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第9話「七十年、Fで生きた男の話」

 


 来るつもりは、なかった。

 気づいたら、来ていた。

 ゴズの隣に座って、ナギはその事実を特に掘り下げなかった。掘り下げると、胸の奥の鍵をかけた場所が軋む気がした。軋む理由を考えると、また別の場所が軋む。そういう連鎖を、ナギは好まなかった。

 ゴズは何も言わなかった。

 来ることを予測していたような顔で、黙って空を見ていた。軒先に差し込む朝の光が、老人の皺を深く見せた。七十年分の皺だった。七十年間、この世界でFランクとして生きた証が、あの顔に刻まれていた。

 路地に風が通った。

 乾いた風だった。

 老人が自分の過去を語る時、二種類ある。一つは、誰かに聞いてほしくて語る過去。もう一つは——語らなければ、消えてしまうから語る過去。

 ゴズのそれは、後者だった。



 Fとして生まれたとゴズは言った。

 唐突だった。前置きがなかった。ナギは黙って聞いた。

「両親もFだった。生まれた村もFばかりだった。だから最初は、世界とはそういうものだと思っていた。Fが当たり前で、それ以外を知らなかった」

「いつ知った」

「十二の時だ。初めて村の外に出た。SとAとBが歩いている街を見た」ゴズは目を細めた。「その時初めて——俺たちは、下なのだと知った」


 ナギは何も言わなかった。

 怒ったかと聞くと、

 怒ったとゴズは即答した。

「十二の子どもが怒るような、単純な怒りだった。なぜ俺たちだけがこうなのかという。でも怒りは長続きしなかった。怒り続けるには、体力がいる。食えない日が続けば——怒る体力も、なくなる」


 それはわかる、とナギは思った。前の世界でも、似たようなことがあった。不満を持っていても、疲れ果てれば何も感じなくなる。感情は、体力の上に成り立っている。


「その後は」

「奴隷として売られた。十四の時だ。三度売られて、三度逃げた。逃げるたびに、捕まった。捕まるたびに、値段が下がった」ゴズが苦笑した。「四度目は逃げなかった。逃げる体力が、なかった」

「それからずっと、奴隷だったのか」

「いや」ゴズは首を振った。「三十の時に、持ち主が死んだ。病死だった。引き継ぐ者がいなくて——俺は、ただ解放された。誰も俺を欲しがらなかっただけだが」


 ゴズは笑った。自嘲でも諦めでもない、乾いた笑い方だった。

「それからここに来た。もう四十年になる」

「強かったのか」とナギが聞いた。

「いや」ゴズは即答した。「運が良かっただけだ」

「運とは何だ」

「死ななかった、ということだ」


 ナギはその答えを、しばらく考えた。

 死ななかったことが運だとすれば——生きていることの全てが、偶然だということになる。必然ではなく、意志でもなく、ただ死ねなかっただけ。それがゴズの七十年だった。


「Sランクに近づこうとした者を、見てきたと言っていた」

「ああ」

「最初の者は、どんな人間だった」


 ゴズは少し間を置いた。遠い記憶を手繰り寄せるような間だった。


「俺が二十三の時だ。三十代の男だった。元々は冒険者をやっていたらしい。Fランクでも、実力があれば冒険者になれる時代があったと言っていた——俺にはわからんが」

「消えたのか」

「ある朝、いなくなっていた。荷物もあった。食いかけのパンもあった。ただ、本人だけがいなかった」


 ナギは黙って聞いた。


「最後の者は三年前だ」とゴズは続けた。「若い女だった。Fランクで生まれた子どもを、Fランク制度から解放したいと言っていた」

「動機がある人間だった」


 ゴズは目を細めた。

「そゆう人間ほど、早く消える。この世界では——強い意志が、死期を早める」


 それは残酷な法則だった。

 希望を持つ者が先に死ぬ。諦めた者が生き残る。ならばこの世界は——生き残ることで、何かを失わせる仕組みになっている。

 ナギは空を見た。

 広い空だった。採掘場の切り取られた空ではない、どこまでも続く空だった。それでも今この瞬間は——少しだけ、重く見えた。


「一つ、聞いていいか」とナギが言った。

「聞け」

「Sランクについて、何を知っている」


 ゴズは少し黙った。断るかと思った。断らなかった。

「七人いる。それぞれに領域がある。軍事、経済、司法、宗教、情報、魔法——そして」


 ゴズが間を置いた。


「刻印管理だ」

 ナギはゴズを見た。

「刻印を管理するSランクがいる」

「管理とは」

「字の通りだ」

 ゴズは声を低くした。

「刻印は生まれつき決まるものではない——という噂が、古老の間にある。誰かが、意図的に決めているという噂が」

「噂か」

「俺が確認できたわけではない」ゴズは首を振った。「ただ——七十年生きて、この耳に入ってきた話だ。全くの嘘とは思えない。辻褄が合いすぎる」


 ナギは黙って、その言葉を頭の中に置いた。

 刻印が意図的に決められている。

 その仮説が正しいなら——この世界の残酷さは、神の気まぐれではない。人間の、意志だ。誰かが決めた。誰かがFランクを作り、管理し、維持している。

 ナギは空を見た。

 広い空が——その瞬間だけ、少し狭く見えた。

 続きはとナギが聞く。

「続きは、俺も知らない」

 ゴズは首を振った。

「知れる立場にない。Fランクが知れる情報には、限界がある。壁がある。俺はその壁を、七十年かけて確認しただけだ」



 沈黙が、落ちた。

 遠くで、子どもの声がした。




 昼になった。

 スラム街に子どもたちの声が響いていた。

 Fランクの子どもたちが、路地で遊んでいた。泥だらけで、裸足で、でも笑っていた。石ころを蹴って、追いかけて、転んで、また立って。この場所以外を知らない子どもたちの、屈託のない声だった。


