第67話 知らない公爵
——王子が公爵に決闘を挑む、数日前のことである。
◇
王女は正面の美しい人をじっと見つめていた。
あまり表情の少ない人だ。
だが視線に気づくと王女と目線を合わせてくれる。
柔らかく微笑んでくれる人。
王女の知る公爵は、そうだった。
王女は手元のスープを掬って、また戻した。
ふう、王女の口からため息が漏れた。
「今日は食事が進んでいないようですね、食欲がありませんか?」
「ううん、違うよ」
「そう……」
見やると公爵の視線は王女の手元のスープに落ちている。
誤魔化すように、王女はスープを一口含んで飲み込んだ。
こうして王女の小さな変化に気づいてくれる人でもあった。
小さく切り分けた鶏が公爵の口元に運ばれた。
食事をするときも、大きく口を開けたりはしない。
次は、何を食べるのだろう。
フォークが橙色の野菜に刺さり、口元に運ばれた。
その様子を見ていると、公爵の手が止まった。
困ったように王女を見つめている。
「……ずっと私を見ていますね」
「…………うん」
「今日はなんだか口数も少ない。困ったことでもありましたか?」
「ううん、なんでもない」
「………………」
「具合が悪いのでないのなら、食事は摂りましょう」
「……元気が、出ませんので」
——やっと笑った。
公爵の言葉に王女がようやっとパンを手に取り口にした。
侍女が言っていた。
公爵はしばらく王宮にいると。
だから公爵が時間の取れる日は食事も一緒に取れる。
毎日挨拶もできる。
……お茶会は、難しいと言っていた。
座学を終えた王女が向かったのは公爵がいるという貴賓棟であった。
近づくと、すでに人の声がする。
角からそっと覗き見る。
廊下に貴族が屯し、その隙間をすり抜けるように文官が忙しなく動き回っていた。
扉の開け放たれた一室を覗くと、その重厚な机にひとりの貴族が座り込み、
側近の渡す書類にペンを走らせていた。忙しそうだ。
だが、公爵ではない。
踵を返し、別の部屋に向かうと王女に気づいた貴族らが次々と頭を下げ、声をかけてきた。
「……あっごきげんよう……」
胸元に両手を預け、身体を縮こませる王女。
一人一人とあいさつを交わし、それからジリジリと群れから逃れようとする。
次の部屋が遠い。
どうしよう。視線を彷徨わせていると。
背中に鈍い衝撃を受けた。
「わっ……」
そして前のめりになった王女の両手と膝が床についた。
周囲に短く悲鳴が上がった。
「……なんだ?」
頭上には野太い声。
見上げる前に襟を摘まれ、王女の身体が宙に浮いた。
「子供が何故ここに」
「……見たことのある顔だな」
猫でも持ち上げるように王女を摘み上げた男は、頭の先から爪先までマジマジと王女を見つめた。
周囲より高い背。
撫でつけた黒髪。
力強い顎にヒゲを蓄えたガッシリとした体躯の男。
その目は、鋭い。
「……離して」
無礼な男。睨めつける王女に男はたじろがぬ。
しかし周囲は別であった。
貴族、文官、使用人問わず言葉を失っていた。
そして誰かが言った。
「王女殿下ですよ、アイゼングラード公!」
「……王女?なるほど確かに」
——アイゼングラード公?
