第4話「他人の人生」
眠れなかった。
原因はわかっていた。
頭の中で、誰かが剣を振り続けていた。見知らぬ道場。見知らぬ少年。見知らぬ師匠の怒鳴り声。ナギが望んでいなくても、ガデルから奪った記憶が勝手に再生される。止めようとすると、余計に鮮明になった。
他人の十年が、ナギの頭の中に住み着いていた。
仰向けのまま、ナギは天井の染みを数えた。七つ。昨日も七つだった。
道場の映像が、また流れた。
少年が転んだ。泥だらけの手で木剣を握り直す。師匠が何かを怒鳴る。少年は泣かなかった。泣いたら終わりだと、どこかで知っていたのだろう。唇を噛んで、また立った。また振った。
ナギはその映像を、感情なく眺めた。
関係ない、と思った。
これはガデルの人生であって、ナギの人生ではない。奪ったのは技術だ。記憶は副産物にすぎない。必要ないなら、捨てればいい。
捨てようとした。
できなかった。
少年が、また転んだ。
夜明けとともに、作業が始まった。
ナギはつるはしを握り、岩壁に向かった。腕の筋肉の使い方は、もう体が覚えていた。考えなくても動く。それがかえって、余計なことを考える時間を生んだ。
奪えるものが、技術と記憶だけなのかどうか。
昨夜からずっと、それが引っかかっていた。
ガデルの剣術を奪った時、同時に「剣を握るという行為に紐づいた感覚」ごと消えていた。技術だけでなく、もっと根本的な何かが——
ナギはつるはしを置いて、足元の小石を一つ拾った。
監視の目が届かない角度を確認してから、石を両手で包んだ。
目を閉じた。
能力を、意図的に使おうとした。
最初は何も起きなかった。感覚としては、暗い水の底に手を伸ばすような感じだった。何もない。何もない。何も——
触れた。
何かに。
石の中にある、固有の何かに。
引っ張った。
音はなかった。ただ、手の中の石が、さらさらと砂になって指の間からこぼれ落ちた。
ナギは手のひらに残った砂を見た。
奪えた。
硬度、という概念を。石から。
次に、別の石を拾った。今度は「重さ」を狙った。同じように手で包んで、引っ張った。石が、羽のように軽くなった。指で弾くと、ふわりと宙に浮いて、ゆっくりと落ちた。
ナギはそれを無表情で見届けた。
技術だけではない。概念そのものを、奪える。
ならば——人間から奪えるものは、剣術だけではないということだ。
その事実を、ナギは胸の中のどこかに静かに収めた。感情は動かなかった。ただ、道具箱に新しい道具が増えた、それだけの話だった。
つるはしを、また握った。
昼の休憩は、三十分だった。
ナギは小屋の壁に背を預けて、配給の黒パンを食べた。硬かった。味はなかった。食べなければ動けないから、食べた。それだけだった。
「ナギさん」
声がした。
いつの間にいたのか、わからなかった。この子どもは足音がない。荷馬車の中でも、気づいたら隣にいた。
ナギは返事をしなかった。
「ナギさんって、名前なんですか」
「そうだ」
「俺、ウルロワっていいます」
ナギはパンをかじりながら、横目でウルロワを見た。膝に傷がある。今日の作業でついたものだろう。籠を運ぶには体が小さすぎる。それでも文句を言わず働いていたのを、ナギは遠くから見ていた。
知ってると、ナギは言った。
「え、知ってたんですか」
「最初から」
ウルロワは少し驚いた顔をして、それからまた笑った。この子どもはよく笑う。この場所で、なぜそんな顔ができるのか、ナギには相変わらず理解できなかった。
「ナギさん、昨日から手をよく見てますね」
「……そうか」
「何かあったんですか」
「ない」
ウルロワはそれ以上聞かなかった。賢い子どもだ、とナギは思った。聞いてはいけないことを、どこかで知っている。
しばらく、二人とも黙っていた。
遠くで岩を砕く音がしていた。休憩中も働かされている者がいるのだろう。
ナギさんはとウルロワが言った。「ここから出られると思いますか」
ナギは少し考えた。
「出る」
思いますか、ではなく、出る。
ウルロワが目を丸くした。
「断言するんですね」
「出ない理由がない」
「でも、Fランクですよ。俺たち」
「関係ない」
ウルロワはナギの横顔をしばらく見ていた。それから、小さく「そっか」と言った。
その声が、いつもより少しだけ柔らかかった気がした。気のせいかもしれなかった。
休憩の終わりを告げる鐘が、遠くで鳴った。
夜になった。
また、眠れなかった。
今夜は道場の映像だけではなかった。別の記憶が混じっていた。
暗い部屋。安い蝋燭の灯り。痩せた男と、小さな男の子。男の子は泥だらけで、肩で息をしている。男が男の子の頭を、震える手で撫でていた。
泣いていた。男が。
声を殺しながら、泣いていた。
男の子の手首には、刻印があった。Dランクの刻印だった。
男は嗚咽の合間に、繰り返し同じ言葉を言っていた。
——よかった。よかった。Eじゃなくて、よかった。
ナギはその映像が、ガデルの記憶だと気づくのに少し時間がかかった。
あの男の、幼い頃の記憶だった。
泣いていた父親は、Eランクだったのだろう。息子がDランクで生まれたことを、心の底から喜んでいた。DはEより上だ。Eより、ましな人生が送れる。それだけで、あれほど泣けるほど、喜べるのだ。
映像の中のガデルは、父親に抱きしめられながら、きょとんとした顔をしていた。まだ幼すぎて、意味がわかっていないのだろう。
ナギはその映像を、感情なく眺めた。
関係ない、と思った。
あの男が後に何者になろうと、ナギには関係ない。Fランクを殴り続けた男の過去に、同情する理由はない。
関係ない。
関係ない。
関係——
映像が、止まらなかった。
父親の嗚咽が、頭の中でいつまでも続いた。Dランクで生まれただけで、あれほど泣いて喜ばれる世界。Eランクというだけで、息子の刻印に怯え続けた父親。
ランクが、全てを決める世界。
ナギは目を閉じた。
胸の中のどこかが、わずかに重くなった気がした。
感情ではないと思った。
ただの、疲労だと思った。
——本当に、そうなのかどうかは、わからなかった。
夜が明ける直前、小屋の扉が開いた。
監督だった。帳簿を持った、あの目の細い男だ。
全員の顔を見回して、男は言った。
「今日から、お前たちには見せしめが必要だ」
静かな声だった。感情のない声だった。
ナギはその言葉を聞いた瞬間、半身を起こした。
男の視線が、ゆっくりと動いた。
一人ずつ、顔をなめるように確認して——
ウルロワのところで、止まった。
ナギは男の目を見た。
決まった、とわかった。理由はわからない。体が小さいから目立つのか、それとも別の何かか。どちらでもよかった。
どちらでも——
ナギの手が、藁の上でわずかに動いた。
それだけだった。
表情は、変わらなかった。




