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第8話 「底辺には、底辺の地図がある」

 


 王都は、臭かった。

 正確には——王都の外縁が、臭かった。城壁の内側がどんな香りをしているのかは、ナギには関係がない。Fの刻印を持つ者が城壁をくぐれば、その日のうちに処分される。それがこの国のルールだと、道中で出会った行商人から聞いた。ナギは礼を言って、行商人の「方向感覚」という概念を奪った。王都までの道を、最短で辿るために。

 行商人は翌朝、なぜ自分がどこにいるかわからなくなったと、酷く混乱したことだろう。

 申し訳ないとは——思わなかった。

 生きるために必要だった。それだけだ。

 城壁の外。王都と呼ぶには程遠い、灰色の街並みが広がっていた。石畳は割れていて、建物は傾いていて、路地には澱んだ水が溜まっている。空気が重かった。湿気と、煤と、人間が密集した場所特有の臭いが混ざり合っていた。

 でも——人がいた。

 Fランクが、生きていた。

 ナギは城壁の外で立ち止まって、その光景を見た。奴隷市場でも採掘場でもない場所で、Fランクが「暮らして」いる。物を売っている者がいる。子どもが走っている。老人が軒先に座っている。笑っている者すら、いる。

 それが——不思議だった。

 底辺には、底辺の地図がある。

 Sランクが知らない路地がある。Cランクが踏まない石畳がある。権力の目が届かない場所に——人間は、必ず根を張る。それを這いつくばりと呼ぶ者もいる。蔑む者もいる。

 ナギには——それが、初めて見る「生きている」という光景に見えた。



 スラム街に入った。

 馴染もうとはしなかった。話しかけなかった。ただ、歩きながら、見た。

 Fランクたちの暮らし方を観察した。どこで食料を手に入れているか。どこに寝床があるか。どこに危険があるか。人の流れがどこで滞るか。どこに目が届いていないか。三十一年間、夜の警備室でモニターを眺め続けた習慣が、ここでも静かに働いていた。

 気づいたことがあった。

 Fランクたちは見えない秩序の中で生きていた。

 ランク制度の外側に、彼ら独自のルールがある。縄張りがある。顔役がいる。暗黙の取引がある。物々交換の相場がある。誰がどこで何をしていいかという、文字にされていない法律がある。

 それは小さな社会だった。

 壊れかけていた。貧しく、不安定で、明日どうなるかわからない社会だった。

 でも——確かに、社会だった。

 ナギはその社会の外縁を、何も言わずに歩いた。どこにも属さなかった。属する気もなかった。ただ——歩いた。



 路地の奥に、老人がいた。

 壊れた建物の軒先。傾いた木の柱にもたれて、空を見ていた。七十代だろうか。皺が深い。体が細い。Fランクの刻印が、右手首に刻まれていた。

 ナギは老人の前を通り過ぎようとした。

 通り過ぎられなかった。

 老人の目が、ナギを捉えていたからだ。

 嘘をつかない目、というものがある。嘘をつく必要がないほど、多くを見てきた目だ。諦観でも達観でもない——ただ、全てを見た上で、それでも座って息をしている目。ナギは前の世界でも、そういう目を持つ人間に、数えるほどしか会ったことがなかった。

 老人は何も言わなかった。

 ナギも何も言わなかった。

 路地に、風が通った。

「採掘場から来たか」

 老人が言った。

「なぜわかる」

「手の傷の付き方が、そうだ」

 ナギは自分の手を見た。岩を砕いた日々が、まだそこに残っていた。完全には、消えていなかった。

 座れと老人は言った。

「立ったまま話すのは、疲れる」

 ナギは座った。

 理由は、なかった。ただ——この老人は、害のない人間だとわかった。それだけだった。

 ゴズだと老人は言った。

「ナギ」

「そうか」

 それだけだった。それ以上の挨拶を、二人とも必要としなかった。



 ゴズは話す時、急がなかった。

 一言言って、間を置く。また一言言って、また間を置く。その間の使い方が、ナギには心地よかった。前の世界でも、無駄に喋る人間が苦手だった。言葉は、必要な時に、必要な量だけあればいい。

