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第75話 北方の主

「……何故アイゼングラード公がここにいる?」


 馬車から降り立った王子を出迎えたのは、深紅の外套を靡かせる兵士らと使用人であった。

 

 その背後にある白い壁の巨大な屋敷が、王子を見下ろしていた。

 王都の貴族街に並ぶ邸宅とは比べものにならない。

 広い庭園の向こうには訓練場らしき空間まで見えた。

 

 しかし、何かが足りない。

 門前で辺りを見回していると、屋敷の扉が静かに開かれた。

 

 中から現れたのは、見慣れた亜麻色。

 何やら額を押さえている。

 その背に張り付く、これまた見慣れた白金色。

 

 そして。

 亜麻色の背より頭ひとつ分大きな男の姿が、屋敷からのそりと這い出てきた。

 撫でつけられた黒髪に、大きな体躯。

 その長身がゆっくりと歩く度、丈の長い上着が翻った。

 ——北方領主、アイゼングラード公。

 騎士団長と、どちらが大きいのだろう。

 王子の背がぞくりと粟立った。


 二人の公爵が並んで王子の出迎えに訪れた。

 並ぶとその体躯の差が際立った。

 公爵も長身の部類だろう。

 だが、堂々たる体躯の隣に立つ姿は妙にか細く見えた。

 

 王子は無意識に己の腕を見下ろした。

 ——城に帰ったら訓練を頑張らないとな。


 王子の前に立った公爵が頭を下げた。

「……申し訳ありません、所用があり先に着いておりました」

 王子の視線は、その原因だろう隣の黒い男に向く。

「アイゼングラード公……お前も来ていたとは知らなかった」

 公爵も北方公を見やっている。

 背後の使用人たちも一様に顔を見合わせ、小声で何事かささやきあっている。


「ああ、息災だったか王子殿下。今日来るとは存じなかったが……」

「通告しましたよね」

 公爵が珍しく険を帯びた声で囁いた。

 

「何、近くに用があったので寄ったまで」

 こうして北方公と直で会話するのは、幾年ぶりだろう。王子は思った。

 はじめて彼に挨拶された時以来であろうか。

 王都で北方公を見る機会は少ない。

 王宮に訪れても拝謁を求めることはなく、気づけばまた北へ帰っている。

 堅牢な北の砦に籠もる主。

 王子を目の前にしても諂う様を見せない。

 眼光は鋭く、王子を見下ろす灰の瞳はまるで極寒の地を思わせた。

 威風堂々。そのような言葉が似合う男であった。

 

「……ルシを困らせるの、やめて」

 公爵の後ろで大人しくしていた白金色が突如声をあげた。

 珍しい。王子が見やると王女は目を尖らせて北方公を見上げていた。

「……いじめないで!」

 そして王女が詰めるように言葉を重ねた。

「いじめる……? お前には随分と幼い騎士がついているようだ南方公」

 北方公の口から乾いた笑いが溢れ、公爵が王女の背を軽く叩いて宥めていた。


 用は済んだとばかりに屋敷の中へと踵を返す北方公。

 王子は声を掛けられるまで、去るその背をずっと眺めていた。



 ◇


 

 公爵に案内され屋敷へ足を踏み入れる。

 大理石の廊下を抜け、客間へ荷物を置くと、気づけば窓の外は夕暮れに染まっていた。

 

 晩餐の席には色とりどりの果物と、公爵領自慢の海の幸が所狭しと並んでいた。

「……我が領特産の海産物をどうぞご賞味ください」

「西方から取り寄せた、なかなかお目にかかれぬ果物も」


「蟹だ……」


 ゼトの目が輝く。

 海岸に面していない王都ではなかなかお目にかかることはない。

 艷やかな甲羅と折りたたまれた長い脚を持つ大蟹が食卓の中央に鎮座していた。


「閣下、僕のためにありがとうございます」

 両手で口を覆ったゼトが感極まったように肩を震わせ公爵を見やった。

「いやお前のためでは……」

「閣下はお優しい方だって僕知っていました……」

「感激だぁ……」

 ゼトの目は食卓の中央を飾る大蟹から離れない。

「早く食えよ」

 それを横目で見やっていた王子は、すでに自身の皿に乗った蟹をフォークで掬っていた。

 王子に促され、ゼトがようやく自身の皿に目をやった。

 食べやすいようにすでに割られた蟹の足。おそるおそると切れ目にフォークを差し込み、白い身を掬った。

 吸い寄せられるようにゼトの口が開き、その繊細な肉を迎えた。

 

 ゼトの頬に一筋の雫が伝う。

 

「……閣下」

「……なにか」

「…………僕は海老も好きです」

「こらお前!」

 騎士団長の喝が食卓に飛んだ。

 公爵の視線は騎士団長に向かった。

「……あなたの息子は……」

「申し訳ありません閣下!」

 

