第50話 異変
――疲れたな。
もはや見慣れた令嬢たちを眺めながら、王子が小さくため息をついた。
ここ一週間、頭の痛い日々が続いていた。
余暇の時間は慣れぬ本を読み、音楽に耳を傾け、芸術に触れた。
図書室では王女に怪訝な顔をされ、回廊の絵画を眺めていれば通りすがりの騎士たちに茶化された。
仕方ないだろう。誰も王子の相談に乗らぬのだから。
ゼト、騎士団長、宰相。
薄情な奴らの顔が浮かび、王子はうんざりと息を吐いた。
ああしかし。
先程からどうしても目が離せない集団があった。
遠くで、見慣れた少年が手を叩いて笑っている。周りの令息たちも腹を抱えて笑っている。
楽しそうだ。
こちらはというと。
絵画や小説、音楽。
令嬢たちの話題はどれも王子の眠気を誘った。
座学、訓練、社交。それだけでも忙しいのに、世の令息は芸術まで嗜んでいるものなのか。
王子は気が遠くなった。
「王子殿下!」
愛らしい声が王子を呼ぶ。
王子はその声に呼応するように口角を上げた。
……一瞬引きつったのを、気づかないふりをして。
――――ごきげんよう、王女殿下。
眠気が一気に冴えた。
声のした方を向くと遠目に白金色の頭が見えた。隣に王子の知らぬ令息が。
王女は辺りを見回している。
そして王女と目が合ったような気がした。
「…………」
「王子殿下?」
「……なんでもない」
王子は令嬢に微笑み、何事もなかったかのように令嬢の話に聞き入った。
しかし視線は自然と王女に向かう。
王女が落ち着かなげに視線を彷徨わせている。
薄茶色の髪をした令息が王女にしきりに話しかけ、身振り手振りで気を引こうとしている。
そしてついに王女は俯いてしまった。
――またか。
王子は思った。
交流会のたび、気づけばあの令息が王女の近くにいた。
王女の周りには王子ほど人はいない。だが常に誰かしらは傍にいた。
同じ年頃の令嬢らと談笑しているように見える王女の姿に王子が安心していると、その隙をついて妙な令息が王女に近づくのだ。
名前は知らぬ。だが王子より背は高く、何歳か年上の男子。
顔だけなら、そこそこ整っている。
ただ、令息は公爵がいないときに限って王女に接触した。
恭しく接する態度。
薄気味悪い微笑。
誘うように首を傾ける仕草。
気味の悪いやつだ。
近くでまた、鈴のような声がなった。
「……殿下、なんだか今日は気もそぞろですね」
拗ねたような声音。可愛らしいじゃないか。
その声に、自然と口角が上がる。
王子は微笑を浮かべ、首を傾けた。
もう慣れたものだ。こういう振る舞いも、随分板についてきた。
令嬢は頬を染める。
皆、理想の王子様と囁く。
なのに少しも楽しくなかった。
そしてふと、思った。
……気味の悪いやつって。
誰のことだ?
◇
上着を引っ張れば、公爵は笑って抱き上げてくれた。
王女の合図だからだ。
抱き上げられて、眠ったふりをして目をつぶる。
肩先に顔を埋めれば、襟足が王女の鼻をくすぐった。
「……殿下、もうお別れしなければ」
困ったように笑う公爵。
困らせたくはなかった。けれど声音はまだ優しい。まだ大丈夫。
行かないで、の代わりに狸寝入りで彼を引き止めた。
「……また来ますから」
これ以上は待てない。それが公爵の合図だった。
だから王女は目を開けて公爵を解放した。
それが二人の合図だった。
けれど、その合図を公爵が壊してきた。
最後に公爵に会ったあの日。
今日で抱っこは終いだ。そう告げられた。
――シエル殿下は素敵なお姉さんですから。
いつもの優しい顔で、公爵は最近その言葉をよく繰り返した。
そしてその度公爵は王女を遠ざけた。
傍に寄る王女をたしなめ。
抱きつく腕を外され。
「お一人で歩いてみましょう」と微笑まれる。
その瞳は王女を見ていない。
胸がきゅう、と痛んだ。
落ち着かない。
——だからそろそろ、終いにしましょうか。
ドクン。大きく動悸がした。
王女は一人考え込んでいた。
「王女殿下、いっしょに遊びませんか?」
そこが、交流会の会場であることも忘れて。
「……え?」
気づくと目の前に金髪の少女が立っている。
大きな目が不思議そうに王女を見つめている。
「わたしたち、お絵かきで遊ぼうって話してたんです」
指し示された先に数人の少女。
先日会った緑色のワンピースの少女もそこにいた。
王女に手を振っている。
「……えっと……」
胸を抑えて王女は逡巡した。
お絵かきなら、王女も好きだ。
――お話をしなくても、大丈夫。
うん、やろう。
頷こうとしたその時、背後から声を掛けられた。
「ごきげんよう、王女殿下」
王女の肩が跳ねた。
――今日、来ないはずじゃ?
振り向くとそこに、薄茶色の頭がいた。
赤い上着、白いスラックス。公爵に似た色味だ。
けれど公爵ではない。
「……ルシ?」
なのに口では妙な言葉を吐いていた。
どうしてこの口は、勝手に動いたんだろう。
王女はぎゅっと唇を噛み締めた。
「……え?」
目の前の令息が首をかしげた。
見ればこの頃よく話しかけてくる妙な令息だった。
どうにも落ち着かない男の子だった。
雰囲気が、どことなく――。
想像し、王女が固まった。
公爵とは、似ていない。
まるで、違う。
何を思ったの。
「なんでもない」
息が苦しい。
胸の奥が、ずっと変だ。
「……先日ご挨拶させていただいたんですけど、僕のこと覚えてますか?」
「日当たりが良いので、良ければ外でお話でも」
――今日は日当たりが良い。よろしければ、庭でお茶でもしませんか?
どうしてシエルは。ルシだと思ったの。
王女の唇がかすかに震えた。
また、唇を噛み締めて誤魔化す。
「……ルシって……公爵閣下のことですか?」
「……僕は公爵閣下に似ていましたか?」
微笑んだ令息に、王女の顔が強張った。
違う。
全然似ていない。
声も姿形も。ひとつとして。
――シエルはルシを間違えない。
ワンピースを握りしめる王女の手に、令息の指がそっと触れた。
びくり、と王女の肩が震えた。
シエルに。
触っていいのは。
「シエルに触らないで!」
——ルシだけなのに!
王女が令息の手を跳ね除け、叫んだ。




