第11話「怪物に、ランクは関係ない」
朝から、噂が飛んでいた。
スラム街の路地を風が通るように、声から声へ、耳から耳へ。止める者は誰もいなかった。止める理由が、誰にもなかった。
「Bランクの用心棒二人が、一夜にして廃人になった」
「犯人はFランクらしい」
「嘘だろう。FがどうやってBのBを倒す」
「見た者がいる。路地でFの刻印を確認したと」
「どんな手を使ったんだ」
「何かを——奪われたらしい。剣士が剣の握り方を忘れて、魔法使いが魔法の使い方を忘れた。体は生きてる。でも——何かが、なくなってる」
ナギはゴズの隣で、その声を聞いていた。
他人事のように——聞いていた。
噂には、重さがある。軽い噂は広がるが、すぐに消える。重い噂は広がるのが遅いが——一度根を張ると、消えない。Fランクの怪物、という噂は、重かった。誰もが信じたくなかった。だから——誰もが、確認したくなった。
確認したくなった者が語り、また別の者が確認したくなる。
噂は、そうやって——生き物になる。
裏仕事市場に戻ると、空気が変わっていた。
入口で腕を掴んできた仲介の男が、前回と違う目でナギを見た。警戒ではない。値踏みだ。商品の価値が上がった時の、商人の目だった。
「来ると思っていた」と男は言った。
「仕事があるか」
「ある」男は声を落とした。「今度は——Aランクだ」
テーブルの上に、紙が広げられた。Aランク冒険者の護衛任務の妨害。ルートの詳細。護衛の人数。報酬——銀貨三十枚。
「Aランクだぞ」と男は言った。「前回のBとは、別次元だ。Bに苦労したなら、Aは死にに行くようなものだ。本当にやるのか」
ナギは紙を見た。
少し、考えた。
「今はやらない」
男が、驚いた顔をした。断るとは思っていなかったのだろう。
「なぜだ。報酬は悪くないぞ」
「準備が足りない」
男は黙った。ナギを見た。何か言いたそうだったが、何も言わなかった。
無謀と勇気は、違う。Bランクとの戦闘で——ナギは自分の限界の輪郭を、初めて正確に見た。あと少し判断が遅ければ、負けていた。あと一発魔法が当たれば、動けなくなっていた。Aランクは、その上だ。今の自分では——足りない。それを認めることは、弱さではない。計算だ。感情ではなく、計算が、ナギを止めた。
「別の仕事を持ってこい」とナギは言った。「Bランク以下で、技術の高い相手を」
「なぜBランク以下なんだ。報酬が下がるぞ」
「奪うものがある」
男は少し間を置いてから、次の仕事を探し始めた。
夕方になって、ナギは酒場に入った。
酒を飲むためではなかった。情報を買うためだった。金を払えば、酒場の主人は話してくれる。外縁区で何が起きているか。どこに誰がいるか。誰が誰を探しているか。
酒場の中は、賑やかだった。
几帳面に隅を選んで座って、耳を開いた。
「Fランクの怪物の話、聞いたか」
すぐに、その声が飛んできた。
「ああ。Cを三人、Bを二人——全員、廃人にしたらしい」
「廃人って、どういうことだ」
「体は生きてる。でも剣の握り方を忘れた剣士と、魔法の使い方を忘れた魔法使いが出た。何かを——奪われたらしい」
「奪われた?」
「そういう異能があるらしい。Fランクが持つにしては、あり得ない能力だが——目撃者が複数いる。全員、同じことを言っている」
「名前はわかるのか」
「Fランクに名前なんてつけないだろ」
男が、声を落とした。
「ただ——剥奪者、って呼ばれ始めてる」
ナギは酒場の隅で、コップを持ったまま、その言葉を聞いた。
剥奪者。
初めて、自分に名前がついた。
Fランクに名前はいらない——この世界はそう言っていた。刻印だけがあればいい。F、というだけでいい。名前は、存在を認めることだ。認めるに値しない者には、名前がいらない。
なのに——怪物には、名前がついた。
ナギは、その名前をどう受け取ればいいかわからなかった。拒絶する理由もなかった。受け入れる理由もなかった。ただ——確かに、自分のことだと思った。
剥奪者。
声に出さずに、口の中で転がした。
悪くない、とは思わなかった。
でも——否定もしなかった。
ゴズに話した。
「剥奪者という名前がついた」
