第97話 貴族の網
王の葬儀の翌日のことであった。
「騎士団長、ゼト……隠れてないで出てこい」
王子の低い声音に、扉の影から茶色い頭が二つ、現れた。
上に騎士団長の頭。下にゼトの頭だ。王子の様子を窺っている。
重厚なソファに身体を沈め、王子は書物を開いていた。
頭には入らない。ただ目を滑らせるように眺めていた。
先程から、邪魔な奴らが声もかけずに王子を窺っているからだ。
「……早く来い」
痺れを切らした王子の声に、やっと二人が扉から姿を現した。
深くお辞儀をし出した騎士団長とは裏腹に、ゼトは後ろ頭を掻きながら王子に寄ってきた。
「……なんか、珍しく書物とか開いてるから声かけづらくてさぁ」
ゼトの三白眼が王子の膝にいった。
膝に乗っているのは分厚い法律書。確かに見慣れぬものだ。
王子が息を吐いた。
「読まないといけないだろ、これからは」
王子が立ち上がり、ずいっと法律書をゼトの眼前に突き出すと
「……あっ止めてくれ、目が腐る!」
ゼトは悲鳴を上げて後ずさり始めた。
この書物は魔除けになりそうだ。……王子は薄ら笑った。
次に寄ってきた騎士団長を見やり、王子は口を尖らせた。
「……昨日は近づいても来なかった薄情者が」
王子が睨めつけると騎士団長が肩をすくめた。
「……昨日のエリオス殿下はご立派でしたよ」
「当たり前だ。王太子なのだから」
王子がふんぞり返って口角を上げた。
来なくてよかった。
王子は独りごちた。
きっとこの二人が寄ってきたら、耐えられなかった。
不意に王子の目にうっすら涙が滲み、隠すように手元の書物を騎士団長にも突き出した。
「……うわ、やめてくだされ、夢見が悪くなる!」
騎士団長が片手で防ぎ、ゼト同様に退いた。
やはり魔除けになる。
王子は傍らに書物を抱いた。……しばらく抱えていよう。
「体調はいかがですか?」
「……すこぶる悪いな」
頭は重い、目元も痛い。身体は鉛のような重さに包まれていた。
けれど動かねば。
そうしなければ、王子は二度と動けぬような気がした。
「だが立ち止まってもいられないだろう」
「何の用だった?」
私室の外は先程から使用人たちの足音で騒がしい。
窓辺には行き交う馬車や騎士たちの姿も見えていた。二人も忙しいだろう。
「いいえ、お顔を拝見できればと思っただけです」
「そうさ、寄っただけだ。何せ忙しいからな。……お前も忙しくなるぜ」
騎士団長とゼトの言葉に、ふっ。王子が笑った。
コンコン。
私室の扉が軽く叩かれ、王子が促すと
「失礼いたします。……殿下、お加減はいかがですか?」
おそるおそる薄茶の頭が顔を出した。
私室に一歩足を踏み入れたセヴェルだが、中に騎士団長とゼトの姿を認めると、不安げだった表情がみるみるうちに和らいでいった。
「ああ、最悪な気分だな」
「……そう……でしょうね……」
王子の答えにセヴェルが首を傾げたが、気を取り直してこう告げた。
「……宰相閣下が、お呼びです」
「ああ、宰相か」
忙しないものだ。
「…………」
王子が傍らの書物を開き、両手でセヴェルに突き出した。
「……うわ……なんですか急に」
セヴェルは微動だにせぬ。
代わりに煩わしそうに書物を払われた。
「法律書?」
セヴェルの琥珀色の瞳が困惑に彩られる。
「殿下がお持ちに……?」
「……殿下、無理はなさらぬほうが良いですよ?」
王子は持っていた書物をセヴェルの額にぶつけた。
「いつも一言余計だなお前は」
効かぬ魔物もいるようだ。
宰相も効かぬだろうな、この調子では。
呼ばれたら、行くしかないだろ。
王子は宰相の執務室前に立っていた。
いつもこの部屋では説教が待っていた。
鷲鼻の眼光は鋭く王子を突き刺し、王子は長い小言に耐えていた。
それが日常であった。
いつもならやれやれと、そう言いながら扉に手を掛けたものだが。
だが今日は、その扉がやけに重い。
王子の後ろには近衛が待機していた。
見られている。尻込みする姿など、見せられない。
王子は鼻で息を吐いた。
——俺は王太子だ。宰相の話など、なんてことはない。
ドンドンドンドンドン!
