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第10話「慈悲はいらない」

 


 朝。

 手元に、硬貨が七枚あった。

 ナギはそれを手のひらに乗せて、数えた。一枚、二枚、三枚——七枚。昨日、薬屋に払った残りだった。この外縁区で最も安い食事が、一枚で買える。つまり、あと七日だ。

 七日で、何かを変えなければならない。

 感情はなかった。焦りもなかった。ただ、事実として確認した。生きるためには金がいる。金を得るには働くか奪うか。Fランクを雇う店はない。ならば——奪うしかない。

 生きるということは、能動的な行為だ。待っていれば死ぬ。動けば生きられるかもしれない。そのかもしれないに賭け続けることが——生きる、ということなのかもしれない。

 ナギはその賭けを、感情なく、しかし確実に、選んだ。



 ゴズに相談した。

 ゴズは少し考えてから、話し始めた。


「王都外縁には、裏の仕事市場がある」

「裏の、とは」

「表の冒険者ギルドに登録できない者が、非公式に仕事を受ける場所だ。FランクとEランクが大半だが、訳ありのDランクもいる。場所は決まっていない。人伝てに聞くしかない」

「危険か」

「危険な仕事ばかりだ」とゴズは即答した。「まともな報酬が出ない仕事もある。騙される者も多い。最悪、仕事を受けた後で殺される」

「騙されない自信はある」

「根拠は」

「騙す側の人間の目を、知っている」

 ゴズは少し考えた。それから、場所を教えた。

 裏の市場とは、表の市場が切り捨てたものの集積だ。需要はある。供給もある。ただ、誰も公式には認めない。存在するのに、存在しないことにされているもの。Fランクと——同じように。



 廃屋の地下だった。

 石段を下りると、薄暗い空間が広がっていた。蝋燭が数本、壁に刺さっている。その光の中に、十数人の影があった。EランクとFランクが大半。Dランクが数人。みすぼらしい格好をしているが、目だけは鋭い者が多かった。生きることに特化した目だ。追い詰められた者の目ではなく——追い詰められることに慣れた者の目だった。

 入口で、腕を掴まれた。

 大柄な男だった。Dランクの刻印。仲介業者だろう。


 男はナギの刻印を見て言った。

「何ができる」

「戦える」

 男が笑った。周囲の何人かも笑った。

「Fが戦える、ね。死にたいのか」

 ナギは男を見た。

「仕事を紹介しろ」

 男の笑いが、少し止まった。Fランクにしては目が違う、と思ったのだろう。値踏みする目に変わった。ナギはその視線を、正面から受けた。

 男は短く舌打ちして、奥に向かった。



 仕事の内容は、単純だった。

 Bランクの商人——マーヴ=ドルンという男が雇っている用心棒二人を、「排除」してほしい。商人の競合相手からの依頼だった。用心棒がいなくなれば、商人の動きが止まる。それだけでいい。殺さなくていい。ただ、二度と剣を持てなくすればいい。

 Bランクの用心棒だぞと仲介の男が念を押した。

「一人はBランクの剣士。もう一人はBランクの魔法使いだ。お前みたいなFが勝てる相手じゃない。死んでも知らんぞ」

「わかった」

「……本当にわかってるのか」

「報酬は銀貨十枚と言った。前払いで三枚。残りは完了後」

 男は少し間を置いてから、銀貨三枚をテーブルに置いた。

 ナギはそれを受け取って、地下を出た。


 

  一日かけて、標的を観察した。

 マーヴ=ドルンは、外縁区の商業通りに店を構えていた。昼間は店の中、夜は裏の倉庫に移動する。用心棒二人は常に傍にいるが——交代のタイミングがある。

 剣士が外を見回り、魔法使いが内側を守る時間帯。その切り替わりの瞬間に、三分だけ——二人の動きが重なる場所がある。路地の角だ。

 

 ナギはその三分を、何度も確認した。

 剣士の名はザック。三十代。Bランク。体が大きい。剣の持ち方を見れば、長年の訓練が染み込んでいることがわかった。構えに無駄がない。重心の置き方が安定している。強い。

