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第71話 来てくれませんか

 

 ——それは王子が公爵に決闘を挑んだ日のこと。

 王女が北方公と公爵の執務室で言い争った、あの時まで遡る。

 

 ここ数日の王女の日課は公爵の執務室に顔を出すことであった。

 彼が忙しいことは知っていた。だから王女が出向くのだ。

 挨拶だけでも。邪魔にならないのなら少しお話を。……あわよくば居座りたい。

 そう思って訪れた王女を出迎えたのは、執務室前にいた侍従であった。

 ブランケットを手にしている。

「……ルシ、いる?」

 侍従を見上げる小さな姿。逡巡した侍従が、意を決して王女に声をかけた。

「居られます。ただ——」

 侍従が口元に人差し指を当てた。

 執務室の扉が王女のために開かれる。


 開かれた扉の先にいたのは——。


「……ルシ……寝てるの?」

 ソファに寝転ぶ長身。胸は規則正しく上下している。長い睫毛は微動だにしない。

 眠る顔を見たのは初めてであった。

 侍従がやってきて、その手に持ったブランケットを掛けようとしていた。

 王女がそれを制す。

「わたしがやるよ」

「ええ?」

 戸惑う侍従に両手を差し出す王女。

 その表情は好奇心に満ちている。

「……貸して」

 大きく頷く王女。それを断れる侍従ではない。

 王女にブランケットが渡り、受け取ったそれを公爵の胴にどさりと置いた。

 そしてその後ブランケットを公爵の身体に沿って広げ始める。

 雑な仕事であった。

 後ろで侍従がそれをハラハラと見守っている。

 

 ひと仕事終えた王女が後ろの侍従を見て頷いた。

 侍従も頷くしかなかった。その仕事がどんな出来であろうとも。

 

 眠る公爵にそっと近寄り、王女は絨毯に座り込んだ。

 こうすると、公爵の顔がよく見える。

 行儀が悪い。そう叱る侍女はここにはいない。

 

 公爵の長いまつ毛の下に、薄く隈が浮かんでいた。

 唇はわずかに開いている。

 ——ルシは、こんな顔をしていたっけ?

 

 いつもの微笑みもない。

 目を閉じた公爵は、知らない人のようにも見えた。

 最近王女は、公爵の知らない顔をよく見る。

 

 絨毯に座ったまま、王女はソファの座面に頭を預けた。

 すると眠る公爵の頭と王女の額がこつりと触れ合った。

 寝息が近くで聞こえる。

 目を瞑ると世界にはふたりしかいないような心地になった。


 遠くで、侍従が静かに扉を締める音がした。


 あの日見た薄い隈も。 少し開いた口も。 長い睫毛も。

 王女の頭には、今も残っている。



 ——それから数日。

 王子襲撃事件以降、忙しなかった王宮は、ようやっと落ち着きを見せ始めていた。

 王女自身もその変化は感じていた。

 私室の中にまでいた護衛はもういない。

 

「……ルシはあれからちゃんと眠れてる?」

 

 王女と公爵は今日、王女の私室で久方ぶりに茶の席を設けていた。

 公爵が王宮に常駐して以降、毎日顔を見ることはできていた。

 だが、お茶会はあれから、はじめてだ。

 

 正面に座る公爵の顔を見つめる王女。

 王女の指先は上品にティーカップを摘んでいたが、足は落ち着きなく左右に揺れていた。

 

「殿下はお優しいですね。私の体調まで気にかけてくださるとは」

「だって」

 公爵が王宮に常駐するようになり十日。

 王女の見る公爵の姿は、いつも忙しそうであった。

 

「心配いりませんよ、こういう忙しなさには慣れておりますから」

 そう言っていつものように微笑む公爵。

 王女には少し疲れて見えたが、それでもいつもの公爵だった。


 微笑む公爵を見つめ、王女の目も自然に細まった。

 王女は昨日、久方ぶりに公爵の夢を見た。


「……無理しちゃダメだよ、ルシ」

「ルシをいじめる人がいたら、わたしが守ってあげる」

 カップを擡げた公爵の手が止まった。

 王女は満面の笑みだ。

 その王女を窺うように公爵は王女を見やる。

 