執務室の扉を思い切り叩いた。
「何の用だ、宰相! 実入りのある話だろうな?」
王子が扉を開け放った時、宰相は待ち構えるかのように立っていた。
そして鼻で笑った。
「まったく、いつになっても変わらぬ利かん坊だ」
「ノックは二回、何度言えばよいのだろうな」
「ふん、今度から五回と定めればいい」
腕を組んで仁王立ちする王子の姿に、宰相の目尻は少しばかし下がっていた。
「……元気があるようで何より」
「だが……今からお話する内容はとても退屈ですからな」
「その元気がいつまで続くことやら」
「退屈な話?……この書物よりもか?」
王子はまだ法律書を片腕に抱えていた。
そしてその中身を宰相に突き出した。
「…………」
「ほう、法律書。一丁前にそんなものを読むようになられたか」
「……試しに第一章を読み上げてみよ」
「何?」
王子は後ずさった。
法律書を手元に戻してめくり始めた。
「……丁度良い、毎日読んで成果を報告するようにな」
王子は歯を剥いた。
余計なことをした。この書物は諸刃の剣だ。
王子が投げ捨てるように長机に法律書を置くと、待っていたかのように宰相が王子をソファに手招いた。
「……今からあなたに大事なお話をさせていただきたい、王太子殿下」
「諸侯らが今、あなたの即位に際し何を思うか」
「……二十年前に遡るお話をさせていただきたい」
宰相の背後には、色鮮やかな空が広がっていた。
妙に濃い青であった。
まったく、人の気も知らぬ空だ。
王子は唇を引き結んだ。
「……退屈そうな話だな?宰相」
「その減らず口、最後までもたせて下されよ、殿下」
ソファに頭を預けた宰相が、おもむろに口を開いた。
先ほど侍女に出された茶は、まだ湯気が立っている。
「二十年前の紛争についてはご存じですな、殿下」
「父上が隣国と戦い、東方のフランゼル領を奪われた話だろう。辺境伯が囚われ、講和の代償として領土を明け渡した。……俺もシエルも習ったぞ」
両腕を組みながら、王子がソファに身を沈めた。
「ええ。そこまでは歴史書にも記されておりますからな」
宰相は一度言葉を切った。
「ですが、そこから先はあまり語られぬ」
「……何がだ」
「戦は講和で終わりましたが、戦の傷跡は深かったということです」
「長引く戦により地方は疲弊しました。失われた兵、荒れた農地、滞る物流。各領から王へ幾度も救済を求める陳情が届きました」
「……父上はどうされたんだ」
宰相は静かに首を振る。
「……次から次へと回る陳情に、王は後手に回りました。一国を立て直すには、あまりにも傷が深すぎた」
「早馬が王都へ着く頃には、村が一つ消えていることも珍しくなかった」
「時間も資源も人手も足りぬ……それを父君は何もかもご自身で背負おうとなさっていた」
「私の力など、なんのお役にも立てなかった」
「……」
「……王は、戦に慣れぬ王でした」
遠い目の宰相に、王子は掛ける言葉を失った。
「……しかし、地方は王を待たなかった」
「諸侯らは、結託しました。……領地の存続のため、民を守るため。それは次第に王家を介さぬ繋がりへと変わっていきました」
「王の知らぬところで、貴族の網が出来上がっていたのです」
王子は眉をひそめた。
「つまり……王命ではなく、貴族同士で国が動くようになったと?」
「ええ」
宰相は迷いなく頷く。
「それは、諸侯らと王との決裂でもありました」
部屋に沈黙が落ちる。
「やがて諸侯は力を蓄え、その繋がりは戦時だけのものではなくなります。平時にも息づき、今なお続いております」
「そして父君は病に伏され……天へと召された」
「今や諸侯無くして国は成り立たぬ」
宰相はエリオスをまっすぐ見据える。
「……殿下。諸侯らは王を王と見なさない」
「……その淀みを受け継ぐのは、あなたなのです」
出された茶は冷めきっていたが、もはやそれに手を出す者は、いなかった。
「……王公会議、覚悟されよ殿下」
水面に浮かぶ琥珀色は、静かに揺らいでいた。




