第99話 洗礼
長年、誰一人として座ることのなかった王座は、この日もなお主を失ったままであった。
されど、その空席が埋まる日が、ついに訪れる。
——王位継承を巡る、王公会議である。
その重厚な扉を見上げながら、王子は生唾を飲み込んだ。
この扉の向こうは、王子の未だ踏み入れたことのない世界。
知らず汗ばんだ手を握り締め、王子は隣へと目を向ける。
同じように、王女が扉を見上げていた。
その表情はいつもと変わらぬ。
しかしなぜだろう、その無愛想な横顔が、王子にはいつもと違って見えた。
——中には、公爵もいるというのに。
王子の視線に気づいたのか、王女がこちらを向いた。
表情は乏しいままだ。
「……いつ入るの?」
俺に言うなよ。王子が口を尖らせると、王女もまた眉をひそめた。
王女の問いを合図と見た宰相が、後ろに立って二人の背に触れた。
「……準備は、よろしいか?」
王子と王女は同時に頷いた。
王子が議場に足を踏み入れた瞬間、空気が凍りついたように静まり返った。
一拍遅れて椅子を引く音が重なり、居並ぶ貴族らが一斉に立ち上がり、浅く頭を垂れた。
頭を垂れながらも、その視線だけは王子を捉えていた。
宰相に導かれるまま足を進めると、目に入ったのは議場の最奥——ぽつりと残された、王座であった。
——父の席であった。
その手前に、王子と王女のための椅子が並んでいる。
「……王子殿下、王女殿下、お揃いでございます」
宰相の声を皮切りに、貴族らが揃って着席した。
議場は厳かな空気に包まれていた。
王子が顔を上げると、その正面には公爵がいた。
その藍玉はいつもと違い、ひとつも笑っていなかった。
始まりは黙祷だった。
「国王陛下の崩御に際し、深き哀悼の意を捧げます」
しばしの沈黙の後、宰相がぞろりと並ぶ貴族らを眺め、言った。
「陛下亡き今、王位を空位のままにはしておけませぬ。本日の議題はただひとつ」
「王位継承にございます」
その言葉に貴族らが襟を正し、視線は一斉に王子へと注がれた。
動揺を悟られぬよう、長机の下で王子が拳を握った。
「継承法に則れば、次代の国王には王太子エリオス・ヴァレンティノ・アステルディア殿下が即位されます」
「これに異議を唱える者が居られましたら、ご発言願います」
心の臓が早鐘を打つ。
妙なざわつきが、王子の胸中を支配していた。
公爵の隣に、北方公の姿があった。
この局面で、彼の言葉が過る。
——自惚れるなよ小僧。
——王は望んでなれるものか?
——王太子殿下、あなたはお父君に身も心も似ておられる。
あの言葉は、賛辞ではない。
——殿下。諸侯らは王を王と見なさない。
——その淀みを受け継ぐのは、あなたなのです。
宰相の言葉を聞いた今ならば分かる。
諸侯らは、俺を——。
静けさがあたりを支配している。
「ひとつ、よろしいでしょうか」
正面の公爵が、ゆるりと手を挙げた。
宰相はわずかに喉を鳴らし、ひとつ息を吐いて言った。
「どうぞご発言ください、公爵閣下」
公爵が見つめるは、目の前の王子。
その瞳は静かな色を湛えていた。
「……私の意見を申し上げます」
「継承法に則り、王太子殿下を次なる王としてお迎えすること」
「そこに異論はございません」
「皆様はいかがでしょうか」
公爵が居並ぶ貴族らを見渡すと、その方々から拍手が上がった。
見れば知る顔が手を叩いていた。デミテス侯、ロッカス侯、メイロード伯まで。
北方公すらも、その手を打っていた。
他の貴族らも、それに倣うように拍手を送った。
王子がその紅玉の瞳を大きく見開き、貴族らを見渡した。
ああ公爵、お前——。
思わず笑みが溢れかけたが、王子は唇を噛んだ。
拍手は続き、やがて落ち着いた頃、公爵がまた口を開いた。
「……しかしながら」
「殿下は十一歳。未だ未成熟であられるが故に」
「現行の宰相閣下の摂政体制を維持し、その下で王としてのご経験を積まれるのが望ましい、と考えております」
宰相は探るように公爵を見た。
そして一瞬目を伏せると、その視線は王子へと向かった。
「……承知いたしました」
「只今公爵閣下より、現行の摂政体制を維持すべきとのご提案がございましたが」
「殿下のご意見はいかがでしょうか」
息を整え、王子が告げた。
「……無論、貴族諸侯らの不安は承知している」
「もとよりそのつもりだ」
「左様で」
王子の答えに、公爵が薄く笑った。
この議場に来て、はじめて見た笑みであった。
王子が張り詰めていた肩の力をわずかに抜いた。
その視線は宰相へ行く。宰相は小さく頷いていた。
