第87話 最後の朝
その日の朝、公爵領の港には、出迎えの日と変わらぬ深紅の軍旗が並び、王家の蒼き旗が静かに揺れていた。
来た日と同様、公爵兵が港を埋め、王子と王女の帰還を見送ろうとしていた。
兵の列の後ろには、王族を一目見送ろうと集まった街人や商人たちの姿もあり、港は朝早くから賑わいを見せていた。
出航前、蒼い旗で彩られた帆船の前に王子の姿があった。
「……王宮に戻ったらまた勉強漬けの日々か」
「もう少しここにいてやってもいい気がするな」
「じゃあ俺もいようかな」
王子とゼト、二人のぼやきに背後から騎士団長が一つ咳払いをした。
「冗談だ、真面目に受け取るなよ」
王子が後ろを振り向くと、兵の中心に亜麻色の姿があった。
「……世話になったな公爵」
王子の言葉に恭しく礼をした公爵の瞳の色は、今日の海の色と似ていた。
「……またおいで下さい、殿下」
「ああいいぞ」
「だが、次は何のしがらみもなく領地を巡りたいものだな」
「……それは私も望むことです」
公爵がいずこかへ視線を送ると、一人の侍従が布を被せられた品を手に王子の前に出た。
「殿下に、私からお贈りしたいものがあります」
「あなたは遠乗りがお好きだと伺いましたので」
公爵の声に合わせて、品から布が取り払われた。
布の下から現れたのは、黒革を基調とした鞍だった。
鞍橋には控えめな銀細工が施され、王家の紋章がさりげなく刻まれていた。
「殿下がお使いのものを参考に、職人へ誂えさせました」
「……あなたの愛馬によく合う、鞍を」
王子がその鞍に触れ、鞍橋をなぞった。
紅玉が細まり、そして閉じた。
「……良い品じゃないか?」
「お褒めに預かり光栄です」
王子は鞍からそっと手を離した。
港には潮風が吹き抜け、深紅の軍旗を揺らしている。
乗船を促す近衛の声が耳に響いた。
王子が渡し板に片足を掛け、後ろ手を振った。
「……また王宮で会おう」
「…………ええ」
港には出航を待つ静かな時間が流れていた。
騎士団長とゼトはもう船に乗り込んでいた。
あとは王子だけ。
旅立ちは厳かに。
ん?
ふと気づく。
何かを忘れている。
「……シエルはどこだ?」
陸地を振り返ると、手を振る公爵の横に、まだその白金色がいた。
公爵とともに、王子に手を振っている。
騎士、兵士、公爵の視線すら王女に向いていた。
「何やってるお前?」
ようやく乗船したというのに。
王子はまたも渡し板を渡って舞い戻ってきた。
「……お兄様元気でね」
「お前も帰るんだぞ?」
王女が首を振る。
「バイバイお兄様、わたしはまだここにいる」
「コイツ……!」
王女の腕を引くと、王女は抵抗するように公爵の手を掴んだ。
「……シエル殿下……」
王子に引きずられてなお、王女の小さな手は公爵の手を固く握り離さない。
公爵も引かれるように数歩前へ出た。
「じゃあ、ルシを連れて行く……!」
「公爵は連れて行かない!」
「連れて行く……!」
「犬猫じゃないんだぞ!」
王子と王女の問答に公爵が天を仰ぎ見た。
周囲の視線は三人に釘付けだ。
「シエル殿下」
お決まりのように、公爵が王女の前で片膝を立てた。
「あなたがいてくださって楽しかったです、殿下」
「…………わたしも……」
俯く王女の手を取る公爵はまるで物語の王子。
王子は口を曲げた。
「……ルシ……元気でね……」
跪く公爵の首をギュッと抱いた王女。
抱擁は思いのほか長く続いた。
まるで今生の別れだな。
周囲の音は止み、遠くの汽笛だけが生きた音を奏でていた。
「また王宮でお会いしましょう」
「……次は、いつ来られる?」
「……来週にでも」
すぐ会うんじゃないか。
王子が石畳を蹴り、二人を急かした。
公爵が王女の背を叩くと、王女の腕がゆっくりと離れた。
それをじっと見つめていた王子が王女の手を取り、引いた。
今度は王女も抵抗しなかった。
二人で渡し板を渡り、船の中へ。
それを見届けた公爵が手で合図すると、ようやっと、汽笛が鳴った。
船はゆっくりと岸を離れ、港が少しずつ遠ざかる。
船縁に張り付いた王女は、いつまでも手を振っていた。
それは公爵も同様に。
——出航だ。
公爵領編、完結です。次回から新たな展開へ進みます。ここまで読んでくださりありがとうございます。
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