第35話 最後の夜
公爵邸に、普段見ぬ小さな影がひとつ。
影が通るたび、濡れた足跡がカーペットに残っていく。
その影を追って、侍女が走る。
「殿下まだですよ、髪が濡れています」
「乾かさないと……」
小さな影が、客間で書類を広げていた公爵の傍まで走ってきた。
王女が公爵の座るソファに飛び乗った。
水滴が、公爵の膝にかかる。
侍女からタオルを受け取った公爵が、王女の頭にそれを被せた。
「……夜にルシに会えるの、はじめて」
「楽しくなってしまいましたか?」
公爵から離れようとしない王女の後ろで、侍女が困ったように髪を拭いている。
書類に目をやりながら、公爵は王女に語りかけた。
「殿下、温まりましたか?」
「うん、泳げたよ」
「泳げた……?」
突飛な返しに公爵が目を瞬かせた。
「うん、お風呂の中で泳いだ」
「……なるほど」
「王宮よりは浴場は小さかったでしょう?」
「うん……でも王宮で泳ぐと怒られるから……」
「そう……今日は特別です」
「ルシのとこ、特別がいっぱいだね」
昨日と打って変わり、王女の目は冴えていた。 このまま朝まで起きていそうな勢いだ。
公爵が一抹の不安を覚える。
「今日ルシとずっといっしょにいる」
「殿下、明日起きられなくなってしまいますよ」
「今日は特別だもん」
「良くない覚え方をしてしまいましたね……」
「シエル……ずっとお泊りしてたいな……」
紙をめくる音が止まった。
王女は明日、王宮に戻らなければならない。
「我が領地はいかがでしたか」
「うん、楽しいことたくさん」
思い出を語る王女の口は止まらない。
拙い言葉で公爵に語りかけ、公爵もそれに相槌を打つ。
ただ、露店のことを口にされる度、公爵はわずかに眉を寄せた。
「あと…………」
「……ルシがずっといてくれたよ」
王女が公爵の袖をつまんだ。
「また機会を作ります」
「本当は、もっと色んな場所をお見せしたかった」
「残念ながら時間が足りなかったですね」
「……また連れてきてくれるの?」
「はい、殿下がお望みであれば」
「……いつ?」
「そうですね……殿下は特別な方ですから、なかなか許可が取れません」
「いつとは申し上げられませんが……。
けれど、またこういった機会を設けられるよう、努力します」
王女がソファに体を預けた。
「また特別?」
「特別は難しいんです」
「ふうん……」
王女の頭から侍女がタオルを取り払い、去った。
髪はまだ、湿り気を帯びている。
王女が無言になった。眠そうに、瞳をパチパチさせている。
「殿下、そろそろお眠りに……」
「……明日もいちゃだめ?」
「………………」
「……ダメかな……ルシ……」
王女が口を閉じた。
目が、とろりとどこか遠くを見つめている。
「殿下には、殿下の帰る場所がございます」
「待っていますよ、皆あなたを……」
「……待ってないよ」
「シエル、いなくてもいいよ」
公爵の手が伸びた。
王女の丸い頭を長い指が優しく撫ぜる。
公爵の手の中で白金色が揺れる。
無意識だった、だがそうせねばならない。
衝動だった。
「いいえ、殿下」
「……シエル王女殿下」
「あなたは尊い方です」
「…………私にとっても、大事な方ですよ」
「ほんと?」
「ええ、嘘偽りなく…………本当に」
王女が公爵に寄った。
撫でられた頭を、その手へ擦り付ける。
長い時間だった。
王女の湿った髪が乾くほど。
いつの間にか、王女は公爵の膝に頭を預け、寝入っていた。
身体が冷えぬよう、ブランケットで包んでやる。
「…………」
すやすやと寝息が聞こえる。
公爵は王女の頭をひと撫でした。
「猫のようだ」
もう少しだけこうしていよう。
この子は王女ではない。ただの猫だ。
公爵はそう納得した。