王女も聞いたことのある名であった。
ローデンバルド公と双璧を成す北方の大貴族。
……この、無礼な男が。
未だ王女を摘む男が表情も変えず問う。
「……して王女が何用でここに」
鋭い瞳が王女を射抜く。
意図してかそうでないのか。
北方公の冷ややかな瞳は周囲を凍らせる。
王女がまた睨めつけた。
「……ルシ……ローデンバルド公爵を、探してる」
「……なるほど、噂通りだ」
北方公が動き出す。
王女を摘み上げたまま歩き出した男を見て、周囲が波のように引いていく。
「離して」
王女の語気が強くなった。
「ルシウスのところに行きたいのだろう」
「何、ついでだ」
王女が身を捩り抵抗を示したが男は岩のように動かない。
「……ルシウス……?」
「あなたの後見人だが」
そういう意味ではない。
王女の眉が釣り上がった。
——アイゼングラード公。覚えておこう。
この男、嫌い。
扉が開いたままの執務室に入り、その室内に亜麻色の頭を見つけて王女は大きな声で呼んだ。
「ルシ!」
机に向かっていた顔がゆっくりと王女に向かい、そして怪訝な顔をした。
「え?」
「……南方公、貴殿に客だ」
北方公が口を開いたのと同時であった。
「何をしておられるのです北方公」
公爵が机から離れ小走りで寄ってきた。
「ちょっ……王女殿下ですよ」
「どんな扱いをしておられるのか」
公爵が両手を広げ、王女を手招いた。
王女が公爵の肩を掴むと北方公の腕が緩み、王女の身体は公爵の腕に委ねられた。
「……迷い猫のように震えていたのを見つけてな」
王女の目がキツく絞られた。
公爵の腕から降ろされた王女の視線は北方公に向かう。
「無礼な人」
手に持った書類を公爵に手渡した北方公。
「……殿下がお怒りですよ、北方公」
公爵の言葉に北方公が王女を一瞥した。
しかし、ククッと喉を鳴らして何も言わずに執務室を出た。
「……あの人嫌い」
もう一度王女が声を漏らした。
「シエル殿下、北方公には私から申し上げておきます」
「その、どなたにもこうなのですあの方は」
「どうか寛大なお心で、お許し頂けませんか」
「なんでルシが謝るの……」
目を細めた王女が諦めたように息を吐いた。
「いいよ、ルシが言うなら、許してあげる」
公爵が王女に跪き、微笑んだ。
「シエル殿下のお慈悲に、感謝いたします」
「…………」
「……ルシ、笑ったね」
「え?」
王女の心が少しだけ灯った。
公爵が笑う度、欠片が戻ってくる。そんな心地であった。
もっと笑えば。
——ルシが、戻ってくる。
公爵の長い指先が書類を走る。
ペン先をインクに浸す手。仕上がった書類を侍従に渡す腕。
墨で汚れぬよう、利き腕の袖をまくっている。
王女にとっては初めて見る公爵の姿であったが、その姿はいつもの公爵の延長にあると思えた。
「……殿下、お暇ではありませんか」
「ううん」
公爵は時折王女に声をかけてくる。
机に頭を預け、公爵の仕事を見つめる王女。
書類の積み上がった机。王女の小さな背は積み上がったそれにすっぽりと隠れている。
公爵の元を訪れた客は、公爵に近づいて初めて、その隣に王女の姿があることを知り、
皆一様にビクリと肩を震わせた。
「……少しだけなら、殿下が好みそうな本がありますよ」
「暇になったら、読む」
今は暇ではない?公爵が苦笑し、王女が目を細める。
また書類をめくる作業に戻った公爵。
ある書類を手にした時、公爵の動きが止まった。
ピクリと、眉根が寄っている。
「……なんだと?」
声が、低くなる。
王女が反射的に起き上がり、公爵の腕を掴んだ。
「……ルシ」
「はい、どうかされましたか?」
王女に振り返った公爵の顔は元通り。
口元は笑み、見つめる目は優しい。
いつも通りの公爵だ。
「……なんでもない」
王女の胸が早鐘を打つ。
書類に向かう公爵から目が離せないでいた。
書類をめくる手が、少し乱雑になる。
ペンを走らせる手の動きが先程よりも早い。
ある書類に差し掛かり、公爵の手が強張った。
また、公爵の目が細まって。
「ルシ!」
公爵がひとつ息をついた。
そして王女に向き直る。
「……おりますよ」
「殿下どうされました」
今度は身体ごと王女に向き直る公爵。
王女は先程から何度も公爵を呼んでいる。
「……ううん」
公爵に、本当のことは言えない。
王女自身、分かっていないのだから。
「あまりお構いできないのでお部屋に戻られたほうがよいのでは……」
困ったような声音に、王女の眉が下がる。
「……邪魔?」
「いいえ、励みになりますよ」
安心させるように、公爵が笑う。
——ルシが。また一つ増えた。
けれど増える度。
——ルシじゃないルシも見つかる。
「閣下」
公爵の元に、ひとりの文官が現れた。
「明日東方辺境伯が王宮入りされるそうです。合わせて王公会議前に諸侯の皆様と協議を行いたいと宰相閣下から」
「協議はいつだ」
「辺境伯がお着きになればすぐに、と」
「承知した、仔細が分かれば教えろ」
「……会議?」
王女の声に公爵が反応した。
「はい、ですので明日は執務室にいられる時間は少ないと思います」
「……何時?」
公爵の耳に、予期せぬ問いが届いた。
沈黙する公爵に、再度王女が問い直す。
「……何時に会議があるの?」
——ルシじゃないルシ。
あの日王女の中から公爵がいなくなった。
会議での公爵の様相はいつもと違っていた。
あの日からずっと、王女の中に公爵が戻らない。
「待ってるから」
——あのルシは、嘘なんだって。
そう言ってほしい。




