にいます。湖畔は大型の魔物が水を飲みに集まる場所なのかもしれません」
「だから人が寄り付かない、と」
「その可能性はありますね。それに、水辺は水辺で油断できません。異世界だと、人魚や半魚人みたいに、水中で暮らす種族がいるのも『お決まり』ですから」
「たしかに、陸と同じ感覚じゃ危ないか」
「もし水中へ引きずり込まれたら、どれだけステータスが高くても不利になります。呼吸もできませんし、自由にも動けませんからね」
俺はもう一度、湖全体を映した地図に目を向ける。
東は草原。
西は森。
南も草原。
北も森。
これほど大きな湖があるにもかかわらず、人の営みを示すものは何一つ映っていなかった。
「……逆に言えば、今日は気兼ねなく遊べそうだな」
「はい。でも、水辺は最後まで油断しないようにしましょう。水中から襲ってくる魔物がいるかもしれませんし、できるだけ岸から離れないほうが安全です」
「そうだな。湖で遊ぶにしても、水際までにしておこう」
「そのくらいがちょうどいいと思います」
「よし。それじゃあ今日は遠出はやめだ。せっかく見つけた湖なんだし、のんびり過ごすか」
「賛成です。毎日レベル上げばかりじゃ疲れちゃいますしね」
釣りをすることに決め、車を水辺へ移動させると、良太が【ネットショッピング】を開いた。
「先輩はルアー派でしたっけ?」
「ああ。昔はブラックバスをやっていたからな。餌釣りも嫌いじゃないが、せっかくならルアーを投げたい」
「じゃあ、スピニングロッドを二本買いますね。糸やルアーも一通り揃えておきます」
「異世界の魚が地球のルアーに食ってくるかはわからんが、試してみる価値はあるな」
「異世界ですからね。魚まで魔物だったりして」
「それは勘弁してくれ。今日は平和に釣りがしたい」
良太が笑いながら注文を確定すると、俺たちの足元に段ボール箱が次々と現れた。
「相変わらず便利ですよねぇ、このスキル」
箱を開けながら、良太が感心したように笑う。
「釣具屋さんが丸ごと付いてきたみたいです」
「本当に何でも売ってるな」
俺たちは新品のロッドを取り出し、リールを取り付ける。
それぞれのガイドにラインを通し、最後にルアーを結ぶ。
久しぶりではあるが、こうして準備をしていると、昔ブラックバスを釣っていた頃の感覚が少しずつよみがえってくる。
目の前では、湖面が穏やかに陽光を弾き、風が吹くたび細かな波紋が岸へと寄せては返していた。
その静かな景色を眺めているだけで、張り詰めていた気持ちが少しずつほどけていく。
「……いいですね」
「ああ」
「異世界に来て、初めて『休日』って感じがします」
俺は小さく笑い、完成したロッドを手に立ち上がった。
「よし。まずは一匹釣れるか試してみるか」
準備を終えると、俺たちは岸辺へ向かった。
澄み切った湖面は底まで見渡せるほど透明で、小魚の群れが水草の間をせわしなく泳ぎ回っている。
その後ろを、バハも尻尾を揺らしながらとことことついてきた。
「きゅー?」
「釣りだよ、バハ」
「きゅ!」
興味津々といった様子で、水辺を覗き込む。
「あまり身を乗り出すなよ。落ちるぞ」
「きゅー」
返事をしたのか、していないのか。
バハは湖面を泳ぐ魚を目で追いながら、尻尾だけをゆっくり左右へ振っていた。
「水もきれいですね」
「ああ。釣れそうだな」
俺は軽くロッドを振りかぶる。
シュッ――
ルアーが気持ちよく飛び、湖面に小さな波紋を作った。
「やっぱり、この感覚はいいな」
ゆっくりとリールを巻く。
ルアーだけが静かに戻ってくる。
「一投目は挨拶ってところか」
俺は小さく笑う。
もう一度ルアーを投げる。
シュッ――。
今度は水草の際をゆっくり通していく。
コンッ。
「……ん?」
小さな手応え。
続いて、ググッと竿先が引き込まれた。
「掛かった!」
銀色の魚体が水中で身を翻す。
