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第7話「変わらない。だから俺が変わる」



  逃げる者と追う者の違いは、速さではない。

 方向だ。

 逃げる者は後ろを見る。追う者は前を見る。ナギはどちらでもなかった。ただ——歩いていた。目的地のない足取りで、でも迷いのない歩幅で。街道の石畳が、足の裏に固かった。

 追手が来ることは、わかっていた。

 Cランクの貴族を倒した。概念を奪った。採掘場から姿を消した。それだけの事実があれば、夜明けまでには誰かが動く。急ぐべきだろう、と思考の片隅が言った。

 急がなかった。

 急いでも意味がないことを——計算で、知っていた。

 追われることと、追いつかれることは、別の話だ。



  日が落ちる前に、街道を外れた。

 森の中に入った。人の気配がない。獣の気配は、ある。それでいい。獣はナギを見て、ランクを笑わない。

 火は起こさなかった。煙が目印になる。

 木の根元に背を預けて、目を閉じた。

 眠れると思っていた。

 眠れなかった。



  頭の中が、賑やかだった。

 静かであるべき場所に、他人の人生が住み着いていた。ガデルの道場が燃えている。護衛の男が剣を握り直している。ドルグ=ヴァセルが子どもの顔で父親に抱きしめられている。喜びも、痛みも、誇りも、恐怖も——全部、他人のものだった。

 ナギ自身のものは、何もなかった。

 器だけがある。中身は、全て他人のものだ。

 それでいい、と思った。

 本当に——それでいいのか、とも思った。

 二つの答えが、暗い森の中で静かに対峙した。どちらが正しいかは、わからなかった。わからないまま、ナギは目を開けた。木々の隙間から、星が見えた。前の世界でも星を見たことがある。夜勤の帰り道、誰もいない駐車場で、ただ上を向いていた。あの時と同じ星だろうか。違う世界の星だから、違う星のはずだ。

 でも——同じに見えた。

 それが何を意味するのか、ナギにはわからなかった。



  不意に、ウルロワの顔が浮かんだ。

 奪った記憶の中に、ウルロワはいない。当然だ。奪っていないのだから。頭の中に住み着いた他人の人生の中に、ウルロワの欠片は一つもない。

 なのに。

 目を閉じると、笑顔があった。

 採掘場で振り返った時の顔。処罰の夜、眠れなかった夜の寝息。ナギを見て「絶対逃げ出せる」と言った時の、荷台の中の声。

 奪った記憶ではなかった。

 ナギ自身の——記憶だった。

 人は感情が動いた瞬間を、記憶する。記憶とは感情の痕跡だ。痕跡がなければ、時間は素通りしていく。ナギの三十一年間がそうだったように。前の世界での日々は、ほとんど残っていない。誰の顔も、どんな声も——霧の中にある。

 なのにウルロワの顔だけが、鮮明だった。

 ナギはその事実を——長い時間、見つめた。

 ならばナギが、ウルロワの顔を鮮明に覚えていることは。

 何を、意味するのか。

 その問いを、胸の奥に沈めた。答えが出るまで、開けない場所に。鍵をかけた。鍵の在処を、覚えておいた。

 目を開けた。

 森が、静かだった。

 それだけだった。




  夜明け前。

 川の音がした。近い。

 立ち上がって、音を辿った。細い川だった。膝丈ほどの深さで、水が冷たかった。両手で掬って、飲んだ。味がした。採掘場の濁った水とは違う、土と草の味がした。

 水面に、顔が映った。

 見知らぬ顔だった——と、一瞬思った。次の瞬間、自分の顔だと気づいた。この世界に来てから、まともに自分の顔を見ていなかった。頬が削げている。目の下に、影がある。唇が乾いている。

 右手首が、水面に映った。

 黒い刻印が、水の中にあった。

 F。

 ナギはそれを——長い時間、見た。

 動かなかった。流れる水が刻印を歪めて、また戻した。歪めて、また戻した。何度繰り返しても、刻印は消えなかった。当然だ。水の中の像が揺れても、現実は揺れない。

 Fとは何か。

 神が定めた価値だ、とドルグは信じていた。生まれた瞬間に決まる、絶対の格付けだ、とこの世界は言う。Sが頂点で、Fが底だ。それは変わらない。変えられない。変えようとした者が、かつていたとしても——今のナギには知る術がない。

 ならばナギは。

 生まれた瞬間から、この価値だったのか。

 前の世界でも。

 この世界でも。

 どこに行っても、何をしても——底辺が、俺の居場所なのか。



  水面を、見続けた。

 答えを、探した。

 見つからなかった——と思った瞬間、見つかった。

 答えは最初から、そこにあった。ただナギが、問いの立て方を間違えていただけだった。

 Fは、変わらない。

 それはわかった。認めよう。この刻印は、消えない。どれだけ奪っても、どれだけ超えても——体に刻まれた文字は、変わらない。それがこの世界のルールだ。ルールは、個人が変えられるものではない。

 だが。

 刻印が変わらないことと——俺が変わらないことは、別の話だ。

 ランクが俺を決めるなら。

 俺がランクを、超えればいい。

 超えた先に何があるのかは、まだわからない。頂点を壊した後に何が残るのかも、見えない。目的と呼ぶには、まだ輪郭が曖昧だった。

 それでいい。

 輪郭など——歩きながら、彫ればいい。


 


  ナギは立ち上がった。

 水面のFが、揺れた。

 気にしなかった。

 王都の方角を確認した。太陽が昇り始めていた。東の空が白くなっていた。鳥が鳴いた。どこかで、遠く。

 歩き出した。

 目的ができた者の歩き方は、変わる。

 速くなるのではない。重くなるのでもない。ただ——迷いが、消える。

 ナギの足は、もう止まらなかった。

 Fの刻印を右手首に刻んだまま、夜明けの道を、一人で歩いた。誰も見ていなかった。それでよかった。

 見ていてほしい誰かが——まだ、いなかったから。

 いつかできるのかどうかも、今はわからない。

 ただ。

 ウルロワの笑顔が——鮮明なまま、胸の奥にあった。鍵をかけた場所の、そのすぐ隣に。

 ナギは空を見た。

 広かった。

 採掘場の切り取られた空ではない。どこまでも続く、本物の空だった。Fランクにも、Sランクにも、等しく広がっている空だった。

 ランクが違っても——空だけは、同じだった。

 それが何かを意味するのかどうか、ナギにはまだわからなかった。

 わからないまま、歩き続けた。

 それでよかった。

 今は——それで、十分だった。

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