第73話 海色
王都を流れる大河を下り、一行を乗せた船はやがて海へと出た。
川の匂いはいつしか潮の香りへと変わり――。
海鳥の鳴き声とともに、粘り気のある湿った風が吹き、王子の跳ねた髪をさらった。
まだ冬の残り香が漂う季節。
眼前に広がる海はどこか静けさを残していた。
地平の彼方に霞む王都の町並みが見える。
王子にはそれがどこか知らぬもののように感じられた。
ずいぶんと遠くまで来たものだ。
王子の右隣でゼトも海に見入っていた。
蟹。海老。烏賊。
出発前まで騒いでいた姿は何処にもない。
ふと見た横顔はだらしなく緩んでいた。
左隣は相変わらず静かだ。白金色の頭は背伸びをしてあごを船の縁に乗せている。
王子が船の縁から身を乗り出すと、揺れる波が時折船の舷を叩いては、打ち上がって白い飛沫を上げた。
「……危ないから覗き込むのやめたほうがいいですよ」
王子の首根っこを掴んで引き戻す者がいた。
「心配性め」
「俺が落ちるわけないだろ」
振り返ればそこに近衛の姿があった。
「……どこからその自信が?」
背後には物々しく甲冑を身に纏い、深緑の外套に身を包んだお馴染みの近衛たちの姿。
……だが数が多い。
近衛だけでも十二名。
その他護衛騎士が数え切れぬほど奥にいる。
なんて暑苦しい光景だ。
王子が辺りを見渡し、ため息をついた。
「……おい、この海のど真ん中で誰が襲ってくるっていうんだ」
「お前らちょっと俺の貴重な保養の時間を有意義にしようって心配りを持てないのか?」
近衛たちをぐるりと見渡して抗議。
だが近衛は王子の釣り上がった眉を見ても微動だにせぬ。
騒がしくなった王子の姿に、両隣にいた二人が煩わしそうに振り向いた。
「……おいおいまた騎士イビってんのか?」
「こりゃとんだ暴君になるぜ」
肩をすくめてからかうゼトに、王女がコクコクと頷いている。
両隣を交互に見て王子が歯を剥いた。
こんなむさ苦しい光景、城でも見られる。
王子はくるりと海へと向き直った。
王子の視界を埋め尽くす蒼。
さざなみは王子の耳をくすぐるように穏やかに鳴っている。
まぶたを閉じ、耳を澄ませば聞こえる細かく小さな波の音。
「なあシエル、お前が前来たときもこんな景色だったか?」
隣の王女もまた海を見ている。
「……うーん、覚えてないかも」
こんなに素敵な光景を覚えていないとは。
妹は存外情緒が足りないらしい。
「ルシといっしょにまた見たかったなぁ」
——そいつのことしかみてないからだろ。
王子の意識は一気に現実に引き戻された。
「なあエリオス。昼は何が食べられるんだろうか」
「……さあ、聞いてないが」
「なあ姫様、公爵に言ってくれねえか。わたし蟹が食べたいよって」
ゼトの声が甲高くなり、王子は全身が粟立った。
「蟹?」
王子を挟んで会話しだす二人。
「……姫様も蟹食いたいだろ? 姫様が公爵に言えばアイツ蟹を用意してくれるよ~」
蟹、蟹とうるさいやつだ。猫なで声で王女に媚を売っている。
ゼトの言葉に触発され、王子は自身の腹を撫でた。
王女はしばらく首を傾げていたが、ようやっと口を開いた。
「……わたし、お魚のサンドイッチが食べたい」
——お魚のサンドイッチ?
思いがけぬ王女の言葉に、王子もゼトも彼女を向いた。
「なんだ、それ?」
「前ルシといっしょに食べたの」
「お魚のサンドイッチ、今もあるといいなあ」
つまらなそうに海を眺めていた王女の顔が、途端に上気した。
上機嫌に甲板をトントンとつま先で打っている。
王子とゼトは顔を見合わせる。
「……魚?」
「……露店?」
「アイツが?」
最後の声は重なった。
王子の脳裏に浮かぶのはスカした顔をした亜麻色だ。
薄暗い部屋の中でグラスでも傾けていそうな男と露店。
……世界一似合わない。
「……ほんとか?」
「いっしょに座って食べたもん」
顔を綻ばせる王女。王女の足元で甲板がトントン鳴り続けている。
アイツが露店?
もう一度聞き返そうと思ったが、王子は諦めた。
何度聞いたところで脳は飲み込めそうになかった。
背後で近衛たちの靴が甲板を叩く音がした。
周囲のざわめき、布ズレの音に王子が近衛を見やった。
「……両殿下、港が見えてきましたよ」
近衛の声に真っ先に反応したのは王女だ。
「……ルシ!」
反対側の船縁まで小走りで寄り、陸地を一目見ようとその場で飛び跳ねた。
隣のゼトが伸びをした。
「……さて公爵領か……どんな蟹が食えるのかな」
先程から蟹の話しかしない男だ。
もし蟹が出されなかったら——。
沈むゼトの姿を思い浮かべ、王子は目を伏せた。
そして己が薄笑いを浮かべる亜麻色に頭を下げる姿が脳裏をよぎり、王子はそこで考えることをやめた。
「……蟹はいいんだが」
王子が壁となった近衛の隙間から遠くの甲板を窺うと、大きな体躯が船縁に張り付いている姿が目に入った。
「……大丈夫なのか? 騎士団長」
王子の問いにゼトもそちらを窺った。
「まだあそこにいるのか」
二人で騎士団長の近くまで寄る。
巨体が甲板に膝をついて蹲っていた。
焦げ茶色の頭からうめき声が聞こえる。
「……大丈夫か?」
王子が巨体の背を擦ってやり、ゼトはここぞとばかりにその胴を蹴った。
騎士団長の反応はない。
「……もうすぐ公爵領だってよ、良かったじゃねえか。地獄から生還だ」
「お前船降りたらちょっと休んでろよ」
王子が騎士団長の背を軽く叩くと、情けなくも弱々しい声が返ってくる。
「……ああ殿下……お気遣い痛み入ります」
「このヴィスティス、なんと不甲斐ないことか」
「……へっ本当に不甲斐ないぜ反省しろ親父」
騎士団長の耳元で囁くゼト。なんて嫌な息子だ。
無力な父親の前で卑怯なことだ。
普段からは想像もつかぬほど弱々しい声が王子の耳を打つ。
「言ったでしょう、わたしは山も海も苦手だと」
「ダメなのです……船は……うっ」
そして突然起き上がった騎士団長が素早い動きで船縁に手を掛け口を開いた。
見てはいけない光景がそこに広がった。
美しい蒼に、美しくないものが垂れ流されていく。
「………………」
「………………」
王子とゼトが巨体の背を擦っていると、鈍く轟くような汽笛が鳴り、それは騎士団長のえづきをかき消した。
「……ローデンバルド港、入港いたします」
船員の声が高々と響く。
最悪の始まりであった。




