きたる未来
「なぜ、助けに来た…」
脂汗を滲ませて、荒い呼吸を間断なく繰り返しながら梶尾が言った。
浅野は何も答えなかった。
薄暗い通路をひたすら進みながら、自分は何をしているのか、自分はどこへ行こうとしているのかと考えてはみたものの、回らない思考は答えも出せずにただ身体を動かすだけだった。
狭い通路が開けた。
壁際に巨大なケーブルが上下に突き抜けている、この場所は電気系統の整備作業用通路兼道具置き場といったところだろう。端の方には整備用機材のような物が幾つか無造作に置いてある。部屋を貫くようにして伸びている通路の先へと浅野は進もうとしたが、重さを増した梶尾に引かれるようにしてバランスを崩した。
「もう、いい」
「何を仰っているのですか」
だがもう動く気の無いのであろう梶尾の静かな目に射竦められる形になった浅野は、ゆっくりとその巨躯を支えながら座らせた。梶尾が口に手を当てて咳き込むと、呼気と共に出た血がその手を深紅に染めた。
シュナイダーに貫かれた傷は大きく、肺にも達しているようだった。急いで治療しなければかなり危険な状態といえた。薄暗い明かりの中でもその顔から生気が失われているのは分かる。
梶尾はゆっくりと呼吸すると静かに言った。
「私は、お前も殺そうとしたのだぞ。その私を何故助けた?」
「わたしは…梶尾様の…紅蓮の…隊長です」
「だが、それも終わりだ浅野…。私はもう疲れてしまった。すべてが終わったのだ」
力なく苦笑する梶尾からは、以前のような身体から滲み出ていた息苦しいまでの威圧感は無くなっていた。本当にこれがあの梶尾現十なのかとさえ浅野には思えた。
「よいか、浅野。この世界は危機に瀕しているのだ。いずれ大きな戦いが起きる。その時、この世界を滅ぼす尖兵となるのは、お前達チルドレンなのだ」
「そんな…そんなことは…」
「その時が来れば分かる」
そう言うと梶尾はすっと目を閉じた。
「梶尾さまっ」
「初めて出会った時のことを憶えている…」
不意に梶尾がつぶやいた。浅野も憶えている。それは十五年前のあの六紋祭の時だ。
「あれは…大火葬からそう経たない時だった。驚愕したよ。わずか十歳そこそこの少女が並居る者達を凌駕し、頂点に立ったのだから。あの時のことは忘れられない……私はお前に恐怖を覚えたのだよ。奇しくもアレと同じ炎を使っていたのだから」
浅野にはアレが何かはよく分からなかった。それが何なのかを聞く間もなく、梶尾は遠い記憶を見るように静かに話し続ける。
「だから私はお前を紅蓮へ配属させた。最悪の場合を考えれば、手元に置いておくのが一番安全だと思ったからだ。だがお前はアレとは違った……。そうなればもう私にとっては何の価値もない」
価値がない。その言葉は浅野のすべてを否定する言葉だった。あの時、必要だと言ってくれたこともまた偽りだと言うのだろうか。
「梶尾様、梶尾様はあの時、私の頭にティアラを乗せてくれたあの時、この国の為に私が必要だと仰いました。あの言葉は嘘だったのですか? 嘘ではなかったと言ってください」
浅野の瞳から大粒の涙が落ちる。
その一粒が梶尾の頬に弾けた。苦しそうに梶尾は笑った。
「氷の女が涙を零すか……お前の涙など初めて見る。お前は変わった。あの頃のお前はすべてが敵だとでも言うような目をしていた。それ以外の感情を閉じ込めた人形のようだった。だからこそ…」
「梶尾様のお蔭です。私はあなたを本当の父のようにお慕いしておりました。必要としてくれる梶尾様の為になら命も投げ出す覚悟なのです。だから、だから私はここにいます」
そうだ、理由などいらない。例え必要とされようがされまいが、私は自らの意思でここにいるのだ。
「私は何もしなかった。父の資格などない。本当に何かしたというのならば、それは上原一家だろう。気づいているか? あの任務からお前は変わったのだということに」
違う。今そんなことは聞きたくない。
「その話はもういいです。とにかくここを出ましょう。話はそれからすれば――」
一際大きい振動が起きる。コロニーに限界が迫っているのだ。急がなければ爆発に飲み込まれてしまう。だが、梶尾は小さく首を振った。
「もういいのだ。どの道この傷では助からん」
傷口からも絶え間なく血が流れ続け、その表情からは血の気も無くなっている。だが、浅野はそれで納得など出来ない。
「無理にでもお連れします」
幾度も涙を拭いながら叫ぶ。
「私にはあなたが必要なのです。お願いです、一人にしないでください。わたしは…わたしは…」
そっと暖かいものが頭に触れた。梶尾の無骨な掌が、浅野の頭をやさしく撫でた。
「私の最後の頼みだ…」
浅野は頭から顔へと降りてきた手を包み込むように触れる。梶尾は微笑した。
「滑稽だな…、わたしも殉教者ではないようだ…。人類の敵である筈のお前に……生きて欲しいと思って…いる…。ほんとうに…勝手なものだ……」
浅野は小刻みに首を振る。その瞳は瞬き一つなく、一瞬たりともこの時を記憶に刻み忘れぬようにしているかのようでもあった。
「真奈美……。この先に…きたる未来…に、生きては…くれないだろうか……」
梶尾の言葉からはもう命の息吹が消えかけている。浅野には何も答えられなかった。答えられるほどの自信がなかったのだ。するりと落ちていく梶尾の手を必死で握った。
「梶尾様! 梶尾様っ! 梶尾様っ!」
梶尾現十は答えることも無く静かに息を引き取った。
微震が続く中、浅野は呆然と梶尾の身体を抱きしめる。
また大事なものを失った。
愛してくれた尊敬すべき母であり姉であった上原蓮を守れずに失った。
至上の存在とし、その全てを捧げた父である梶尾現十をまた守ることが出来なかった。
そして――
生きる意味さえ失った。
自分は今まで何をしてきたのだろう。
大事なものを何一つ守れず、いや、守るということの意味がどういうものなのか分からなかった。だからこそ、すべて指の間から流れ落ちる水の如くに失ったのだ。すべては自分のせいなのだ。
父であった男の亡骸を横たえ、胸の上で手を重ねた。そして立ち上がると浅野はふらりと歩き出した。
「わたしは…どうしたら……」
すべてを失い、虚ろな色を全身に宿らせた身体はまるで幽鬼のように、目前に伸びた闇の口へ向う。
薄暗く、どこへと繋がっているのかも分からない通路に足を踏み出し、浅野真奈美は、その身を闇に溶かしていった。




