第68話 同じ気持ちだったのか
「王女殿下、聞いておられますか?大事なところですよ」
教師が教鞭で長机を叩いてなお、王女は反応を示さなかった。
——会議のルシは違う姿になる。
「……もう一度お伝えします」
「……東方のフランゼル領は隣国との戦により奪われました。その後隣地の領主であるベルディエンド伯が辺境伯として――」
目の前に立ち教鞭を揮う教師。彼女の言葉はまるで説法のように王女の耳を通り抜けていく。
「現状辺境地となっている砦にはベルディエンド伯の兵他、国軍兵、アイゼングラード公家およびローデンバルド公家の兵が常駐し——」
ローデンバルド。ルシの家。
羊皮紙に刺さったペンから墨が漏れ、紙を汚した。
墨がジワジワと広がっていく。
教師の悲鳴が小さく響いた。
「……あれはルシじゃない」
——もう一度確かめなきゃいけない。
座学を終えた王女が向かったのは騎士団の詰め所であった。
めったに訪れぬ場所だ。王子に手を引かれれば行く場所。
王女とは縁の薄い場所であったが、今の王女には必要な場所であった。
ゼトがいる。
「姫様!この間はケーキありがとう!」
呼ぶ前にゼトは来た。
詰め所を目指して外回廊を歩いている最中に、ゼトのほうが先に王女を見つけたらしい。
訓練場から走ってきたゼトの息は上がっている。
奥にいる騎士たちの視線が王女に刺さる。居心地が悪い。
ニカッと歯を見せて笑うゼト。犬歯が目立っている。
「……あなたに会いに来たの」
「……お、俺?」
「うん」
ゼトが照れたように自身の鼻を掻いた。
しかし王女の次の言葉にゼトの表情は一変した。
「……また会議が見たい」
前をゆくゼトに王女はついていく。
「今回だけだぞ姫様……ホントに命がいくらあっても足りねえ」
先ほどからゼトは大げさにそう繰り返していたが、最後は根負けした。
「……諸侯らが集まるって言ってたんだな?いつやるかも分からない」
「でも、会議の前には宰相か諸侯の誰かが動くだろ」
「そいつを追えばいい」
ゼトの言うとおりであった。
侍従を引き連れて王宮を練り歩くひとりの諸侯を見つけ、二人でその足取りを辿ればそこに。
「……ルシ」
公爵が居た。公爵をはじめとする貴族が会議室へと姿を消した。
ゼトに案内され人気のない控室へ入り、王女は給気口を這って天井裏へ向かう。
そのゼトは今ここにはいない。
護衛を押し止める仕事をしている。
格子越しに、公爵の姿が見えた。
前回よりも、近くにいる。
「遠方からお越しくださり感謝いたしますベルディエンド伯」
宰相の声だった。
しゃがれた声だが、よく通る。
その宰相の斜め隣に公爵の姿がある。
表情までは見えないが、公爵はまだ口を開く様子がなかった。
手元の書類を眺めている。
公爵の向かいから黒い袖が伸びた。書類を手渡している。
黒く撫でつけられた髪。
「……あの無礼な人だ」
王女には大人たちの話す内容は半分も分からない。
似通った声の大人たちが難しい言葉を羅列している。
公爵の声すら、その中に溶け込んでしまっている。
あの日のような空気ではない。
王女の肩から少しだけ力が抜けた。
ティーカップを手に取った公爵をじっと眺めていると。
バン!
