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第6話「正しい世界の、正しい暴力」

 


 支配者が訪れる前、支配される側は必ず気づく。

 言葉ではない。空気が変わる。皮膚が、先に知る。——長く檻の中にいる者ほど、その感覚が鋭くなる。恐怖が研いだ、獣の本能だ。

 朝の作業が始まる前から、採掘場の空気は違った。

 監督が小屋の掃除を命じた。岩屑を払い、藁を整えさせた。Fランクの顔を一人ずつ確認して、「余計なことをするな」と繰り返した。その声に、いつもない緊張が混じっていた。

 ナギはそれを聞きながら、自分の手を見た。

 余計なこと、とは何か。

 この場所で、Fランクにできる余計なことなど——そもそも、あるのか。



 Cランクの貴族が採掘場に入ってきたのは、昼を少し過ぎた頃だった。

 ドルグ=ヴァセル。

 四十代の、温厚そうな顔をした男だった。上等な外套を着ている。腹が少し出ていた。護衛を三人連れていた。その護衛たちの体格を、ナギは一瞥して記憶した。

 ドルグは採掘場を歩きながら、Fランクたちを眺めた。

 その目が——ナギには、よくわかった。

 哀れみではない。蔑みでもない。物品を確認する目だ。在庫が適切に管理されているかどうかを確かめる、倉庫番の目だ。そこに感情はなかった。あるのはただ、管理者としての責任感だけだった。

 善意ほど、始末に負えないものはない。

 悪意には隙がある。怒りは判断を鈍らせる。憎しみは相手の存在を必要とする。しかし善意は——自分が正しいと信じている。正しい者は、立ち止まらない。

 ドルグは立ち止まった。

 ナギの前で。


 目が合った。

 ドルグの表情が、わずかに変わった。温厚な顔の奥に、何か別のものが見えた。不快感だ、とナギは判断した。Fランクの目ではない、と思ったのだろう。

 お前とドルグは言った。「跪け」

 ナギは——考えた。

 0.5秒だった。

 跪く理由を探した。見つからなかった。恐怖がないのではない。ただ——恐怖は、行動を決める理由にはならないと、ナギは知っていた。行動を決めるのは、常に計算だ。

 計算の結果は——跪かない、だった。

 ドルグの目が、細くなった。

「……跪かないのか」

 ナギは答えなかった。

 ドルグは少しの間、ナギを見た。それから、静かに振り返った。護衛のうちの一人に、視線を向けた。

「壊せ」

 温厚な声だった。感情のない、事務的な命令だった。

 護衛三人が、動いた。


 最初に動いたのは、右側の男だった。

 体格がいい。Dランクの刻印。腰の剣を抜くのが早かった。訓練されている。剣の柄の握り方が、実戦を経た者のそれだった。

 ナギはその剣が鞘から抜けきる前に——動いた。

 一歩。

 たった一歩、男の懐に踏み込んだ。

 距離がなくなった瞬間、男の剣は使えなくなる。長物は近距離で死ぬ。それはガデルから奪った剣術記憶が、ナギに教えていた。

 男が剣を使おうとした。

 ナギは男の手首を掴んだ。

 引っ張った。

 音はなかった。ただ——男の目が、一瞬、虚ろになった。

 剣術の記憶が、根こそぎ抜けた。

 男は剣を握ったまま、その剣の使い方を忘れた。筋肉は覚えている。しかし脳が、命令を出せなくなった。腕が、ぎこちなく止まった。

 ナギは男の剣を、静かに取り上げた。

 奪った記憶の中にある握り方で、握った。

 ぴたりと、手に馴染んだ。


 二人目が来た。

 左から。斜め上から斬り下ろす軌道。速かった。三人の中で一番速い。

 ナギは避けなかった。

 剣を受けた——いや、正確には、受け流した。ガデルから奪った技術が、ナギの体を動かした。自分の意志ではなかった。記憶が、体に染み込んでいた。最小の動きで刃の軌道を逸らして、その流れのまま男の体側に入り込む。

 接触した瞬間に、奪った。

 今度は技術だけではなかった。「速さ」という概念を——根こそぎ。

 男が、急に鈍くなった。走れない、ではない。走るという動作が、何故か重くなった。体は動く。ただ、動きが水の中にいるように遅くなった。男は自分の体を見て、何が起きたかわからない顔をしていた。