「王都の外縁に採掘場は七つある」とゴズは言った。

「どこから来た」

「西の山だ」

「ガロイ採掘場か。あそこは特に劣悪だと聞く」

「そうだったかもしれない。比べる基準がない」

 ゴズが小さく笑った。皺が、さらに深くなった。

「Sランクは何人いる」

 ナギが聞いた。唐突な質問だったかもしれない。ゴズは驚かなかった。

「七人だ」とゴズは答えた。

「七人が、この国の頂点にいる。上層区——城壁の最も内側に住んでいる。Fランクが足を踏み入れれば、その日のうちに消える」

「消える、とは」

「消える、だ」

 ゴズは空を見た。ナギも空を見た。同じ空だった。

「名前も、記録も、残らない。Fランクが消えても、誰も探さない。それがこの世界のルールだ。これまでSランクに近づこうとした者が何人もいた——全員、消えた」

「何人だ」

「俺が知っているだけで、十二人だ。知らない者はもっといるだろう」

 ナギは少し考えた。

「俺が消えても、誰も探さない」

「そうだ」

「なら同じだ」

 ゴズがまた笑った。今度は少し、違う笑い方だった。面白がっているのではなく——懐かしんでいるような笑い方だった。何かを、思い出しているような。

「お前は何をしに来た」

「わからない」

「わからないのに来たのか」

「目的は歩きながら彫ると決めた」

「面白い言い方だ」

「経験談だ」

 しばらく、沈黙があった。

 路地の奥で、子どもが走っている声がした。Fランクの子どもだろう。この場所で生まれて、この場所で育って、この場所で死ぬのだろう。それが当たり前の世界だった。

「ナギ」とゴズが言った。「一つだけ、教えておく」

「聞く」

「噂は、武器にも枷にもなる」

 ナギはゴズを見た。

「今はまだ意味がわからんかもしれん」ゴズは続けた。

「でも——そのうちわかる。お前のような目をした者は、必ず噂を作る。作るつもりがなくても、作られる」

 ナギは何も言わなかった。

 わからなかった、というより——答える言葉が、まだなかった。



 夜になった。

 スラム街の外縁で、声がした。

 路地の入り口に、Cランクの男たちが三人、立っていた。体格がいい。腰に武器を帯びている。その前に、Fランクの老婆と、若い女が立っていた。

「ここは俺たちの土地になった。出て行け」

 男の一人が言った。感情のない声だった。

 老婆が何か言った。聞こえなかったが、懇願しているのはわかった。

 男は聞かなかった。

 ナギは路地の影から、それを見ていた。

 動く理由はなかった。

 自分には関係がない。この世界で毎日起きていることだ。Fランクに法的な権利はない。抵抗すれば罪になるのはFランクの側だ。ここで動くことの利益と損失を計算すれば——動かないほうが合理的だった。

 体が、動いた。

 計算より、先に。

 理由を後から探した。生きるための資金が必要だった——それは本当だ。Cランクから技術と概念を奪えば、しばらく凌げる——それも本当だ。

 でも。

 体が動いたのは、計算より先だった。

 その事実を、ナギは胸の奥に、静かに仕舞った。



 路地に入った。

 三人の男たちが振り返った。

 Fの刻印を見て、笑った。笑い終わる前に——ナギは動いていた。

 最初の男の肩を掴んだ。剣術の記憶を、根こそぎ奪った。男が剣を抜こうとして、抜き方を忘れた。

 二人目が飛んできた。素早かった。ナギは正面から受けて、接触した瞬間に「判断力」を奪った。男が動きを止めた。何をしようとしていたのか、わからなくなった顔をしていた。

 三人目が逃げた。

 二歩追いかけて、肩を叩いた。「足の速さ」を奪った。男がその場に崩れた。走れなくなった、ではない。走ろうとする意志が、消えた。

 静かだった。

 血は出なかった。声もなかった。

 三人が地面に座り込んでいた。ナギは三人を見て、それから老婆と若い女を見た。二人が、石のように固まっていた。

 ナギは何も言わなかった。

 振り返って、路地を出た。




 翌朝。

 ゴズの隣に座って、黒パンを食べていると——噂が来た。

「昨夜、Cランクが三人やられたらしい」

「Fランクにか」

「刻印を確認した者がいる。確かにFだったと」

「嘘だろう」

「見た者が三人いる。老婆と、若い女と、路地の奥にいた男だ」

 ナギは黙って、パンを食べ続けた。

 ゴズが横目でナギを見た。

「お前がやったか」

「さあ」

「嘘が下手だな」

「嘘をついた覚えはない」

 ゴズが小さく笑った。それから、真顔になった。笑いが消えた後の顔が、少しだけ——寂しそうだった。

「噂は広がる」

「止められない。お前がどう思おうと——世界は、お前を認識し始める」

 ナギは空を見た。

 噂とは、記憶の伝染だ。一人が見て、一人が語り、また一人が聞く。やがてそれは形を変えながら広がって——最初に見た者の記憶とは、似ても似つかないものになる。

 でも核だけは、残る。

 Fランクが、Cを倒した。

 その事実だけは——どこに伝わっても、消えなかった。

「武器か枷か」

 ゴズが目を細めた。

「昨日の話を、覚えていたか」

「聞いたことは忘れない」

 ゴズはしばらく、ナギを見た。それから、また空を見た。

「どちらになるかは——お前次第だ」

 ナギは答えなかった。

 パンを食べ終えた。

 立ち上がった。

「明日も来るか」とゴズが聞いた。

「さあ」

「また嘘が下手だ」

 ナギは何も言わなかった。

 路地を歩き出した。

 後ろでゴズが、また低く笑うのが聞こえた。



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