そして自然と、視線は騎士団長へも向かった。
彼は分かりやすく笑んでいた。
最後に王子の視線は、横の王女へ。
王女は、公爵を見ていた。
だが、不思議そうに首を傾げている。
公爵は横の北方公へ目を向け、続いて居並ぶ諸侯を一瞥した。
その視線が王子へと戻ると、公爵の笑みは消えていた。
「それでは皆様——」
宰相の声に王子が肩をなでおろすと、それに被せるように、声がした。
「恐れながら」
「王子殿下。最後に、一つだけお約束を賜りたく存じます」
公爵の言葉に議場がまた静まり返った。
「先ほども申し上げたように、殿下はまだ未成熟なお方」
「あなたに、王たる資質があるかどうかは未だ未知数」
「故に、お願いがございます」
公爵の目は、王子を捉えている。
その目が蛇のように王子に絡みつく。
離さない、離れない。王子はその紅玉を見開いたまま逃げられなかった。
——今、コイツの目を、見ていたくないのに。
「数年、我ら貴族に王としてのお姿を見定める期間をいただきたく存じます」
「来たるべき時に、改めて王公会議においてその資質を問わせていただきたい」
「その上でなお、王として国を導くことが叶わぬと判断されたならば——」
「……その折は王家と国民のため、自ら王冠をお返しいただきたい」
「……何を」
突きつけられたその言葉に、王子は返す言葉をもたなかった。
口は半端に開いたまま、息ばかりが行き来していた。
公爵の言葉に北方公が続いた。
「南方公の案に準じよう」
「王子殿下、即位は認めるのだ。力を示していただきたい」
議場の後方で、メイロード伯が手を挙げていた。
「私も倣おう」
「私もそのように」
メイロード伯。デミテス侯。ロッカス侯。名だたる諸侯らが次々と挙手して公爵に同調した。
宰相が口を開きかけたが、挙がる手の数を前に、その言葉は声にならなかった。
あっけに取られた他の貴族らは、視線を彷徨わせていた。
一人、騎士団長が長机を叩き、立ち上がった。
「お待ちくだされ!」
「継承法に則り殿下の即位を認めるのであれば、なぜ今ここで、その資格を問うのですか!」
「殿下はまだ十一歳なのですぞ」
騎士団長の声に触発され、周りの貴族らが声を上げ始めた。
「その通りだ」
「即位を認めると言ったではないか! それでなぜ、今から退位の条件まで付けるのだ!」
「ローデンバルド公、いかに無礼な真似をしているか、発言の意味を分かっているのか」
議場のあちこちから声が飛び交い、先ほどまでの静寂が一気に崩れた。
「おのれらは王族を何だと思っている……! あまりに無礼ではないのか」
「殿下はこれから王になるお方だぞ! それを——」
「騎士団長!」
宰相の鋭い声が飛び、騎士団長が言葉を呑み込んだ。
貴族らの抗議を浴びる間、諸侯らは誰一人として顔色ひとつ変えなかった。
やがて静まり返ると、何事もなかったように諸侯らがゆっくりと手を上げ始めた。
「……ローデンバルド公の案に同意します」
「陛下を補佐する者たちが、陛下の御名のもとに何をなすのか。それを我らは憂慮しております」
「同じく」
諸侯らの大多数が迷いなく手を挙げていた。
——まるで、始めから決まっていたかのように。
そして、最後に弱々しく上がったのは、東方辺境伯の手であった。
「……我が領は、未だ隣国の脅威に晒され続けております」
「あなたの治世に、我が領を委ねる覚悟はありませぬ」
挙がる手は、諸侯だけではない。
王子の見知った姿もあった。数を数えるまでもなかった。
立ったまま呆然とした騎士団長の身体が、小さく震えた。
「……はじめからそのつもりで」
長机の下で、王子は膝に爪を立てた。
皮膚に爪が食い込むほど、強く。
そうしなければこの現実を目の当たりに出来なかった。
騎士団長も、宰相すらも目を伏せた。
「……数年っていつまでだ」
王子が口にできたのはそれだけ。
「……七年後」
「我ら諸侯一同、ご立派に成長された陛下のお姿を拝見できますことを、願っております」
その先を、王子は覚えていない。
気づけば宰相にその手を引かれていた。
何処だかすら、分からない。前をゆくその丸まった背を見て、王子は唇を噛み締めた。
「分かったか、殿下」
「あれがこの国の諸侯。あなたの臣下だ」
「…………」
「……七年後ってなんだよ」
二人だけの空間は、どこか王子を安堵させた。
もう王子を追い詰める者はいない。
「……七年後、王女殿下は何歳になられる?」
「デビュタントの年だ、殿下」
「王女の持つ継承権が、意味を持つ」




