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第52話 おいで

「今日は、元気がないですね」

 

 私室のソファに座り込み、ぬいぐるみを抱きしめる王女に公爵がそう声をかけた。

 交流会の翌日のことであった。

 

 常なら王女は公爵の足音がしたら小走りで駆け寄る。

 侍女からたしなめられようとも、公爵が扉を叩く前に自らその扉を開けに行く。

 それが王女にとって、特別の証だった。

 

 けれど今日は、ノックの音がしても動けなかった。

 今の王女に、公爵を出迎える資格はない。

 

 ――シエルはもう、すてきなおねえさんではないから。


 ぬいぐるみを抱く手に力が入る。

 

 公爵ではない男に彼を重ねた。

 間違えてはいけなかった。

 

「ルシ、ごめんね」

 ぬいぐるみに顔を埋める。

 ソファの横に膝をついた公爵。

 顔は見られない。だがいつもと変わらぬ優しい顔をしているのだろう。

 きっと、公爵はあの日あったことを知っている。

「どうして謝るんですか」

 ほら、声音は優しい。

「わたし失敗しちゃったから」

「私はあなたが失敗したなどと思っていませんよ」

 ぬいぐるみの隙間から公爵を窺うと、やはりいつものように微笑を浮かべていた。

 

 けれども、遠い。

 王女が手を伸ばしても、届かぬところにいる。

 ぬいぐるみの奥で、紫水晶の瞳に涙が浮かんだ。


「……交流会は、楽しくありませんか?」

「お友達作れって言うなら、作るよ」

「……あなたに無理をしてまで友を作れなどとは思いません」

「友なら、いつでもできます」

 ――シエルががんばると、ルシは喜ぶ。

 上手く公爵の真似ができた時、公爵は微笑んでいた。

 よく頑張りましたね。そう言って撫でてもらえたならば、王女は次も交流会に行こうと思えた。

 

 王女の顔は、未だぬいぐるみから離せない。

 いつの間にか、ぬいぐるみは湿っていた。


「お疲れのようなら……交流会を少しお休みしましょうか?」

「……行く」

「お嫌なのでは?」

「行くもん」

 

 公爵は、それを望むのだろう。

 

「頑張るあなたは素敵ですが…」

「……どうしてそんなに、頑張ろうとされているんですか?」

「頑張りたい理由が、あるんですか?」


 王女が長く息を吐き、そして聞こえるか否かの小さな声でこう零した。

「……すてきなおねえさんにならないといけないから」

 

「…………」

 公爵が黙り込んだ。

 王女もそれ以上は話さない。

 沈黙が二人の間に落ちる。


 期待に応えたい。褒めてもらいたい。

 けれどすてきなおねえさんになったら。

 ――もう抱き上げてもらえない。


「……殿下、もし私の言葉があなたを追い詰めていたのなら……それは……」

「私の本意ではありません」

「じゃあなんで」

 王女の声音には怒気が含まれていた。

 悪いのは公爵ではない。そう思っても。

 膝をついたままの公爵。そこからずっと動かない。

「ならなければ、いけないわけではありません」

 優しい言葉はくれるのに、撫でるつもりも、抱きしめるつもりもないところにいる。

 

「……殿下、素敵なお姉さんになるのは、お嫌でしたか?」

 王女は答えない。

 王女の望みはきっと、公爵の望みとは違う。

 

 公爵は一度言葉を切った。

 まるで何かを飲み込むように。


「……やはりお疲れではないでしょうか?」

「最近はずっとお忙しかったでしょう」

「何か、したいことや欲しいものはありませんか」


「……頑張ったら、ごほうびくれるの?」

「いいえ、理由が欲しいだけです。あなたに贈り物を差し上げるための」

 ――ずっと欲しいものがあるよ。ルシ。

 ――ルシはもうくれないけど。


 ぬいぐるみに顔を預けたまま、王女が口を開いた。

 ためらいがちに息を吐き。

 

「……ギュッてして」


 公爵の身体が一瞬揺れる。

 王女の言葉に公爵が目を伏せた。

 

「……頑張るから、ギュッてしてほしい」

「シエル、頑張るから」

 最後の声は震えていた。


 ――ああ言っちゃった。

 ――シエルはもう、すてきなおねえさんになれない。


 公爵が、息を吐く音が聞こえた。

 王女の肩が跳ねる。

 公爵の腕が持ち上がり、長い指は行き先を失ったように彷徨っていた。

 

 ——断られる。そう思った瞬間、喉の奥がきゅっと詰まった。


 やがて公爵の指は手のひらへと折り込まれ。 

 そして少しの間があり、王女の耳に布擦れの音が響いた。


「…………おいで」


 弾かれたように王女が顔を上げた。

 公爵を向くと、困った顔をしながら腕を広げて待っていた。


 王女の目が瞬いた。

 涙で濡れた目は宝石のように輝いている。

 

 引き寄せられるように、王女はその腕の中に収まった。

 

 優しい香りがした。

 ――ルシの匂いだ。


「……頑張らなくても」

「頑張らなくても差し上げますよ」

 

 公爵の手が王女の背を撫ぜる。

 

「あなたが望むなら」


 公爵の上着がみるみるうちに濡れていく。

 ヒック、ヒック。王女がしゃくり上げて泣いていた。


「……でもルシはギュってしてくれない……」

「シエル、ダメな子?」

「嫌いになる?」

 ずっと思っていたことがとめどなく溢れてきた。

 なんで、なんでが止まらない。


「嫌うなどとんでもない」

 撫ぜる手は王女の背から頭へ。

 いつもの優しい公爵の感触が戻ってくる。

 

「シエル、すてきなおねえさんじゃなくていい……」

「シエルもうなれないよ」

 

「いいえ殿下、シエル殿下はそのままで素敵なお姉さんですとも」

 

 公爵の声は、甘く優しく耳に届く。

 王女が公爵の肩に顔を押し付けると、胸元以上に公爵の香りがした。

 

 公爵が困ったように笑った。

 

「……ただ殿下は大きくなられましたので」

「こうして抱いたりあやしたりは終いにしなければなと、思っていただけです」

 公爵の言葉に王女は繰り返した。

「……嫌いにならない?」

「嫌いになることはありませんよ」


「私のやり方が良くなかったですね」

「もう少しだけこうしていましょう」


 公爵が王女の背を軽く叩いた。

「……怖がらせてしまいましたね」

 

 王女の嗚咽はまだ続く。

 けれど公爵に包まれた身体は温かい。

 胸の奥までもが、溶けていく。

 

 ――ルシが、帰ってきた。


 王女の腕は公爵の首をしっかりと抱いていた。


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