「……あまりあなたに似ていないのですね」



「……しかし公爵」

 ゼト同様、蟹に舌鼓を打っていた王子が公爵を見やった。

「俺も蟹ははじめて食べたが侮っていた」

「美味いぞ、褒めてやる」

「……それはようございました」

 公爵の視線は自然と隣の王女に行く。

「……シエル殿下、殿下のお口には合いましたか?」

「うん、ルシのところの食事は美味しいね」

「蟹も美味しいよ……でもやっぱり、私はお魚が好き」

「……それはようございました、明日も楽しみにしていてください」


 食事は終始和やかに進められていた。

 公爵の視線はテーブルを見渡すように巡り、そしてしばしば隣の白金色に落とされていた。

 ゼトは蟹にしか向いていない。

 騎士団長はゼトの発言以来、息子を注視していた。

 

 ……王子の視線は、何度も大人たちを行き来していた。


 北方公の首を覆う襟は窮屈そうだ。

 その無骨で太い手が赤い液体に満ちたグラスを掲げた。

 太い手首が顕になり、王子の視線は自然と騎士団長へと行った。

 

 食事時の騎士団長は鎧を剥ぎ、軍服姿となっていた。

 鎧を脱いだことでその厚い胸板が顕になった。

 

 次に王子の視線が公爵に行くと、公爵の藍玉と目が合った。

 自然と王子の目が鋭くなる。

 

 公爵もグラスを手にしていた。こちらは水だ。

 比べれば如実。

 骨ばった細い腕。剣を持てない手だ。

 王子が小さく鼻を鳴らした。


「明日はどこを見せてくれるんだ? 公爵」

「そうですね、殿下にがっかりされるのも忍びないので」

「……明日まで秘密です」

「……秘密、ね。お前のことだ、さぞかし素晴らしい催しを用意してくれることだろう」

「楽しみにしようじゃないか」

 何が秘密だ。王子は歯噛みした。

 会話のしがいがない男。張り合いのない男。クソ公爵。

 こんな奴に俺の求める答えが出せるものか。

 

 王子は頭を振って気を取り直した。

 ならば。視線は黒髪の男に向く。


「……しかしアイゼングラード公」

「お前の用事とは何だったんだ」


 王子の問いにグラスを傾けていた北方公の視線が王子を向く。

 かち合った視線に温度はなかった。

 王族を見る目でも、子供を見る目でもない。

 騎士団長の真っ直ぐな瞳。

 公爵の這い回るような瞳。

 それらとも違った視線であった。

「……言ったろう、近くに用があったのだと」

「ついでに寄っただけだ」

「用とは?」

 北方公は答えない。

 言い募る王子に北方公の視線が冷ややかさを増した。

 灰の瞳がわずかに険を帯び、王子の背に冷たいものが流れた。

「……エリオス殿下、無闇矢鱈と興味を持つものではありませんよ」

 騎士団長の介入に口をとがらせた王子だったが、再び北方公に視線を送ると、彼は興味を失ったように手元の皿に目を落としていた。


 

 食事が始まってしばらくした頃、公爵が皿にカトラリーを預け、グラスに残った水を飲み干した。

 騎士団長も同じようにして席を立つ。

 北方公だけがグラスに残った赤をゆっくりと傾けた。


「……では行くか」


 空になったグラスを卓へ戻し、ようやく巨体が立ち上がる。

 話し続ける王子とゼトを尻目に、大人三人が視線を交わし合い、押し黙った。

「……ルシ、お腹いっぱい?」

 気づいた王女を見やり、微笑む公爵。

「ええ、十分頂きましたよ」


 目を細めた公爵が王子と王女、二人に向き直った。

 

「我々……少々所用があるためこの辺で失礼させて頂きますね」

「両殿下はごゆっくりお過ごしください」

 そして三人が同時に立ち上がる。

「……何かあったのか?」

 王子の問いに騎士団長が答えた。

「明日以降の日程確認です、忙しいのですよ大人は」

「……挑戦的だなぁ騎士団長?」

 手にした蟹のハサミを騎士団長に向ける王子だが、騎士団長は後ろ手で手を振りながら大食堂を後にした。

 王女の手も名残惜しげに公爵を見送る。

「……また明日、お会いしましょう」

「…………うん」

 公爵も軽く手を振って、北方公とともに扉の奥へと消えていった。

 

 王女は、去る公爵の背中をずっと眺めていた。



 ◇



 大人たちが去った後も、王子とゼトは変わらず話し続ける。

 その王子とゼトの醸し出す音は、王女の耳を通り抜けていった。

 王女が皿の魚にフォークを突き刺したが、指はそのまま動かなくなり、魚が口に入ることなく皿にカトラリーが置かれた。


 右隣の空いた席。

 先程まで公爵が座っていた。王女はそちらを何度も見やっていた。

 公爵の席。置き去りにされた皿に、魚の切り身が乗っていた。

 いつも少食な彼だが、それでも今日はほとんど手を付けていない。


「……ルシ、お腹空いてないのかな」

 

 王女の瞳はいつまでも隣の空席を見つめていた。


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