 魔法使いの名はセラ。二十代。女。こちらもBランク。常に五メートルの距離を保っている。近接戦を嫌う動き方だった。遠距離から魔法を放つことに特化した戦い方だ。接触させなければ——強い。

 戦いを、恐れていなかった。

 恐れるべき理由がわからなかった。死ぬかもしれない——それはわかる。でも死ぬことへの恐怖が、ナギの中のどこにあるのか、うまく見つからなかった。生きることへの執着が薄い者は——死ぬことへの恐怖も、薄い。

 それは強さではない。

 ただの——欠落だ。

 ナギはそれを知った上で、夜を待った。


 

  夜になった。

 商業通りの人が減った。蝋燭の光だけが、石畳を照らしていた。

 三分の窓が、開いた。


 路地の角。

 ザックが角を曲がってきた。ナギは物陰から出なかった。待った。ザックが完全に角を曲がって、背後の視線が切れた瞬間——出た。

 正面から、歩いた。

 隠れなかった。走らなかった。ただ、歩いた。

 ザックがナギを見た。Fの刻印を確認した。一瞬、笑った。

 Fランクが、夜の路地で自分の前に立っている。その状況が、滑稽に見えたのだろう。

 その一瞬が、全てだった。

 ナギはザックの笑いが完成する前に——懐に入った。

 一歩。

 距離がなくなった。

 ザックの右手を掴んだ。剣の柄を握っている手を。そのまま、引っ張った。

 ザックの剣術記憶が、根こそぎ抜けた。

 しかし——

 ザックの体が、動いた。

 記憶を奪われながら、体が勝手に反応した。長年の訓練が筋肉に染み込んでいた。脳が命令を出せなくても、体は覚えていた。ザックの左肘が、本能的にナギの顎を打ちに来た。

 速かった。

 避けられなかった。

 顎に、重い衝撃が走った。視界が一瞬、白くなった。ナギは後ろによろめいた。膝をつく。

 想定外だった。

 Dランクまでは、記憶を奪えば終わった。体が止まった。しかしBランクは——違う。本物の強者は、脳ではなく体で戦う。記憶を奪っても、筋肉が覚えている動きは残る。

 

 ザックが混乱していた。自分が今何をしているのかわからない顔をしながら、それでも体が動いていた。剣を構えようとした。剣の握り方を忘れているのに、腕が剣の方向に動いた。本能が、戦えと命令していた。

 

 まずい。

 

 ナギは膝をついたまま、素早く計算した。

 技術と記憶を奪っても、体は覚えている。ならば奪うべきは——記憶だけではない。体が覚えていることそのものを、奪えばいい。

 ザックの右足が、ナギに向かって踏み込んできた。

 ナギは避けなかった。

 受けた。

 蹴りが脇腹に入った。痛かった。息が詰まった。でも——その衝撃の中で、ナギはザックの足首を掴んだ。

 引っ張った。

 今度は「体の記憶」という概念を。

 ザックが、初めて——完全に止まった。

 立っていられなくなった。体の動かし方が、全部、わからなくなった。膝から崩れて、その場に座り込んだ。剣を持ったまま、自分の手を見ていた。何かを忘れた、とわかっているが、何を忘れたかもわからない顔だった。


