第3話 「奪うという、本能」
採掘場は、山の腹を切り開いた場所にあった。
周囲を断崖に囲まれ、出入り口は一つだけ。空は頭上に切り取られたように狭く、昼でも薄暗い。岩を削る音が絶えず響いていて、それが何時間も続くと、音ではなく圧力として感じるようになった。
ナギたちが到着したのは夜明け前だった。
荷台から降ろされ、そのまま石造りの小屋に押し込まれた。寝台はない。藁が敷かれているだけだ。毛布は一人に一枚。食事は翌朝まで出なかった。
翌朝、監視の兵士が来た。
Dランクの刻印を持つ、三人の男たちだった。体格がいい。腰に剣を帯びている。その剣が、装飾品ではないことはすぐにわかった。柄の握りが、使い込まれて黒ずんでいた。
「Fが七人か」
先頭の男——ガデルが、ナギたちを眺めた。値踏みというより、品質確認だった。使えるかどうかではなく、どれだけ使えるかを見ている目だった。
「いいか、ルールは一つだ」
ガデルは人差し指を立てた。
「俺の言うことを聞け。以上だ」
誰も何も言わなかった。
仕事は単純だった。
つるはしで岩壁を砕き、砕いた岩を籠に詰め、籠を運ぶ。それを繰り返す。休憩は昼に一度、三十分だけ。水は飲めるが、飲みすぎると怠けていると見なされた。
ナギは黙々と働いた。
きつかった。体が、この世界の肉体に慣れていなかった。筋肉の使い方がわからず、すぐに腕が上がらなくなった。それでも止まらなかった。止まったら何が起きるかは、初日の午前中で理解していた。
隣で働いていた中年の男が、少し手を止めた。それだけだった。
ガデルの部下が飛んできて、男の背を蹴った。
男は倒れて、また立ち上がって、また働いた。
声は出なかった。声を出す体力すら、惜しいのだろう。
ナギはそれを見て、また岩を砕いた。
七日が過ぎた。
ナギの体は、少しずつ慣れてきた。筋肉の使い方を覚えた。水の飲み方を覚えた。ガデルの機嫌の波を覚えた。
機嫌が悪い日は、理由がなくても誰かが殴られた。
当たらないようにするには、目立たないことと、目立ちすぎないことの両方が必要だった。完全に存在を消すのではなく、風景の一部になること。前の世界での夜勤で覚えた技術が、ここでも役に立った。
ただ一つ、誤算があった。
ガデルが、ナギに目をつけていた。
理由はわからなかった。仕事をさぼっているわけではない。口答えもしていない。ただ、ガデルはナギを見る時だけ、表情が変わった。不快そうに、眉根を寄せた。
後で同じ小屋の男から聞いた話では、ガデルはこう言っていたらしい。
——Fランクにしては、目が気に入らない。
なるほど、とナギは思った。感情のない目が、気に食わないのだ。怯えるべき者が怯えていないことが、気に食わないのだ。それはつまり、時間の問題だということだ。
十日目の夜だった。
採掘場の作業が終わり、ナギが小屋へ戻ろうとした時、後ろから肩を掴まれた。
「お前だ」
振り返ると、ガデルが立っていた。一人だった。他の二人の部下は、先に戻ったらしい。
ナギは無言でガデルを見た。
「その目だ」とガデルは言った。「その目が気に入らない」
ナギは何も言わなかった。
ガデルの右手が動いた。
剣ではなかった。拳だった。腹に、重い一撃が入った。ナギは声を出さずに膝をついた。内臓が押しつぶされたような感覚があった。
「Fランクのくせに、俺を見るな」
また拳が来た。今度は頬だった。視界が歪んだ。口の中に血の味がした。
「わかったか」
ナギは地面に手をついた。立ち上がれるかどうか、確認した。立ち上がれた。
ガデルは驚いたように眉を上げた。立てないと思っていたのだろう。
「……まだ立つか」
三発目が来た。今度は、ナギは避けなかった。避ける体力を温存することを選んだ。頭を腕でかばいながら、受けた。
四発目。
五発目。
六発目——
その時だった。
何かが、動いた。
ナギの内側で。
感覚としては、糸が切れるに近かった。体の奥底に張り詰めていた何かが、音もなく緩んで——外へ向かって、伸びた。
ガデルの拳が、ナギの腕に触れた瞬間。
何かが、流れ込んできた。
映像だった。
暗い道場。木剣を握る少年。怒鳴り声の師匠。何度も転んで、何度も立って。汗と泥にまみれた手が、少しずつ剣の柄の握り方を覚えていく。朝から晩まで、何年も何年も——
一瞬だった。
ナギの頭の中を、一瞬で駆け抜けた。
同時に、ガデルの動きが変わった。
いや、正確には——止まった。
追撃のために振り上げられていたガデルの右腕が、中途半端な位置で停止した。ガデルが自分の腕を見た。困惑した顔だった。
「……な、んだ」
ガデルは腕を動かそうとした。動かなかった。
剣を握ろうとした。握れなかった。
手の動かし方を、忘れていた。
ナギは地面に座ったまま、自分の両手を見た。
震えていなかった。
頭の中に、まだ映像の残像があった。道場。少年。剣。 何千回も繰り返された素振りの記憶。他人の、十年分の記憶が、ナギの中に収まっていた。
奪った。
そう理解した。
どうやって奪ったかは、わからなかった。意図したわけでもなかった。ただ、限界を超えた瞬間に、体が勝手にやっていた。
本能、という言葉が頭に浮かんだ。
腹が減れば食べるように。痛ければ避けるように。
ナギは——奪う生き物なのかもしれない。
「な、なんだお前……何をした……」
ガデルが後退りしていた。右腕をぶらぶらとさせながら、ナギを見ている。顔から色が消えていた。恐怖だ、とナギは判断した。Dランクが、Fランクを恐れている。
おかしな光景だった。
ナギは地面に手をついて、ゆっくりと立ち上がった。腹が痛かった。頬も痛かった。それでも立てた。
ガデルと目が合った。
ナギは何も言わなかった。ただ、一つだけ確認したいことがあった。
ナギは右手を握った。
頭の中に、道場の映像が浮かんだ。剣の握り方。足の運び方。体重の移し方。全部、ある。他人が十年かけて身につけたものが、今、ナギの中にある。
「……奪えるのか」
声に出た。独り言だった。ガデルに向けた言葉ではなかった。
ただの、確認だった。
ガデルは翌朝、仕事に来なかった。
昼になっても来なかった。
夕方になって、他の部下が「ガデルが剣の握り方を忘れた」と青い顔で話しているのを、ナギは遠くから聞いた。
医者を呼んだが、原因がわからないらしい。呪いかもしれないと言う者もいた。Fランクの中に、異能持ちがいるのではないかという話も出た。
ナギは何も言わなかった。
その夜、小屋の藁の上で仰向けになって、ナギは天井を見た。
頭の中で、まだ道場の映像が再生されている。見知らぬ少年が、剣を振り続けている。疲れている。それでも振る。師匠に叱られる。泣く。また振る。
他人の人生だった。
十年分の記憶が、今、ナギのものになっていた。
気持ち悪いとは思わなかった。
ただ、重かった。
他人の十年は、想像以上に重かった。喜びも痛みも挫折も全部含めて、ずっしりと、ナギの中に沈んでいた。
隣で、子どもが寝息を立てていた。
ナギはそちらを見なかった。天井を見たまま、目を閉じた。
使える。
感情はなかった。嬉しくも、怖くも、なかった。
ただ、道具が一つ増えたような感覚だけがあった。
それで十分だった。
——この時はまだ、十分だと思っていた。




