第5話「笑うな。笑うと、死ぬから」
これは理不尽の話ではない。
理不尽とは、正しい秩序が歪んだ時に生まれる言葉だ。最初から秩序が間違っているなら——それはただの、日常だ。
ナギはそう理解していた。
理解することと、受け入れることは、違う。でも今のナギには、その違いを考える場所が、まだなかった。
小屋は、静かだった。
誰も喋らなかった。全員が「見せしめ」という言葉の意味を理解していた。理解した上で、目を逸らしていた。見なければ、存在しないのと同じだ。そういう生き方を、ここにいる全員が、既に覚えていた。
ナギだけが、目を逸らさなかった。
監督の視線が止まった場所を——ウルロワを——ただ、見ていた。
ウルロワは眠っていた。藁の上で膝を抱えて、規則正しく呼吸している。昨日の作業でついた膝の傷が、薄暗い中でも見えた。手当てはされていない。この場所に、Fランクの傷を治す薬などない。
眠れる、ということは——まだ知らないのだろう。
ナギは天井を見た。
染みが、七つあった。
夜明けとともに、作業が始まった。
ウルロワがナギの隣にやってきたのは、籠に岩を詰め始めてすぐのことだった。足音がない。気づいたら、いる。この子どもの習慣だった。
「おはようございます」
ナギは答えなかった。
「今日、なんか寒いですね」
「そうだな」
ウルロワはいつも通りだった。少しだけ笑っている。昨夜のことを知らない様子だった——いや、違う。知らないのではなく、知った上で笑っているのかもしれない。この子どものことは、まだよくわからなかった。
ナギは岩を砕きながら、横目でウルロワを見た。
笑うな、と思った。
根拠はない。論理もない。ただ——この場所で笑顔を持つことは、刃の上で眠るに等しい、とナギは何故か確信していた。支配する側の人間は、折れない者を見つけた時、必ず折ろうとする。それは悪意ではなく、本能だ。ウルロワの笑顔は、あまりにも——目立つ。
「ナギさん」
「なんだ」
「昨日より顔色悪いですよ」
「眠れなかった」
「また夢でも見たんですか」
ナギは少し考えた。
「夢ではない」
「じゃあ何ですか」
「他人の人生だ」
ウルロワは意味がわからない顔をした。それでいい、とナギは思った。説明する気はなかった。ウルロワが理解できないことは、ウルロワに関係がない。
ただ——
ウルロワが笑うたびに、頭の中のどこかが、わずかに軋んだ。
その感覚の名前を、ナギはまだ知らなかった。
昼前だった。
監督が作業を止めた。
全員が手を止めて、並ばされた。理由の説明はなかった。説明が必要だと、この男は思っていないのだろう。監督は帳簿を持ったまま、一人ずつ顔を見て歩いた。
ナギはその目を、正面から観察した。
品定めではなかった。
計算していた。
誰を傷つければ、残りが最も従順になるか。どの痛みが、最も効率的に恐怖を生むか。この男の目は、そういう計算をする目だった。感情がない。悪意もない。あるのはただ、管理者としての合理性だけだ。
それが——最も、始末に負えない。
怒りのある人間は、隙を持つ。しかしこの男には、怒りすらなかった。
監督の視線が、ゆっくりと動いた。
老人を過ぎ。中年の女を過ぎ。若い男たちを過ぎ——
ウルロワのところで、止まった。
ウルロワは怯えなかった。
真っ直ぐに、監督を見返した。子どもの目で、臆することなく。
それが——決定打になった。
怯えない者を折ることに、支配者は特別な喜びを見出す。これは悪意ではない。本能だ。強者が弱者に刻む、証明の儀式。あの男はただ——自分が強者であることを、確認したかっただけなのかもしれない。
ナギの手が、わずかに動いた。
動いて——止まった。
計算が、感情より先に終わっていた。今動けば、全員が死ぬ。ナギ一人ならばどうとでもなる。しかし七人の中で動けば、口封じとして全員が処分される。この場所はそういう場所だ。採掘場の奥で何人消えても、誰も気づかない。
止まるしかなかった。
論理的に、正しい判断だった。
それでも——止まった手が、ひどく重かった。
処罰が執行されたのは、午後の作業が始まってすぐだった。
場所は採掘場の中央。全員が見える場所を、監督は選んだ。見せしめとは、見る者がいなければ意味をなさない。
ナギは動かなかった。
動かないことを、選んだ。
ウルロワは声を上げた。痛みで。一度だけ。
それから——黙った。
泣かなかった。地面を睨んで、唇を噛んで、黙り続けた。処罰が終わるまで、一度も声を上げなかった。
そしてナギのほうを、見た。
目が合った。
ウルロワは——笑わなかった。
初めてだった。
出会ってから今日まで、どんな時でも笑っていたウルロワが、笑わなかった。笑えなかったのか、笑わなかったのか、ナギには判断できなかった。
ただ、その顔を見た瞬間——
胸の中の、どこか遠い場所で、何かが音を立てた。
感情ではない。感情が死んでいることは、ナギ自身がよく知っている。ならばあれは何だったのか。壊れた器の中に残った、最後の欠片が——ひびを入れた音、だったのかもしれない。
ナギはその音を、聞かなかったことにしようとした。
できなかった。
夜。
小屋の中は静かだった。
他の者たちはいつの間にか眠っていた。疲労が、恐怖より勝ったのだろう。あるいは——考えることをやめたのかもしれない。考えなければ、楽になる。それもまた、生き延びるための技術だ。
ウルロワは眠っていなかった。
藁の上で横になったまま、天井を見ていた。ナギと同じ姿勢で。ナギと同じ方向を向いて。
二人とも、何も言わなかった。
言葉が必要な夜ではなかった。
しばらくして、ウルロワの呼吸が変わった。眠ったのだろう。いつもより浅い、静かな寝息だった。笑っていなかった。眠りの中でも、いつもの表情ではなかった。
ナギはその寝顔を、一秒だけ見た。
それから、天井に視線を戻した。
監督の「恐怖を与える能力」を奪うことは、できる。あの男から「支配する快感」を剥奪することも、技術的には可能だろう。しかし——それをした瞬間、全員の立場が変わる。Fランクが監督に何かをしたと知れれば、もっと上の者が来る。もっと手に負えない者が。
まだ早い。
準備が、まだできていない。
ナギは自分の右手を見た。暗くてよく見えなかった。それでも、そこに刻印があることはわかった。F。変わらない、黒い刻印。
怒りというものを、ナギは知らない。
知らないはずだった。
ならば今——この胸の底で、静かに、確かに燃えているものは。
何と呼べばいいのか。
名前がわからないなら、使えばいい。
ナギは目を閉じた。
明日のことを、初めて——考えた。
ウルロワの寝息が、暗い小屋の中で続いていた。