  三分の窓が、残り一分半になっていた。

 角の向こうから、足音がした。

 セラだった。

 予定より早かった。何かに気づいたのかもしれない。魔法使いとしての感覚が、異変を察知したのだろう。

 ナギは立ち上がった。脇腹が痛かった。顎も痛かった。それでも立てた。

 セラが角を曲がって、ナギを見た。地面に座り込んだザックを見た。

 一瞬だった。

 次の瞬間、セラの手が光った。

 魔法が来た。

 火の塊だった。直径三十センチほどの、圧縮された炎が、ナギに向かって飛んできた。

 ナギは横に跳んだ。

 間に合わなかった。

 左肩を、炎が掠めた。

 熱かった。熱いというより——痛かった。服が焦げた。皮膚が焼けた。思わず声が出そうになって、出さなかった。声を出す体力を、温存した。

 石畳に転がって、立ち上がった。

 セラが距離を取りながら、次の魔法を準備していた。手が、また光り始めていた。

 接触させてくれない。

 距離を詰めなければ、奪えない。でも距離を詰めようとすれば、魔法が来る。この女は遠距離戦のプロだ。距離を保ちながら、的確に削ってくる。

 ナギは走った。

 正面から。

 セラが二発目を放った。ナギは体を捻って、回避した。石畳が爆ぜた。熱風が頬を叩いた。

 まだ遠い。

 三発目が来た。今度は横に跳んで、回避した。着地した瞬間に膝が痛んだ。ザックに蹴られた脇腹が、走るたびに軋んだ。

 それでも止まらなかった。

 セラが四発目を準備した——その瞬間。

 ナギは方向を変えた。

 正面ではなく、斜め。建物の壁を使った。壁を蹴って、軌道を変えた。セラの視線が一瞬、ずれた。魔法の照準が、追いつかなかった。

 四発目が、ナギの背後を通過した。

 その隙間に——ナギはセラの懐に入った。

 手を伸ばした。

 セラが後退りしながら、至近距離で五発目を放とうとした。

 間に合わなかった。

 ナギの指が、セラの手首に触れた。

 引っ張った。

「魔力の流し方」という概念を。

 セラの手から、光が消えた。

 魔法使いの体の中に魔力はある。ナギはそれを感じた。大きな魔力だ。Bランクの魔力は、Dランクとは比べものにならない量がある。しかし——その魔力をどう動かすかが、わからなくなった。川に水があるのに、流し方を忘れた状態だ。水は溢れない。でも流れない。

 セラが自分の手を見た。

 何も起きなかった。

 何度試しても、何も起きなかった。

 セラの顔から、血の気が引いた。魔法使いにとって、魔法を失うことがどういう意味を持つのか——その恐怖が、顔に出ていた。

 ナギはセラを見た。

 何も言わなかった。

 ただ、奪った魔力の流し方を——自分の中で試した。

 手が、光った。

 弱い光だった。セラが放ったものとは比べものにならない。しかし——光った。Fランクが、魔法を使った。

 セラが、ナギを見た。

 その目に、初めて——本物の恐怖があった。



 ナギは路地に立って、自分の手を見た。

 震えていた。

 恐怖ではなかった。疲労だった。左肩が焼けていた。脇腹が痛かった。顎が腫れていた。体が、正直に消耗を訴えていた。

 ——本当は、疲労だけだったのかどうかは、わからなかった。

 Bランクは、Dランクとは別の生き物だった。記憶を奪っても体が動く。魔法を奪っても恐怖で動く。奪うことだけでは、足りない場面があった。

 この先にAランクがいる。

 Aランクは、Bランクの上だ。

 ナギは空を見た。夜の空だった。星が見えた。

 まだ、足りない。

 それだけを、確認した。



 

  仲介の男に報告した。

 男が、ナギを見る目が変わっていた。驚きと、警戒と、値踏みが混じった複雑な目だった。言葉が、少し遅れた。

「……本当にやったのか」

「報酬を」

 男は黙って、銀貨七枚を渡した。

 ナギは受け取って、廃屋を出た。


  ゴズに、今日のことを話した。

 話すつもりはなかった。

 気づいたら、話していた。

「Bランクを倒したか」

「二人」

「怪我は」

「肩が少し。脇腹も」

 ゴズは黙った。何も言わずに、自分の上着の端を掴んだ。布を、ゆっくりと破いた。包帯の代わりだった。古い布だったが、清潔だった。ゴズなりの気遣いだろう。

 ナギに、押しつけた。

 ナギは受け取った。

「ありがとう」

 言うつもりはなかった。

 言っていた。

 ゴズは何も言わなかった。また空を見た。夜の空を、老人が静かに見ていた。

 ありがとう、という言葉を——ナギはいつ以来言っただろうか。

 前の世界では、言う相手がいなかった。この世界でも、今日まで、言う機会がなかった。言葉は、相手がいなければ生まれない。誰かがいるから、生まれる言葉がある。

 ナギの中に——少しずつ、言葉が増えていた。

 その言葉が何を意味するのか。

 まだ——わからなかった。

 左肩に、破いた布を当てた。

 痛かった。

 それでも——悪くない夜だった。


 

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