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第72話 良きにはからえよ

 

 何が地理だ。何が歴史だ。ここ数日、教師に座学を叩き込まれていた王子の身体はなまりになまっていた。

 やっと解放され、まっさきに向かったのは騎士団の詰め所。

 王子の腕は木剣の感触を恋しがっていた。


 そんな王子の目の前にいるのは茶色い頭の塊。

 冬の冷たさを抱いた石畳に、ゼトが両手をついて王子に頭を垂れていた。


「……俺を、公爵領にいっしょに連れて行ってくれ!」

 

 王子の口から漏れたのは大きなため息だ。

 今その名は聞きたくなかった。

 王子が座学という拷問尽くしにされたのはそいつのせいなのだ。

 薄笑いを浮かべて王子を見上げる挑戦的な視線を思い返し、王子は歯ぎしりをした。


「なんで」

「……海!海老!蟹!烏賊!」

 海産物の羅列。聞かなければよかった。

 コイツの言う事など決まりきっていた。


「…………」

「頼むよ!公爵に頼んでくれ!」

 未だ冷たい石畳に蹲るゼト。

 訓練場にいた騎士らの視線が王子たちに向かう。

「王子がゼトを土下座させてる」

 騎士たちの囁きが風に乗って王子の耳に届く。

 噂はいつも、王子が悪者だ。

 決闘騒動だってそうだ。


「……言いたくない……」

「なんでだ!お前にしか頼めないんだ!」

 ゼトの片腕を掴んで起き上がらせる。

 土下座なんか軽々しくするな。させた者が悪く言われるのだ。

「お前、俺が公爵領行くことになった経緯知ってるだろ」

「ああ知ってるぜ、何せ見てたからな」

「じゃあ分かるだろ、あの後宰相にも騎士団長にも執事長にも……」

「……皆に怒られた……」


 決闘など軽々しく申し込むものでない。

 剣を使えぬ者に剣を突き立てるのは卑怯者のすることです。

 殿下の悪評が立ちますからやめなさい。


 何故か怒られるのは王子ばかりだ。

 その罰で国の歴史を覚え直させられた。

 知ってる。何度も言ったが教師は止まらなかった。

 アイツの家名はもう聞きたくない。


「……俺の前でアイツの話するのやめろ」


 王子は踵を返した。

 もう、その腕に木剣を抱く気力すら奪われていた。


 

 今日は王宮に、いかめしい姿が集っていた。

 王子襲撃事件を受けての緊急王公会議が行われるらしい。

 すでに王宮に招集されていた少数の有力貴族らはもとより、

 今日王宮入りした数多の貴族らが大会議場に吸い込まれていった。


 また大人たちはあの暗く息苦しい空間にひしめき合い、舌戦を繰り広げるのだろう。

 あの時王子が盗み見た会議はその一端だ。

 飽きもせずよくやるものだ。

 

 しかし今日の会議ですべてが一応はまとまるらしい。

 騎士団長がそう言っていた。

 結局首謀者は知れなかったらしい。

 手引きしていたとされる侍従の死で、情報は絶たれたという。

 王族の警備体勢は見直され、各領地の出入りも厳しくなるという。

 結局決まったのはその程度だ。


 あのそばかすの顔がまた浮かび、振り払うように頭を振った。

 

 ああ、だがやっと自由になれるのだろう。

 冷たい空気が肌を刺す中、冬の日差しばかりは眩しかった。


 王子が玄関ホールに着くと、もうそこに貴族らの姿はなかった。

 

 ……城門付近で蹴り玉遊びくらいなら、見咎められないだろうか。

 王子は背後の近衛に目をやった。

 近衛は二人。王子の視線に気づいて二人ともが手でバツを形作った。

 ——何も言ってないだろうが、失礼な奴らだ。


 人っ子ひとりいないだだっ広い玄関。その重厚な絨毯の上で王子は軽く跳ねた。

 すると、玄関の扉がゆっくりと開かれた。隙間から入り込んだ光が王子の姿を照らす。

「んん?」


 扉の中から姿を現したのは、見知らぬ貴族の姿であった。

 遅い来客に、王子の足が止まる。


「……遅くなってすまないな宰相」

「何、会議はまだ始まらぬ」

 

 貴族の横から宰相が顔を出した。

 壮年の貴族であった。

 騎士団長ほどではないが、大柄な体躯をしていた。

 その体躯を深緑色の厚手のローブで覆っている。

 

