第98話 継承権
「……少しだけ、お時間を頂いてもよろしいでしょうか」
王子が宰相と長い話をしている頃、王女の私室には公爵が訪れていた。
王の崩御以来、公爵は王宮に留まっていた。
「いいよ」
王女は薄っすら微笑んだ。
公爵が選んだのは、いつも教師が王女に教鞭を振るう座学部屋であった。
護衛も侍女も下がらせ、公爵は室内の長机へ歩み寄った。
対面に座る二人の周囲には歴史書や地図が広がっている。
王子はもうじき、王となる。
その前に話をしておかねばならない。公爵はそう言っていた。
……けれど王女は王にならぬ。意味のある話だろうか。
王女はその言葉を飲み込んだ。
公爵が語ったのは、二十年前の紛争の話だった。
「……諸侯は王の裁定を待つことは出来ませんでした」
「待つことは地方にとって、死を意味しますから」
「貧困、病、人手不足、数々の災に見舞われる辺境を救ったのは王ではなく……同じ地方領主でした」
「諸侯の連なり」
「かつて領地を救った縁を、我々はそう呼んでいます」
穏当な語り口は歴史書でも開いているかのようだった。
忘れぬよう、王女は帳面を開いて公爵の言葉を綴った。
二十年前にあったことだ、そう語られてもなお、王女には現実味がなかった。
今なお続く王家と諸侯の亀裂。
はじめて聞いた史実は、やはりどこか遠くの話のようだった。
「……お父様が、駄目だった?」
「…………努力はされていたでしょう」
「その場で最善を尽くせる者などそうはいない」
やはりその語り口は穏やかであった。
「……しかし、王はそれを求められる」
公爵の眉にわずかにしわが寄った。
気づく者は少ないだろう。だが王女は見逃さなかった。
「王の失策はそれだけではない」
公爵の言葉に熱が籠った。
ペンを握る手が止まり、王女は公爵を見つめ始めた。
「……先ほどお伝えしましたね、歴史書でも習った辺境伯のお話を」
公爵が次の言葉を紡ぐ前に、王女が語った。
「東方のフランゼル領は隣国との戦により奪われ、辺境伯が捕虜になった……って」
王女の言葉に公爵はわずかに目を見開いたが、瞬きの内に笑みを作った。
「王女殿下は聡明であられる」
ツキリと王女の胸が痛んだ。
王女殿下。公爵が呼ぶことには、いまだに慣れない。
「……王は、辺境伯の解放のためにフランゼル領と、周囲にあるメイロード領の田園地帯を捨てました」
「その判断だけは迅速であったとか」
公爵の笑みが深まる。
だが、その笑みは語る内容にはそぐわなかった。
「……領地ならば取り戻せるが、命は取り戻せぬと、王はそうおっしゃった」
「辺境伯は、王に最も近い友であったそうです」
「……お父様の友」
最も近しい友。王女の中にその言葉が響く。
父は友を犠牲にできなかったという。
ならば王女なら、どうしただろうか。
……今、王女の目の前にいるのは。
「しかし、王の判断は結果的に諸侯らの失望を買いました」
「……次捨てられるのは我が領かもしれない……」
「今も諸侯らは、王に判断を委ねることに不安を抱えたままです」
公爵が口を閉じた。
そして開かれた歴史書を畳む。
「……紛争は、私の父の代に起きた話です。——私も伝聞でしか知らぬことですが」
公爵の視線が隅の柱時計に向かい、微笑んだ。
「思ったより、お時間を頂戴してしまったようですね……申し訳ありません」
「大丈夫、わたしのすることは少ないから」
葬儀は昨日であった。
兄も、使用人も、周囲は忙しないが王女のすることなど限られている。
目の前にいる公爵も、本来は忙しいのだろう。
「……忙しいのに、お話してくれてありがとう」
公爵は目を伏せた。
「礼には及びません。……王女殿下も、未だ御心が定まらぬでしょう」
「このような時にするお話ではなかったでしょうが……必要なお話でした」
公爵の声は静かな座学部屋に消えていった。
王女は王子と違う。
王に撫でられた記憶など、王女にはなかった。
「わたしは大丈夫」
そう口にした後、王女はふと目を伏せた。
少しためらいを見せた後、口を開いた。
「でも……ひとつだけ教えて」
「……どうしてわたしにこのお話をしたの」
必要なのは、王子だろう。
公爵がゆっくりと立ち上がり、向かいに座る王女へ歩み寄った。
「……王子殿下が王になられる前に……そう申し上げましたが、それは正確ではありませんでした」
「正しくは王公会議前に」
そして王女の前で恭しく跪く。
「……あなたも、継承権をお持ちなんですよ、王女殿下」
座学部屋で公爵と別れた後、王女は私室へと足を向けた。
回廊では使用人たちが忙しなく走り回っており、ゆっくりと歩く王女の姿はどこか場違いなように感じられた。
回廊の先が、にわかに騒がしくなった。
「歩くって言ってるだろ、引っ張るな!」
「時間が惜しいんです、次は教会に参らねば」
「お前より俺のほうが足は早いんだぞ!」
「走られて消えられるのは困るんですよ」
王子は、近衛に腕を引っ張られていた。
……元気そうだ。
王女は息をついた。
王子と王女、視線が交わるのは同時であった。
「あっ」
王女を見やった王子が、途端にそっぽを向いた。
だが、その場でピタリと足を止め動かない。
近衛の焦った声ばかりが響く。
頭を掻いたり、石畳を蹴ったりと王子は落ち着かぬ。
先に口を開いたのは王女の方であった。
「……お兄様、大丈夫?」
「お兄様はいつでも大丈夫だよ!」
だが王子の声は上ずっていた。誤魔化すように王子が口を開いた。
「……お前はこんなとこで、何してた?」
「公爵からお話を聞いてた」
「なるほどな」
王子が目を伏せた。
「……俺も、宰相から話を聞かされてた」
「……退屈な話をな」
王子が口角を上げて肩をすくめた。
言葉を交わす兄妹を、近衛も邪魔はしなかった。
王女が数歩王子に歩み寄って、その頬をつねった。
「……わたしは大事なお話を聞いたよ」
「バカお前……」
なおもつねる王女の頭を、王子は乱暴に撫でた。
「……俺だって大事な話、聞いてたよ」