 ナギはその光景を、少し離れた場所から見ていた。

 ウルロワのことを——考えた。

 考えていないつもりだった。考えていた。あの子どもは今、どこにいるのか。採掘場はあの後どうなったのか。監督は。他のFランクたちは。


 知る術はなかった。

 知ったところで、どうする手段もなかった。

 わかっていた。わかっていて——それでも、考えた。

 子どもは正直だ。恐れるべきものを、正しく恐れる。恐れなくていいものを、恐れない。大人になるということは


 ——その感覚を、少しずつ狂わせていく過程なのかもしれない。

 路地で遊んでいた子どもの一人が、ナギを見た。

 Fの刻印を確認した。

 逃げなかった。じっと見ていた。

 ナギは視線を切った。

 切った後も——子どもの目が、瞼の裏に残った。

 ウルロワと同じ目ではなかった。でも——同じ年頃だった。



 


 夕方になって、ゴズがナギを呼んだ。

 珍しく、立ち上がっていた。いつも軒先に座ったままのゴズが、路地の中ほどまで出てきていた。体が、少し強張って見えた。

「頼みがある」

 ナギはゴズを見た。

「スラム街の外れに、病気の子どもがいる。Fランクの子どもだ。薬が必要だ。だが——Fランクに薬を売る店はない。Cランク以上の薬屋は、Fランクの客を断る。法律ではない。ただの慣習だ。でも慣習は、法律より強い場合がある」

「俺には行く理由がない」

 そうだとゴズは言った。


 沈黙。

 ゴズは視線を逸らさなかった。誇りがある目だった。七十年間、誰にも頭を下げずに生きてきた目だった。それでも——今、この老人はナギに頭を下げようとしていた。

「だから頼んでいる」

 

 ナギは少し考えた。

 立ち上がった。

 頼む、という言葉の重さを、ナギはこの世界で初めて感じた。前の世界では、頼まれることもなかった。頼む相手もいなかった。誰かに必要とされるという感覚が——どういうものか、ナギにはわからなかった。

 わからないまま、歩き出した。



 Cランクの薬屋は、スラム街から二十分ほど歩いた場所にあった。

 清潔な店だった。棚に瓶が並んでいて、それぞれに丁寧な文字でラベルが貼ってある。店主は四十代の、太った男だった。

 ナギが入ると、店主が顔を上げた。

 Fの刻印を見た。

「出て行け」

 感情のない声だった。何度も同じことを言い続けてきた声だった。

 ナギは出て行かなかった。

 カウンターまで歩いて、店主の手首を掴んだ。

 引っ張った。

 店主の目が、一瞬、虚ろになった。薬の調合知識という概念が、根こそぎ抜けた。店主は自分の棚を見た。瓶が並んでいる。何の瓶なのか——わからなくなった。自分が何を売っていたのか、思い出せなかった。

 ナギは棚から薬を取った。子どもの症状をゴズから聞いた範囲で、適切なものを選んだ。ガデルから奪った記憶の中に、たまたま薬草の知識を持つ者がいた。その記憶が、今、役に立った。

 

 硬貨を、カウンターに置いた。

 盗みではない。取引だ。

 店を出た。


 スラム街に戻ると、ゴズが同じ場所に立っていた。

 ナギは薬を渡した。

 ゴズは受け取って、路地の奥に消えた。

 ナギは軒先に座って、待った。

 待つつもりはなかった。気づいたら待っていた。

 しばらくして、ゴズが戻ってきた。


 礼を言っているとゴズは言った。


「いらない」

「名前を聞かれた。教えてもいいか」

 ナギは少し考えた。

「ナギでいい」

 

 ゴズが頷いた。それから、また空を見た。夕暮れが近かった。空が赤くなっていた。採掘場で見た灰色の空とも、森の中で見た星空とも違う色だった。

 この世界に来てから、空の色が毎回違う、とナギは思った。同じ空なのに。


「ナギ」

「なんだ」

「お前は——」

 

 ゴズは少し間を置いた。言葉を選んでいるのではなく、確認しているような間だった。七十年間で積み上げた感覚を、言葉に変えようとしているような。

「消えない気がする」

 消えない気がする。

 それは根拠のない言葉だった。七十年間、十二人が消えるのを見てきた老人の、根拠のない予感だった。論理ではない。証拠もない。ただの——感覚だ。

 でもナギは。

 


 その言葉を胸の奥にしまった。

 鍵をかけた場所の、さらに奥に。誰にも触れさせない場所に。大切なものをしまう場所に——そういう場所が、自分の中にあったことを、ナギはこの時初めて知った。

 なぜそうしたのかは——まだ、わからなかった。

 わからないまま、空を見た。

 赤い空が、少しずつ暗くなっていた。

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