第88話 意中の令嬢
「セヴェル、お前に土産だ」
そう言って王子が放り投げたのは、装飾の施された革鞘に収められた小物であった。
セヴェルが革の鞘を抜くと、中から小さな刀身が現れた。
「公爵領に行ったからな」
「ペーパーナイフですか?」
「そうだ、お前に合うんじゃないかと思って」
公爵に小遣いを渡されたあの日、王子の手元には銀貨一枚が残っていた。
その使い道を考え、ふと思い出した顔があった。
「……その、ありがとうございます」
セヴェルは受け取った土産を胸の前で握りしめた。
見やった王子がほくそ笑む。
この頃、セヴェルは文官見習いとして宰相のもとへ通っていた。
以来、宰相が王子に用があるときはこうして私室にセヴェルをよこした。
「いかがでしたか、公爵領は」
「う~ん、大したことはない。想像は越えてこなかった」
「海が綺麗だったくらいかな? ……蟹も美味だったが」
「魚サンドも……」
肩をすくめ、王子が早口で話し始めた。
「……だがまぁ、また行ってもいいかもしれない。今度はお前も連れて行こうか」
「……あ、ありがとうございます……」
王子の私室まで足を運んだセヴェルと道すがら話を交わし、途中で別れた。
王子の行き先は、この王宮で最も奥深くにある部屋。
その部屋の前で、扉を守っていた守衛が王子に深く礼をした。
王の寝室の前に立つと、その扉が王子のために開かれた。
王子は深く息を吸い、笑顔を作った。
「……父上、お加減はいかがですか?」
王はもう、王子の語りかけに返事をすることすらない。
◇
王都にはまた黄ばんだ風聞紙が舞っていた。
——王、既に崩御か?
——宰相による独裁政治はいつまで続く。
政治記事に足を止める者は、もはやほとんどいない。
風聞紙売りの小僧が、紙を撒きながら語る。
「王様はもう何年も姿を見せちゃいない!」
「生きてるのか死んでるのか、それも分からない!」
「王様の居場所は宰相しか知らないんだ!」
道行く人々が、撒き散らされた紙を煩わしそうに手で振り払った。
それに不満げな小僧が、声を張り上げた。
「……社交界に名を轟かせるあのローデンバルド公爵に、意中の令嬢がいるんだってさ!」
道行く何人かが、ピタリと足を止めた。
どれもが婦人や令嬢であった。
彼女らが手に取った記事には、こう記されていた。
——南の公爵、ついに春来たか。
社交界の花形が手に取る花は何色か。
空に舞う風聞紙は風に煽られ飛んでいく。
行く先は何処か。
決まっているかのように、流れていく。
王都の劇場前に、数台の馬車が停められていた。
太陽を抱く月桂樹、馬車に縫い付けられたその紋章を知らぬ者などいない。
劇場の玄関扉から現れたのは、青いワンピースをまとった白金色の少女。
王女が、ちょうど音楽鑑賞を終えたところであった。
侍女が王女に問いかけた。
「いかがでしたか殿下、王都一の楽団が奏でる音色は」
「……迫力があった……でも……」
「はじめて聴いたから、いいのか悪いのか、わからない」
「……もう一度聞いてみてもいいかも」
「こういうのを、ルシはよく聴いてるのかな」
馬車へ向かう王女の足取りは軽い。
階段を降りる王女の髪を風が撫で、そして同時に。
王女の足元に、一枚の紙が落ちた。
「あっ」
声を上げたのは侍女であった。
侍女は慌てて手を伸ばしたが、……王女のほうが早かった。
小さな手が、粗悪な紙を手に取った。
王女の視線はただ一点に向いている。
——南の公爵、ついに春来たか。
王女の視線が、少し下に落ちた。
——ローデンバルド公爵に、意中の令嬢がいるともっぱらの噂だ。
「……ルシのこと?」
侍女が王女の視線を遮るように、その紙面を両手で覆った。
不満げに侍女に顔を向けた王女に、侍女は首を横に振る。
「殿下がご覧になるようなものではございません」
あまりの勢いに王女がたじろぎ、風聞紙は奪われた。
侍女の手の中に収まったそれは、あっという間に握りつぶされ投げ捨てられた。
「……ルシのこと書いてなかった?」
「人違いでございます」
問答無用。
控えていた護衛が馬車の扉を開け、侍女が王女に馬車の座席を指し示した。
王女はしぶしぶと馬車に乗り込んだ。
——意中の、令嬢。
王宮に帰る道すがら、王女の頭にはそればかりがあった。