ジャンプこそしないものの、左右へ力強く泳ぎ回り、ドラグが小気味よく鳴った。
「先輩、いいサイズですよ!」
「結構引くな……」
数十秒のやり取りの末、水際へ寄せる。
良太が慌ててタモ網を差し出した。
ザバッ。
「獲れました!」
網の中では、銀白色に輝く魚が跳ね回っている。
「きゅーーっ!」
バハが嬉しそうに駆け寄る。
ぴょんっと跳び上がると、網の中を覗き込み、跳ねる魚に合わせて首を左右へ傾けた。
「おいおい、まだ食うなよ」
「きゅー……」
少しだけ残念そうに耳を垂らすバハ。
その様子に、良太が思わず吹き出した。
「バハちゃんも魚好きなんですね」
「あとで焼いてやろう」
「きゅっ!」
さっきまで垂れていた耳が、ぴんっと立った。
「現金なやつだな」
俺は苦笑しながら魚体を眺めた。
「これは……サケの仲間か?」
銀色の鱗に覆われた魚体は、背から腹にかけて厚みがある。
背中は淡い青緑色で、ほんのりと虹色の光沢も見えた。
「ずいぶんきれいな魚ですね」
「ああ。見た目はビワマスによく似てる」
魚体を眺めながらうなずく。
「四十センチくらいありますね。ちょっと『鑑定』してみます」
良太が魚へ手をかざした。
「えっと……」
【ラズライト・トラウト】
ラズライト湖にのみ生息する大型の淡水魚。
澄んだ水と豊富な水草で育ち、青みがかった銀色の鱗を持つことから、その名が付けられた。
湖の上層から中層を群れで回遊し、小魚や甲殻類、水生昆虫などを捕食する。
警戒心は強いが、一度食いつくと激しく泳ぎ回るため、その引きは非常に強い。
身は淡い朱色で脂がよく乗り、臭みも少ない。
寄生虫を保有する個体も存在するため、生食は非推奨。
食用ランク:A
「ラズライト・トラウト……ですって」
「湖の名前が付いてるくらいだ。このあたりじゃ代表的な魚なのかもしれんな」
「説明を見る限り、かなりおいしいみたいですよ。『引きが非常に強く』って書いてあります」
「だからあんなに暴れたのか」
「塩焼きもムニエルも燻製も美味しいみたいです」
良太は嬉しそうに魚を持ち上げた。
「今日はご馳走ですね」
「見た目はやっぱりビワマスに近いな。湖の中を回遊するところも似てる」
「異世界のビワマスですね」
俺は魚の腹を軽く押してみる。
「脂ものってそうだ」
「夕飯は、決まりですね」
「刺身は寄生虫が怖いからやめておくか」
「あっ、それなら試してみたいことがあります」
「ん?」
「魚を締めてから【格納】したら、寄生虫だけ弾かれる気がするんですよ」
「寄生虫だけ?」
「神様が『生き物は収納できない』って言っていましたよね。魚は締めれば死んでいますけど、寄生虫はまだ生きています」
「……なるほど」
俺は腕を組む。
「理屈は通るな」
「異世界ものでも、アイテムボックスで食材を保存すると鮮度が落ちないとか、毒や腐敗だけ浄化されるとか、そういう便利機能は『お決まり』なんですよ」
「よし」
俺はうなずく。
「試してみる価値はある」
「リアカーでやってみましょう」
「ああ」
俺は【車両召喚】でリアカーを取り出した。
パッ。
草原の上に、空のリアカーが現れる。
釣ったばかりの魚を締め、荷台にそっと載せる。
「じゃあ、いくぞ」
「はい」
「【格納】」
パッ。
リアカーごと魚が姿を消した。
「あっ……」
良太がリアカーの消えた跡を指さす。
そこには、白く細長い糸のようなものが一本だけ取り残されていた。
「……寄生虫か」
俺が枝先でそっとつつくと、それはぴくりと小さく身をよじった。
「うわっ」
「やっぱり弾かれましたね」
「どうやら、『生き物は収納できない』っていうルールは、寄生虫にも適用されるみたいだな」
「……すごい能力ですね」
「ああ」
改めて【車両召喚】の便利さを実感する。
