第91話 大人たちの夜会
「王との時間を大切にしてくだされ」
今朝、宰相からそう告げられた。
当たり前だろそんなの。今更言うな。俺が大事にしてないとでも?
王子がそう返すと、宰相は静かに頭を下げた。
調子が狂う。
いつもなら宰相は——。
外回廊を行く王子は、足元の石畳を見つめていた。
少し離れて後ろを歩く近衛が言った。
「……前を見ないと、危ないですよ」
そんなことは分かっている。
子供ではないのだから。
心の中でだけ、そう言い返した。
「エリオスはっけーん!」
遠くから聞き慣れた声が響いた。
だがどこだ? 茶髪を探せどその姿は見えぬ。
気づくと後ろから足音が近づき、王子は背を叩かれた。
走ってきたゼトは片手に望遠鏡を携えていた。
「俺からは丸見えだったぜ」
遠くの城門を指し示すゼト。
公爵領で買った望遠鏡はゼトの相棒になったらしい。
「最近顔を見なかったな、忙しかったか?」
ゼトのお気楽な言葉に王子は長く息を吐いた。
公爵領から帰ってから散々だった。
遊びの時間は終わりだ。そう言わんばかりに勉強部屋に連日押し込まれた。
座学が終われば王都を回って奉仕活動やら貴族への顔見せやらだ。
王子の手はもはや木剣の感触を忘れそうだった。
「最近は座学を叩き込まれていてな……」
「奉仕だのなんだのと孤児院回りもさせられている」
「……道理で見かけねえと思った」
外回廊には西日が差し込んでいた。
石の柱が陽に焼かれて赤く色づいている。
「俺も今日、セヴェル坊っちゃんと側近教育だかなんだかさせられてたぜ」
「いっしょだな、エリオス」
ゼトのあっけらかんとした声が回廊に響いた。
つられて王子が笑う。
「……セヴェルとは、上手くやってるか?」
「やれてるわけねえだろ、頭固いぜあの坊っちゃんは」
「教師の説教より坊っちゃんの小言のが多いぜ」
肩をすくめたゼトに、王子が声を上げて笑い出した。
いっしょだな、ゼト。今度は王子がそう返した。
目を細めた王子の視線の先に、赤いドレスが映った。
西日の強さにも負けぬ鮮烈な色であった。
その令嬢を連れていたのは、——いつもの亜麻色。
深紅の上着は遠目でもよく目立つ。
「……なんでこの時間までいるんだアイツ、とっとと帰れよ」
令嬢が公爵の腕にしがみついていた。
王女が見たら卒倒しそうな光景だ。
王子の視線に気づいたゼトが、手に持った望遠鏡を翳した。
「今日王宮で夜会があるって聞いた」
「……ここ最近夜会に出ずっぱりらしいぜ公爵」
「今宵公爵閣下が選ぶ花はどの色の花か……ってな」
望遠鏡を覗き込んだゼトがその姿勢のまま王子を向いた。
「今日は赤い花らしいぜ」
「なんだそれ」
「風聞紙が騒いでた」
大人たちの夜会など王子には預かり知らぬことだ。
あの亜麻色を見たらどっと疲れが湧いてきた。
纏わりつくゼトを尻目に、王子は回廊を歩き始めた。
◇
「宰相閣下、少々お疲れのようにお見受けしますが……」
宴が始まってしばらくして、寄ってきたのは薄笑いを浮かべた男であった。
「心配には及びませぬ、ここの所、宴が続いたせいでしょう」
宰相の答えに、公爵が小さく頷き目を細めた。
「宰相閣下に倒れられては困る者も多くおります」
「どうかご自愛ください」
「……ご厚情痛み入ります、公爵閣下」
そうして短く言葉を交わすと、公爵は踵を返していった。
しばしその後ろ姿を見ていると、あっという間に令嬢たちで埋もれていった。
言葉ばかりは尽くす男だった。
もっとも、それは公爵だけではない。
先程から貴族らが次々と宰相の元を訪ねていた。
そして皆、似通った言葉をかけてきた。
露骨な者もいた。
「王のお加減はいかがでしょうか」
皆が探るものなど明白であった。
公爵の周りには常に令嬢が集っている。
若い娘らの甲高い声は、夜会の花であった。
「あの娘も取られた。……今日は駄目だ」
宰相を横切った令息たちがこうぼやいていた。
近頃公爵をめぐり、風聞紙は騒がしくなっていた。
公爵があちこちの夜会へと顔を出していたからだ。
嫁探しに動き出したのではないかと、書き立てられていた。
寄ってきた侍従が宰相に耳打ちした。
「アイゼングラード公とメイロード伯が会場を抜けました」
今宵の宴には、普段見ぬ顔もあった。
常なら北に籠もっている者と、歳ゆえ近頃は宴に姿を現さなくなっていた者。
貴族らが、動き始めていた。
「……御二方は休息すると仰られ、部屋に戻られました」
「ずいぶんと早いことだな」
貴族らの常套句だ。
宰相の視線が公爵へ伸びた。
令嬢、貴族、忍び込んだ記者。
誰もが目立つ男ばかりを見ている。
——公爵は貴族どもの良い隠れ蓑だな。
はて、アイゼングラード公とメイロード伯は何を話していることやら。
◇
灯りのともった回廊に、ひとつ影が落ちた。
足元の絨毯が足音を消し、影だけが蠢く。
公爵が立ち止まったのはひとつの部屋の前だった。
扉を二度叩くと、返ってきたのは。
「入れ」
短く低い、男の声。
その声に促されるように、公爵が扉の奥へと消えていった。
翌日。
王都を賑わせた風聞紙の見出しはこうだ。
——その夜、若き公爵が摘み取ったのは赤い花。
その紙面を手にした宰相が鼻で笑った。
騙されおって。風聞紙など、この程度。