 王子の姿に気づいた宰相がきつく目を吊り上げ、王子は視線を逸らした。

 壮年の貴族は穏やかに目を細めている。


「……ごきげんよう、王子殿下」

 近づく壮年の貴族。

「……ああ」

 誰だろう。王子の無遠慮な視線が貴族の頭から足の先までを撫でるように通る。

 貴族が笑みを濃くした。

「……御父上にそっくりだ」

 貴族が王子に片手を伸ばし掛け、王子の紅玉が不思議そうに丸まった。

 しかしその手は王子に触れることなく降ろされた。

 背後の宰相が王子に告げる。

「こちらはフランゼル卿……東方の砦を預かっておられた方だ殿下」

「……昔の話だ」

「……フランゼル?」

 聞き覚えのある家名であった。

 先日からの地獄のような座学で、いやそれこそ幼い頃からずっと聞かされてきた。

「なあ……」

 一歩前へ出た王子に貴族は礼をし、宰相の腕を軽く叩いて促した。

「……いずれ適切な形でご挨拶に伺います。殿下」

 未だ目を丸くしている王子を置いて、貴族は宰相を伴い奥に消えてゆく。


 フランゼル卿。

 ——失った東方の地の主。

 今はどこに住んでいるんだろう。

 

 王子の呟きは誰に届くこともなく玄関ホールに霧散していった。


 

 私室に帰ってきた王子を待っていたのは騎士団長であった。

 入って一番初めに目に入ったのは勝手にソファに座り込んだ巨躯の姿。

「……ん?会議終わったのか?」

 王子が巨躯の後ろ姿にそう告げると、立ち上がり開口一番にこう言った。


「公爵閣下に、謝罪に行きましょう」

「嫌だ」


 王子の口は勝手に動いていた。

 騎士団長の言葉を飲み込む間もなかった。

 公爵。その響き自体が王子を拒否させた。


「拒否権はありません」

 逃げる間もなかった。

 王子が踵を返すと近衛に扉の前を塞がれ、逃げ場を失った王子に巨躯が迫った。

 そして王子は袋の鼠。首根っこを掴まれ、騎士団長のされるがまま、私室から運ばれていた。


 最近王子は自身が犬や猫の類なのではないかという気もしてきていた。


 騎士団長に脇に抱えられながら廊下を進む。

 もはや使用人らも驚かぬ。

 王子を見る使用人の目は生暖かい。


「閣下は明日領地にお戻りになるそうです、その前に行きましょう」

「ああ清々するな、これで王宮の空気も良くなる」

「あれだけ注意を受けてまだわからんのですか」

「決闘など軽々しくするものでないと言われたでしょう」

「軽々しくない!俺の覚悟を軽く見積もっているのはお前だ!」


 土嚢のように抱えられながら騎士団長の胴を殴りつける王子。

 分かってはいたがビクともしない。

「なんでそんなに公爵を……」

「閣下ではなく」


「王太子が公の場で感情のままに剣を向けた」

「それが問題だと言っています」

「貴族は外聞を何よりも大事にします、殿下」


「……剣を持たぬ者に剣を突きつけ勝負を挑んだ王太子」

「うっ」

「かっこ悪いのはどちらでしょうか、エリオス殿下」


 最後の説教には、さすがの王子も黙り込む他なかった。



 公爵の前に立たされてなお、王子は謝る気など起きなかった。

 公爵のために誂えられた執務室。

 以前王子が訪れたときと違い、周囲には木箱が点在し、侍従が書類や書物を片付け始めていた。

 

 立ちながら書類に目を通している公爵。

 何故かその横には王女がいた。

 

「お兄様、クソ公爵って言ったこと謝って」

 王女がしゃしゃり出てきた。

 用件はそっちじゃない。


「……王子殿下、お茶でもお出ししましょうか?」

 ソファを指し示す公爵。

 決闘を挑んだ相手に平然と茶を勧める男。

 それは王子の自尊心に障ったが、王子は耐えた。

「いいえ公爵閣下、その前に殿下から申し上げねばならないことが」

 王子の後ろにいた騎士団長が王子の背を強めに叩いた。


 謝りたくはない。

 だが謝らなければ長引くことになる。

 二者択一の選択を迫られている。

 歯を食いしばる王子。

 三人の目が、王子に集中していた。


「……決闘の件は」


「…………公爵領で……満足できるものが見れたら謝る」

 

 王子の背後で騎士団長が片手を振り上げたのが分かった。

 それを、公爵が制する。


「ええ、王子殿下のご期待に沿えるよう努力しましょう」

 王女が訝しんだ目を公爵に向けている。

「……がっかりさせたら承知しないぞ」

「それは……我が領を見てご判断いただければ」

 

 薄笑いを浮かべた公爵。

 何を言っても余裕の表情だ。

 喧嘩のしがいがない男。

 

「我が領で、貴方をお待ちしております」

 公爵の藍玉が王子の紅玉を貫いた。

 あの時の挑戦的な目。

 その目がどうにも王子を焚きつける。

 

 何が待っているか見てやろうじゃないか。

 王子の脳裏に、絵画でしか見たことのない海が映し出された。

 

「ふん……良きにはからえよ」


 王子襲撃編、完結です。次回から公爵領編となります。ここまで読んでくださりありがとうございます。

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