ゴズは少し黙った。老人が黙る時、それは考えているのではなく——感じているのだとナギは学んでいた。七十年分の感覚が、言葉より先に動いている。
「怖いか」とゴズが聞いた。
「何が」
「有名になることが」
ナギは少し考えた。
「有名になる意味がわからない」
「有名になれば——狙われる」とゴズは言った。「今狙っているのは、金のために動く者だ。しかし本当に有名になれば——信念のために動く者が来る」
「信念のために動く者とは」
「ランク制度を守るために動く者だ。Fランクの怪物を排除しようとする者だ。金ではなく、正義のために動く者は——止まらない」
ゴズの目が、遠くを見た。
「金で動く者は、金で止まる。恐怖で動く者は、恐怖で止まる。だが信念で動く者は——信念でしか、止まらない。それがどれほど厄介なことか、七十年で嫌というほど学んだ」
ナギは黙って、その言葉を頭の中に置いた。
信念で動く者。
そういう人間が、世界にはいる。ドルグ=ヴァセルがそうだった。採掘場の監督も、ある意味でそうだった。自分が正しいと信じている者は——止まらない。
「わかった上で、続けるか」とゴズが聞いた。
「わかった上で、続ける」
ゴズは何も言わなかった。
ただ——頷いた。
一度だけ、深く。
その頷きに何が込められていたのか、ナギにはわからなかった。諦めか。承認か。それとも——七十年前に自分がしたかったことへの、代理か。
わからないまま、夜になった。
廃屋に戻ったのは、夜半を過ぎた頃だった。
暗かった。蝋燭を使わない。火は目印になる。暗闇に目を慣らして、それで十分だった。採掘場の夜がナギに教えた習慣だった。
入口に手をかけた瞬間——
止まった。
気配がした。
廃屋の中に、人がいた。複数だ。息の仕方でわかった。緊張している者の息は、浅くなる。浅い息が、三つあった。
ナギは扉を開けずに、壁に背を預けた。
声が聞こえた。
「本当にここか」
「情報屋からFランクの怪物はここにいると聞いた。間違いない」
「Fランク一人に三人か。楽な仕事だ。さっさと終わらせて酒でも飲もう」
笑い声が三つ、した。
賞金稼ぎだろう。Fランクに公式の賞金はかかっていないはずだが——誰かが非公式に依頼を出したのかもしれない。あるいは、噂を聞いて自分たちで動いた者か。
ナギは少し考えた。
逃げる選択肢は、あった。
今夜は見逃して、別の場所に移る。それが最も合理的な判断だった。消耗を避けて、準備を整える。
でも——
逃げた場所を、また誰かに教えられる。情報屋がいる以上、どこに移っても同じだ。ならば——来た者に、二度と来たくないと思わせるほうが、長期的には合理的だ。
ナギは扉を開けた。
三人が振り返った。
Cランクの刻印が、三つ見えた。全員、武器を持っていた。剣が二本。槍が一本。
一人が、笑った。
「来たぞ」
「Fランクか。噂の怪物がこれか」
「思ったより普通だな」
ナギは三人を見た。
一人ずつ、確認した。
剣を持つ二人は、構えが甘い。訓練はしているが、実戦が少ない。槍の一人は、逆に構えが堅い。慎重な性格だろう。最初に動くのは——剣の二人だ。
動いた。
先にナギが、動いた。
一人目の剣士に向かって、真っ直ぐに歩いた。走らなかった。歩いた。その歩き方が——かえって、剣士の間合いを狂わせた。走ってくる相手への対処は訓練している。歩いてくる相手への対処は——していない。
剣士が剣を振った。
ナギは半身になって、回避した。剣が空を切る音がした。その流れのまま、剣士の手首を掴んだ。
引っ張った。
今回は——剣術の記憶だけを奪わなかった。
「戦意」と「恐怖を感じる能力」——その二つを同時に奪った。
剣士が、剣を下ろした。
戦う理由が消えた。そして——何かが怖いという感覚が、消えた。
剣士の顔が、ぼんやりとした。目の焦点が、合わなくなった。危険な場所にいるとわかっている。でも——怖くない。怖くないのに、なぜか涙が頬を伝った。剣士は自分の涙を、不思議そうに見た。
恐怖がなくなることは——安らぎではなかった。
