第1話 問題児と呼ばれた王子
「痛っ」
幼子の爪が、女の肌を引っ掻き、一筋の赤い線が伸びた。
侍女がその場で頬を抑え、顔をしかめた。
小さな靴が、若い侍従の膝を蹴りつけ、男がよろめいた。
自身を拘束する腕が緩み、幼子がそこからスルリと抜け出し駆け出した。
「王子殿下!」
侍女の一人が王子に手を伸ばし、しかしすり抜けられた。
王子が廊下の奥へ駆けてゆく。
使用人たちが慌ててその背を追った。
幼子の名はエリオス・ヴァレンティノ・アステルディア。
齢にして6つ。この国の次代を背負う、王太子であった。
執事長は荒れた廊下を見渡した。
侍女の頬には赤い傷。
使用人たちの顔には疲労が滲んでいる。
執事長の手の甲の噛み跡が疼いた。
三日前につけられたものだ。
つい先程まで、王の寝室前は異様な緊張に包まれていた。
「陛下はお加減が悪いのです、今日はお会いできません」
父を見舞いたい。そう言って王子は王の寝室の前まで来ていた。
その手には一枚の文が握られていた。
側仕えの侍女が王子の前に膝をつき、王子の肩を抱く。
努めて柔らかい声音で王子を諭していた。
「きっと良くなられますから、それまでお待ちしましょう」
王子が手の中の文を握りしめた。
吊り気味の双眸が、真っ直ぐ侍女を見上げる。
「いつだ」
「えっ?」
「いつ良くなる」
声は、震えていた。
「父上は、いつ良くなるんだと聞いている」
「……きっとすぐに……」
侍女の返答に王子が声を荒げた。
「一週間前もそれを聞いた!」
「……嘘つきばかりだな」
「俺に正直なやつはいないのか」
「殿下……」
王子の声を聞きつけ、数人の使用人が駆けつけた。
――始まる。
使用人が、顔を見合わせ、両手をこわばらせた。
「入る」
王子が王の寝室の扉を握った。
しかしそれを、侍女が止めた。
「いけません!」
「離せ!!」
王子が侍女の手を振り払い、その頬に傷をつけた。
ある使用人は王子を羽交い締めにし、ある使用人は王子の足を抑えた。
6歳の王子は小柄な身体ながら、暴れ始めれば手がつけられない。
廊下の角に、くしゃくしゃになった文が残されていた。
執事長が拾って開くと、それは太く、歪な筆跡で書かれた手紙であった。
――父上がげんきになりますように。
執事長が、両目を手で覆った。
手紙の皺を丁寧に伸ばし、懐にしまう。
「宰相閣下に報告してくる」