突如議場に大きな音が響いた。
何者かが机を叩いたのだ。
机に乗ったカップと受け皿が擦り合って鳴った。
公爵の視線が、音の鳴った方を向いている。
「我ら諸侯を疑う声もあるのだぞ!」
「それは看過できぬ!」
「その件も承知しておりますデミテス侯」
「その疑いを晴らすためにも今早急に原因究明を進めております」
「……今しばらくご辛抱いただきたく——」
「あれから何日経った宰相!」
「……デミテス候、お気持ちはわかります」
公爵の声が議場に響いた。
片手をあげて、声の主を制している。
「ですが声を荒げても事態は前へ進みません」
「まずは協力いたしましょう」
「……しかし宰相閣下」
王女の胸が早鐘を打つ。
ああ。あの声だ。
「進展がない、それはわかります。協力の手は惜しみません——しかし」
「我ら諸侯をいつまで王宮に留め置くおつもりなのか」
「……我らには領民がいることを、分かっておられるでしょう?」
ゆるく揺れる亜麻色の髪。
カップを持つ長い指。
頭を傾ける仕草。
それらすべて、見知った姿。
それなのに。
——また知らないルシが、そこにいる。
逸る胸を抑えて蹲る。
「失礼、宮内卿にございます」
また大人の声がした。
「……先程の諸侯の方々を疑う声についてですが」
「そのような風聞の一因ではないかと思う出来事はあります」
「……ローデンバルド公にお尋ねしたいのですが」
公爵を呼ぶ声。王女が自然と前のめりになる。
「宮中の噂になり恐縮ですが、閣下は当然ご承知とは思います」
「近頃王太子殿下がローデンバルド公と諍いを起こされたと噂になっております」
「王太子殿下との間に何かお有りになったのか」
「ご説明頂けますか?」
平坦な声が、公爵に向かった。
王子の話をしている。
ヒクッ。王女の喉が鳴った。
「……ふむ……」
公爵が自身の顎に手をやった。
彼がよくやる仕草であった。
公爵の答えを待つように、議場が静まり返る。
前もこうだった。誰もが公爵を窺っている。
「諍い……と言われましても私に思い当たる節はございませんが」
「王子殿下がここのところ私に対して思うところがあるのだろう、という行動を取っておられることには気づいておりました」
「つまり閣下は殿下の変化を把握しておられた」
「にも関わらず、殿下との関係改善に閣下は臨まれなかった、と」
また、喉の奥が鳴る。
様子がおかしかった。
何故か公爵は責められている。
議場はおかしな空気に包まれていた。
王女が自身の喉を抑えた。
「殿下が私にどのような行動を取られているかご存知ですか宮内卿?」
「殿下との対話が叶わぬ以上、静観するほかないのでは」
「しかし殿下のお振る舞いは宮中全体へ影響しております」
宮内卿の語気が乱れ、なおも言い募った。
「……殿下のお考えを改めさせる権限は、私にはございませんので」
公爵の向かいに座っていた北方公が声を上げた。
「王太子の振る舞い、か」
「……そう言えば私も聞いたな、確か……クソ公爵、などと言っていたか」
そう言って喉を鳴らして北方公は笑いだした。
それを聞き、他の諸侯らが肩を震わせ始めた。
王女の小さな手が床を叩いた。
無礼な人!
「クソ公爵か……」
「閣下も随分な渾名をいただきましたな」
「王子殿下も豪胆な方だ」
先程まで怒鳴っていたデミテス候すら肩を震わせている。
「……そうですね、確かそのようにおっしゃられているとか」
「ルシ……」
公爵の表情を見ようと目を凝らすが、届かない。
だが、その口端はいつものように笑っているように見えた。
どうして公爵は笑っているのか。
王女には理解しがたかった。
王子の行動は、公爵に影響していた。
王女とともに会議を覗いたあの日の出来事が王子の変化の原因だろう。
王女にもそれは理解できた。
けれど。
王女には公爵が皆から笑われているように見える。
それは耐え難いことであった。
「……いじめられてるの?ルシ……」
笑われている。
——なのにルシは、変わらない。
見ていられなくなった王女はゼトの待つ部屋へと踵を返した。
背中にまとわりつくのは大人たちの声。
その中に公爵の声はない。
——笑われても、責められても。
公爵が今どんな顔をしているのか、王女にはもう分からなかった。