恐怖とは、生きるための本能だ。危険を知らせる、体の声だ。それを根こそぎ奪われた者は——何が危険かわからなくなる。怖いものが何もないのに、涙が出た。それが何故なのかを、三人は理解できなかった。
ナギにも——わからなかった。
二人目が来た。
一人目の様子を見て、動揺していた。動揺した者の動きは、単純になる。大きく振りかぶって、力任せに来た。
ナギは一歩だけ横にずれた。
剣が、ナギのいた場所を通過した。
ナギは二人目の肩に手を当てた。同じものを奪った。戦意と、恐怖。
二人目も、ぼんやりとした目になった。
槍の一人が、後退りしていた。慎重な性格だと読んでいた。正しかった。二人の様子を見て、突っ込んでこなかった。槍を構えたまま、出口を確認していた。
逃げるかどうか、計算していた。
ナギは槍の男を見た。
男は——逃げなかった。
プライドか。それとも依頼人への義理か。どちらかはわからなかったが、男は槍を構えたまま、ナギに向かってきた。
槍は長い。接触するには、その間合いを潜り抜けなければならない。
ナギは真っ直ぐに走った。
槍が突いてきた。
ナギは体を捻った。槍の穂先がナギの脇を掠めた。布が、裂けた。皮膚が、引っかかれた。痛かった。
でも——入った。
男の懐に。
手を、男の胸に当てた。
今度は——「戦意」だけを奪った。「恐怖を感じる能力」は、奪わなかった。
男の槍が下がった。
戦う気が、消えた。
しかし——男は怖がっていた。自分の槍が下がっていくのが、怖かった。止めようとして、止められなかった。体が、言うことを聞かなくなっていた。それが怖かった。
男は槍を手放して、廃屋を走り出た。
外に出た気配がした。
走っていく足音が、遠くなった。
静かになった。
廃屋の中に、ぼんやりとした目の二人が残っていた。泣いていた。自分がなぜ泣いているのかわからない顔で、ただ涙を流していた。
ナギはその二人を見た。
廃屋の外に、放り出した。
乱暴にではなかった。ただ——ここにいてもらっては困る。それだけだった。
廃屋に戻った。
壁に背を預けて、座った。
暗い天井を見た。
恐怖を奪うと——泣く。
なぜか。
恐怖は、体が生きようとする声だ。その声を根こそぎ奪われた体は——本能の部分で、何かを失ったと知っている。失ったものが何かはわからない。でも——確かに、何かが消えた。その喪失を、体が泣いて訴えていた。
ナギは自分の手を見た。
今日は、震えていなかった。
それが——よいことなのかどうか、わからなかった。
翌朝。
ゴズの顔が、硬かった。
いつもの軒先ではなく、路地の中ほどまで出てきて、ナギを待っていた。
「昨夜の三人が、冒険者ギルドに駆け込んだ」
「わかっていた」
「恐怖を感じる能力を奪われたと、言っているらしい」
「そうだ」
「ギルドが——動いた」
ゴズの声が、一段低くなった。
「Aランク冒険者ギルドが、Fランクの剥奪者に賞金をかけた」
沈黙が、落ちた。
「いくらだ」とナギは聞いた。
「金貨五十枚だ」
ナギは少し考えた。
「Fランクに、金貨五十枚か」
「前代未聞だ」とゴズは言った。「この国の歴史上——Fランクに賞金がかけられたのは、初めてだ」
ナギは空を見た。
いつもの空だった。何も変わっていない空だった。昨日も見た、明日も見るだろう、同じ空だった。
賞金がかかった。
それは——世界がナギを、初めて「脅威」として認識した瞬間だった。Fランクは管理されるものだ。Fランクは使われるものだ。Fランクは消えるものだ。この世界の常識が、そう言っていた。
しかし今——Fランクに、金貨五十枚の値段がついた。
「ゴズ」
「なんだ」
「信念で動く者が、来るかもしれない」
「ああ」
「来たら——どうするかは、その時に考える」
ゴズは少し間を置いた。
「計算しないのか」
「今は、情報が足りない。情報が足りない時に計算しても、答えが出ない」
ゴズが——低く笑った。
乾いた笑いではなかった。今日は少しだけ、温かい笑い方だった。
「そうだな」とゴズは言った。「七十年で、一番賢い答えだ」
ナギは何も言わなかった。
空を見た。
世界が、ナギを見ていた。
ナギは——世界を、見ていた。
どちらが先に、相手の正体を掴むか。
それが——次の問いだった。