「でも、一匹弾かれただけで油断は禁物だ。今日のところは、ちゃんと火を通して食べよう」
「そうですね。実験は成功ですけど、安全第一でいきましょう」
「きゅー?」
何をしているのかわからないらしく、バハが不思議そうに首をかしげる。
その姿がおかしくて、俺と良太は思わず笑った。
「よし、じゃあ取り出すぞ」
「はい」
パッ。
再びリアカーが現れると、魚は何事もなかったように荷台の上に載っていた。
「バハ、あとでこれを塩焼きにしてやるからな」
「きゅ~!」
ひとつ実験を終え、俺たちは再び竿を手に湖畔へ戻った。
その後は、良太と並んでのんびり釣り糸を垂らす。
風は穏やかで、湖面には小さな波紋がゆっくりと広がっていく。
時折、水面で小魚の群れが跳ね、そのたびにバハが身を乗り出して目で追いかける。
「きゅっ!」
バハが勢いよく湖へ飛び込もうとする。
「待て待て」
俺は慌てて首根っこをつかんだ。
「今日は釣りだからな」
「きゅー……」
少しだけ不満そうに尻尾を揺らしながらも、バハはおとなしく岸辺へ座り込んだ。
「そのうちバハちゃんのほうが、僕たちより上手に魚を獲りそうですね」
「十分あり得るな」
湖を眺めながら、俺は小さく笑った。
しばらくすると、良太の竿先が小さく震える。
「来ました!」
くいっ、と竿を立てると、銀色の魚体が水面で陽光を弾いた。
「おお、きれいな魚だな」
「ほんとビワマスにそっくりですね」
その後も、ぽつり、ぽつりと魚が釣れ続ける。
爆釣というほどではない。
だから、次のアタリを待つ時間も長くなる。
バハも最初は魚が掛かるたびにはしゃいでいたが、しばらくすると岸辺へちょこんと座り、湖をぼんやり眺め始めた。
「バハ、退屈か?」
「きゅー」
「良太、果物でも出してやってくれ」
「はい」
良太は【ネットショッピング】を開き、ブドウとさくらんぼ、それにイチゴを取り寄せる。
「はい。バハちゃん」
「きゅっ!」
嬉しそうに身を乗り出したバハは、まずイチゴをぱくりと一口。
続いて、さくらんぼを器用に口へ放り込み、最後にブドウを頬張る。
「きゅ~♪」
「すっかり気に入ったみたいだな」
「ほんと、果物が好きですね」
バハは満足そうに尻尾をゆっくり揺らしながら、また湖を眺め始めた。
その穏やかな横顔を見ているだけで、不思議と俺まで心が和んでくる。
それからも、魚は忘れた頃に竿先を震わせた。
待つ時間さえ、この景色の中では心地よい。
魚が釣れるたびに笑い、缶コーヒーを飲み、また糸を垂らす。
時計を見ることもなく、ただ湖畔を流れる時間を楽しんだ。
◇ ◇ ◇
気づけば、リアカーの中には銀色の魚が十匹ほど並んでいた。
大きいものは六十センチ近く、小さいものでも三十センチほどはある。
「十分ですね」
「ああ。これだけあれば、今夜はご馳走だな」
「ムニエルにホイル焼き、ちゃんちゃん焼き……」
良太が目を輝かせる。
俺たちは釣り竿を片付け、帰る支度を始めた。
太陽はすでに西へ大きく傾き、湖面は夕日を受けて黄金色に輝いている。
穏やかな風が吹き抜け、静かな波音だけが岸辺へ優しく響いていた。
「じゃあ帰るか。暗くなる前に下処理だけ済ませてしまおう」
「はい」
「きゅー!」
夕飯を察したのか、バハだけは誰よりも元気よく返事をした。
俺は魚を積んだリアカーを【格納】すると、良太と一緒に赤いランクルへ乗り込む。
エンジンが静かに目を覚ます。
ランクルは夕日に染まる水辺を離れ、見晴らしのいい丘の上の拠点へ向かってゆっくりと走り出した。
あとがき
今回は、異世界スローライフらしく、のんびり釣りを楽しむ回でした。
毎日魔物と戦ってばかりでは疲れてしまいますからね。
ラズライト・トラウトは、ほぼビワマスのつもりで書いています。
次回は、この魚を使って夕飯作りです!
本日も最後までお読みいただき、ありがとうございます。