 三人目は、止まっていた。

 動かなかった。動けなかったのではなく——動かなかった。二人がどうなったかを見て、この男は計算したのだ。ナギと同じように。

 賢い、とナギは思った。

 賢い者は、戦う前に逃げる判断ができる。それは弱さではない。

 しかし。

 ナギは三人目の男を見た。

 男は剣を構えたまま、動かなかった。逃げると決断したのに、足が動かなかった。Cランクの貴族の前で、Fランクに怯えて退くことが——できなかったのだろう。

 プライドが、命より重い生き物が、人間だ。

 ナギは男の前まで歩いた。

 剣を向けられていた。切っ先が、わずかに震えていた。

 ナギは構わず、男の肩に手を置いた。

 奪った。

「戦意」という概念を。

 男の剣が、ゆっくりと下がった。戦う理由が、消えた。敵がいる。危険がある。それはわかる。ただ——戦わなければという衝動が、完全に消えていた。男はぼんやりとした顔で、ナギを見た。まるで、初めて会う知人を見るような顔だった。

 三人が、終わった。

 経過時間は——おそらく、三十秒もなかった。


 静寂だった。

 採掘場が、静まり返っていた。

 Fランクたちが動きを止めていた。監督が帳簿を落としていた。ドルグが、一歩後退りしていた。温厚な顔から、血の気が引いていた。

「な……なぜ、Fランクが……」

 ナギはドルグを見た。

 何も言わなかった。

 ただ、右手首を持ち上げた。刻印が見えるように。黒い、F の文字が。

 ドルグの目が、刻印と、ナギの顔を行き来した。理解できない、という顔だった。ランクとは神が定めた秩序だ。Fランクがこんなことをできるはずがない。この男の信じる世界では、あってはならないことが、今、目の前で起きていた。

 世界の秩序が、Fランク一人に、音もなく覆された瞬間だった。

 ナギはドルグに近づいた。

 ドルグが後退りした。護衛を呼ぼうとした——護衛は、もういなかった。三人とも、地面に座り込んでいた。

「な、なんのつもりだ。私はCランクだぞ。お前がこんなことをすれば——」

 ナギは聞いていなかった。

 ドルグの胸に、手を当てた。

 そこにある概念を——探した。

 あった。

「権力への確信」。

 この男の中心にある、最も根深いもの。自分が正しい側にいるという確信。支配することが善であるという信念。それが、この男を支えていた柱だった。

 引っ張った。


 音はなかった。

 血も出なかった。

 ただ——ドルグ=ヴァセルの目から、光が消えた。

 膝から、崩れた。

 地面に手をついて、自分の手を見た。何かを忘れた気がする、と顔が言っていた。何を忘れたのかも、わからないまま。自分がなぜここにいるのか。何をしようとしていたのか。採掘場がなぜあるのか。Fランクが何なのか。

 全部——ある。記憶はある。

 ただ、それを「正しい」と感じる感覚だけが、根こそぎなくなっていた。

 人間から概念を奪うことは、剣で斬るより静かだった。音もなく、血もなく——ただ、その人間の中にあった「確かさ」が、消えた。ドルグ=ヴァセルは膝をついたまま、自分の手を見ていた。Cランクの刻印が、そこにあった。それが何を意味するのか——もう、わからなかった。


 ナギはドルグを見下ろした。

 長くは見なかった。

「ランクは、変わっていない」

 それだけ言った。

 ドルグのためではなかった。自分への確認だった。F の刻印は、今もある。何も変わっていない。変えたのは——ここにいる理由だけだ。

 ナギは背を向けた。

 採掘場を歩いた。

 誰も動かなかった。監督が石になったように立っていた。Fランクたちが、息を飲んでいた。

 ウルロワが、いた。

 人垣の隙間から、ナギを見ていた。膝に昨日の傷がある。目が赤かった。泣いていたのか、それとも眠れていなかったのか——わからなかった。

 でも。

 笑っていた。

 消えた笑顔が、戻っていた。

 ナギはウルロワを見た。

 それから、視線を切って、歩き続けた。


 採掘場の出口を抜けた。

 誰も追ってこなかった。

 空が、広かった。

 採掘場の中から見える切り取られた空ではなく——どこまでも続く、本物の空だった。ナギはそれをしばらく見た。感慨はなかった。ただ、広い、と思った。

 Fの刻印は、変わらなかった。

 これからも変わらないだろう。

 ただ——変わったものが、一つあった。ナギの中に、今日初めて生まれたものが。

 それを目的と呼ぶには、まだ小さすぎた。

 名前をつけるには、まだ早すぎた。

 でも確かに——そこにあった。

 ナギは王都の方角を見た。

 歩き出した。

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