第2話「値段がついた日」
奴隷登録は、翌朝に行われた。
役所の裏手にある、薄汚れた石造りの建物。窓はなく、入り口には鉄格子がはまっていた。中に入ると饐えた臭いがして、ナギは無意識に呼吸を浅くした。
Fランクの七人は、一列に並ばされた。
一人ずつ、名前と年齢と体の状態を記録される。まるで家畜の品質検査だった。実際、そうなのだろうとナギは思った。怒りはなかった。この世界のルールがそういうものだというだけだ。
「右手を出せ」
係員がナギの手首を掴み、刻印の横に焼き印を押した。
痛かった。
ただそれだけだった。
奴隷市場は、街の西端にあった。
競売場、という体裁を取っていたが、実態は倉庫だった。木の柵で区切られた区画に、ランクごとに奴隷が並べられる。EランクとDランクの区画には、そこそこ人が集まっていた。買い手がついた者が連れ出されていく光景を、ナギは柵の向こうから見ていた。
Fランクの区画には、誰も来なかった。
午前中が過ぎ、昼が過ぎた。日が傾き始めた頃、ようやく一人の買い手が柵の前で足を止めた。中年の商人らしき男だった。品定めをするように八人を見回して、首を横に振った。
「使えん」
それだけ言って、去った。
誰かが、小さく息を吐いた。
夕方になって、隣にやってきた者がいた。
同じFランクの刻印を持つ、五十がらみの男だった。がっしりとした体格だったが、あちこちに古い傷跡がある。この市場の常連なのか、慣れた様子で柵にもたれた。
「初めてか」と男は言った。
ナギは答えなかった。
「まあ、そうだろうな。その顔は初日の顔だ」
男はそう言って、持っていた乾いたパンを一口かじった。どこから持ってきたのかは知らないが、奴隷がそれを持っていることを係員は咎めなかった。おそらく、男がここに長くいる事実を黙認しているのだろう。
「俺はリック。もう三年ここにいる」
「……三年」
「ああ。Fは売れないからな。採掘場か、廃坑の作業か、そういうとこにしか需要がない。それも、まともな採掘場は来ない。来るのは決まって——」
男は言葉を切って、ナギを見た。
「お前、怖くないのか」
「何が」
「これからのことが」
ナギは少し考えた。
「怖いと思う場所が、もうない」
男は目を細めた。笑ったのか、哀れんだのか、判断できなかった。
……そうかとリックは言った。
「それは、強いのか弱いのかわからんな」
「俺にもわからない」
男は少しの間、黙っていた。それからまた、パンをかじった。
一つだけ教えてやると男は言った。
「どこに売られても、生き延びろ。それだけを考えろ。Fランクにできることは、それだけだ」
「経験談か」
男は自分の首筋の傷を指でなぞった。
「三回、死にかけた。それでも生きてる。なぜかはわからんが——生きてると、たまに、いいことがある」
ナギはその言葉を、胸の中のどこかに置いた。
感情は動かなかった。
ただ、置いた。
翌朝、買い手が来た。
痩せた男だった。四十代だろうか。目が細く、笑っているのか怒っているのかわからない顔をしていた。腰に帳簿を下げ、係員と何やら話をしている。
ナギはその男をじっと見た。
悪い人間だ、と思った。根拠はなかった。ただ、前の世界で夜勤を続けた三十一年間で培った、人を見る感覚がそう言っていた。
「まとめて引き取る。値段は言い値でいい」
男が言った。
係員が顔をほころばせた。
値段交渉が始まった。あっという間に終わった。信じられないほど安かった。ナギの前世の月給より安かった。
リックがいなかった。昨夜のうちに、別の場所に移されたらしい。
荷台に乗せられた。
幌付きの荷馬車だった。荷物のように詰め込まれる。縄で縛られることはなかった。逃げても、Fランクが生きていける場所など、この国にはないからだろう。
荷馬車が動き出した。
揺れる荷台の中、ナギは膝を抱えて目を閉じた。
行き先は聞いていない。聞いても意味がない。どうせ、いいところではないだろう。前の世界でも、転職先はいつもそうだった。
前の世界。
ナギは、前の世界をあまり思い出さないようにしていた。思い出すものが、何もないからだ。
警備室。椅子。モニター。冷めたコーヒー。それだけだった。誰かの顔は、出てこなかった。
「……ねえ」
声がした。
ナギは目を開けた。
荷台の隅に、小さな影があった。膝を抱えて、ナギと同じ姿勢で座っている。昨日の競売場にいた、子どもだった。年齢は十歳前後だろうか。小柄で、髪が短く、性別がよくわからない。
「おにいさん、どこから来たの」
ナギは答えなかった。
「ここ、どこ行くんだろ」
「わからない」
子どもは少し考えてから、そっかと言った。怯えた様子は、なかった。それが不思議だった。
「おにいさん、怖い顔してるね」
「そうか」
「でも目が怖くない」
ナギは何も言わなかった。
子どもはしばらく、揺れる荷台に身を任せていた。それから、またナギを見た。
「ねえ、絶対逃げ出せると思う」
「……なぜ」
なんとなく!と子どもは言った。
「おにいさん、諦めてないから」
ナギは、その言葉の意味を考えた。
自分では、諦めているつもりだった。感情もなく、目的もなく、ただ生きているだけだと思っていた。
子どもがにこりと笑った。
屈託のない笑顔だった。この状況で、なぜそんな顔ができるのか、ナギには理解できなかった。
ナギは視線を外した。
幌の隙間から、空が見えた。夕暮れに近い、灰色の空だった。
前の世界と、何も変わらない。
声に出さずに、思った。
誰にも気づかれない場所で、静かに消費されていく。それが自分の生き方だった。前も、今も。
荷馬車が、大きく揺れた。
どこかで石畳が途切れたのだろう。悪路に入ったことを、体が知らせてくれた。
目的地が近いのかもしれない。
ナギは目を閉じた。
子どもの笑顔が、瞼の裏に残った。残ったが、どうすることもできなかった。感情を動かす場所が、ナギの中にはもうなかった。
そのはずだった。
その夜。
荷台の中は静かだった。いつの間にか眠っていた。子どもも、ナギの隣で小さく丸まって目を閉じている。
ナギだけが、眠れなかった。
リックの言葉が、頭の中で繰り返された。
生き延びろ。それだけを考えろ。
生きてると、たまに、いいことがある。
いいこと。
ナギには、それがよくわからなかった。三十一年間、いいことが何だったか、思い出せなかった。
幌の外で、御者が誰かと話す声がした。
「——明日から採掘場に入れろ。使い潰していい。どうせFだ」
低く、事務的な声だった。
感情のない声だった。
ナギはそれを聞いて、目を閉じた。
使い潰していい。
その言葉は、怒りを呼ばなかった。ただ、確認として受け取った。この場所がどういう場所か。自分がどう扱われるか。それがわかった。
わかった上で、ナギは考えた。
前の世界では、考えることをやめていた。考えても変わらないと、どこかで諦めていた。
でも今は——
荷台が、また大きく揺れた。
子どもが少し身じろぎして、また眠った。
ナギはその小さな寝顔を見た。
それから、また空を見た。幌の隙間から見える空は、今度は星が出ていた。
灰色ではなかった。