「…………」

「訂正しておきたいことがあるのですが殿下」

「ん?」

「……私はいじめられておりません」

 公爵は真剣な面持ちであった。

 心外だ。そんな思いを込めている表情だ。


 公爵がさらに言葉を重ねた。

「私は公爵です。無礼な口利きをされることもありますが、些細なことです」

 

 公爵の真剣な眼差しは王女の心を打つ。

 しかし王女には解せないことがあった。

「……でもルシ……お兄様とか……あの無礼な人に……」

「無礼な人?」

「もうひとりの公爵の……」

「……アイゼングラード公、そう呼んで差し上げてください」

 

 注意を受けた王女が口をとがらせる。

「……アイゼングラード公……」

「そう。よく出来ました」

「でもルシ……クソ公爵って言われてた……」

「本当に、いじめられてない……?」

 王女の訴えるような真剣な眼差しが公爵を突き刺す。

 ティーカップを置いた公爵が脱力したように片手で額を覆った。

「……あれは……」

「あれは?」

「あれは……」

 しかし公爵がその先の言葉を紡ぐことはなかった。



 王女のカップが空になりかけた頃。

 公爵が薄く笑ってこう告げた。

「……シエル殿下、私が王子殿下の襲撃事件で王宮入りしたことは、ご存じのこととは思いますが」

「先日ようやく、その件に目処がつきました」

 

 微笑む公爵とは裏腹に、王女は目を伏せた。


「殿下もご不安でしたでしょう。まだ安全とは言えませんが、じきに外出もできるようになります」

「……フローラ嬢やリリアンヌ嬢にも会えるようになりますよ」

 

 公爵の声が王女にはどこか遠くに聞こえていた。

 ごまかそうにも、カップは空だ。

 その先は聞きたくない。

 

「私は明日、領地に帰ろうと思います」

 

 カップの底を眺める王女は、そのまま頭を上げられなかった。


「そっかぁ……」

「また定期面会に伺います」

「しかし少し……お時間をいただいても、よろしいでしょうか」

「この度の件で領地に残した仕事が山ほどあるのです」

「……次は、いつ来れるの?」

 今度は公爵が目を伏せた。

 少しの間沈黙が落ち、公爵が口を開いた。

 

「……二ヶ月ください」


 毎日会えていた代償は大きかった。

 普段もそう会えない。それなのに次会えるのは二ヶ月後。

 王女には気の遠くなるような月日に感じた。


「二ヶ月……そんなに?」

 王女の口からため息が漏れる。

 顔を上げると、公爵が困った顔でカップを見つめている。


「……もっと……」

 言いかけて王女は留まった。

 困らせたいわけではない。

 王女はこの十日間、毎日忙しい公爵を見てきた。

「…………」

 言葉を飲み込み、王女は公爵を見つめて微笑んだ。


「分かった、ルシは忙しいもんね」

「……代わりに、お手紙をいっぱい送る」

 ちゃんと笑えているだろうか。

 目の前の公爵は目を丸くしている。


 王女の目尻に涙が溜まりだした。

 それを振り払うように唇を噛む。

 

 王女を見つめていた公爵が、こう告げた。


「……シエル殿下」

「また、私の領地に遊びに来ませんか」


 公爵の言葉に、王女の涙は引っ込んだ。

 

「今度は王子殿下といっしょに」

「私は領地で貴方がたを待っています」

 そして公爵が小指を王女に差し出した。


「来てくれませんか?」


 王女の答えなど決まっている。

 身を乗り出した王女が公爵に小指を差し出した。


 もう、王女の目尻に涙は浮かんでいない。

 小指を結ぶより先に、王女の口が動いていた。


「いくよ、絶対に」

 


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