第95話 子供時代の終わり
骨ばった細い手をそっと撫で、王子はゆっくりと両手で包んだ。
王の息はか細く、まぶたは閉じられていた。
こけた頬がやけに目につく。上下する喉は皮ばかりであった。
「…………」
王の手を握る王子は言葉を紡げなかった。
唇を結び、ただ耐えた。
口を開けば、何かが瞳から零れ落ちそうであった。
寝台の向かいには王女の姿がある。
王女は王子の顔を不思議そうに見やってから、王に視線を移した。
王子の肩に、そっと大きな手が乗った。
熱のこもった、温かく厚い手。王のか細い指先とは対照的な、生きた手だ。
「お声を、かけてあげてください」
騎士団長が、王子を労るように優しく声をかけた。
促され、王子が手を離し、王のそばに寄った。
王女も宰相に促され、王の傍らへ歩み寄った。
そして王女と宰相がそれぞれ王の手を取った。
「……父上」
背後では使用人も近衛兵も息を潜めていた。
「ゆっくり休んでください」
王子が王の額に自らの額を寄せ、王の耳元で囁いた。
「……大好きだよ、父上」
王のまぶたがピクリと動いた。
少しばかり開いた瞳が、王子を見やる。
目尻にはシワが寄っていた。
王子とよく似た、赤い瞳であった。
◇
窓辺には澄み切った青空が広がっていた。
なんのしがらみも苦しみもない。そんな青だ。
窓辺に飾られている花は、陽を受けて光っていた。
その紫色の花弁を見て、公爵は目を伏せた。
「ローデンバルド公」
己を呼ぶ声に、公爵は我に返った。
「どうかされましたか、閣下」
「……いいえ、失礼。思案しておりました」
周囲が訝しげに公爵を見やっている。
公爵は一つ息を吐いた。
「もはや予断は許されぬ。王は次の王公会議を待たぬだろう」
片眼鏡の老人、——メイロード伯が口にした。
「即位するは未だ未熟な王太子」
「……であれば……我ら諸侯の成すべきことはひとつ、よろしいか皆々様?」
メイロード伯がその眼鏡の奥を光らせ、周りを見渡した。
広い一室には十数名の諸侯の姿が。
——諸侯会議。
各地の有力領主らがローデンバルド領に集っていた。
「未だ暴力王子の異名が消えぬ王太子……国をまとめるには時間を要するでしょうな」
「我が領は辺境ゆえ、若い王の治世が安定するまでは気が抜けませんな」
領主らが口々に言った。
極めつけに、公爵の向かいに座っていた目立つ長身、北方公が一拍置いて口を開いた。
その視線は、公爵を向いていた。
「……あの王太子に王の資質はない」
静かだが、通る声であった。
北方公の瞳は、公爵を刺すように見据えていた。
その狼は、食らいついたら離さない。
公爵は微笑んでその視線を受け流した。
「……アイゼングラード公は容赦がありませんなぁ」
「殿下はまだ子どもであられるぞ」
片手を振って大笑いしているのは髭面の、——デミテス侯であった。
静けさに満ちた室内に、髭面の笑い声はよく響いた。
ひとしきり笑い終えると、デミテス侯が言った。
「まあしかし。資質というのであれば……最近は王女殿下がその才を伸ばされておるとか」
「建国の王は女王であろう、隅に置けぬのでは?」
デミテス侯の視線もまた、公爵に向いた。
公爵は言う。
「……王子殿下も王女殿下もまだその才を計れるほど成熟してはおらぬでしょう」
「まずは様子見が肝要、私はそう申し上げたはずです」
北方公、デミテス侯、それぞれに視線を投げかけると、デミテス侯は苦笑いを浮かべ、……北方公は、なおも公爵を見据えたままだった。
公爵の言葉にまた場が静まり返り、誰一人として言葉を返す者はいない。
静けさを打ち消すように、口を開いたのはメイロード伯であった。
「いずれにせよ、王公会議ですべきことは決まっておる……」
メイロード伯の視線が公爵に向かい、ギラついた。
「ローデンバルド公」
「……あなたに一任してよろしいか?」
その問いは意味を成さない。
公爵は用意した答えを紡ぐだけ。
「……ええ、手筈通りに」
そしてその日の夜、王は崩御した。




