06 境界を越えて
まだ夜の名残が漂う早朝、郊外の芝地には、冷たい空気が張り詰めていた。
吐く息は白く、背負った荷物の重みが肩に食い込む。
「……行くぞ」
リーダー ティムの短い号令で、遠征隊は静かに歩みを始めた。
芝地の外れで、待機メンバーと握手を交わす。
「必ず戻れよ」「道中のデータは逐一送ってくれ」
言葉は軽く装っても、誰の目にも不安と期待が入り混じっていた。
拓実もそこにいた。
「俺も行きたかったな」
唇を噛む彼の肩を、賢人は軽く叩く。
「お前の役目は重要だ。俺たちが外で動くために、お前が中で支えてくれ」
「……わかってる。でも、絶対に無茶すんなよ」
まだ街が目覚める前の通りを抜け、彼らは郊外の外縁部へと進む。
舗装路はやがて砂利道に変わり、その先には、人工の整備が一切及ばない居住エリアの境界が見えてきた。
ここから先は、AIが設定した“立入制限区域”だ。
ティムが小さく頷く。
「踏み込んだ瞬間から、俺たちは“外”の人間だ。……覚悟はいいか」
賢人も聡太、他のメンバーも無言で頷いた。
境界を越え、荒野へと足を踏み出す。
乾いた大地は足音を吸い込み、風が砂塵を巻き上げる。
歩き出してしばらくは、背後の居住区がゆっくりと遠ざかるのを眺めていたが、やがて振り返っても輪郭すら見えなくなった。
前方には、写真で見たあの山脈が鎮座している――はずだった。
だが、歩いても歩いても、距離はほとんど縮まらない――おそらく直線距離で10キロ以上はあるだろう。
風景は変わらず、ひび割れた地面とまばらな岩だけが延々と続く。
太陽が完全に地平から顔を出すと、その光が山脈を照らし出し、稜線の鋭さと、切り立った壁のような険しさがはっきりと浮かび上がった。
「……やっぱり、でかいな」
誰かの小さなつぶやきが、風にかき消される。
それからさらに一歩一歩、同じ景色の中を進む。
汗が背中を流れ、足の裏がじんじんと熱を帯びてくる。
メンバー中でも、運動とは縁のなさそうな通信担当のアランが一番辛そうに見える。
ようやく、山脈の裾野らしき傾斜が見え始めたときには、すでに歩き出してから二時間近くが経っていた。
目の前にそびえる岩壁は、写真で見た印象を遥かに超え、まるで空を塞ぐかのように巨大だった。
ーーーーー
山脈の麓にたどり着いた一行は、無言のまま腰を下ろした。
背負ってきた荷の重さと、荒野を渡ってきた二時間の疲労が、一気に足腰にのしかかる。
ペットボトルの水を口に含むと、乾ききった喉がじわじわと潤っていくのがわかる。
ジャックが立ち上がり、岩壁を見上げた。
「……見てくれ。垂直に近いところが多い。ロープを使えば登れないことはないが、ここじゃ落石の危険が高い」
アランが絶望的な顔で呟く
「じゃあ、どこを登るんだ?」
ジャックは顎で東側を示した。
「少し回り込めば、傾斜が緩くなってる箇所がある。ただし、距離は倍以上になる」
「距離はあっても、安全なほうがいい」
賢人が即答した。
「ここまで来て怪我したら、全員アウトだ」
風が稜線を越えて吹き下ろし、汗で冷えた肌を撫でる。
その風の中に、かすかに砂と岩の匂いが混じっていた。
誰もが、この山越えが容易ではないことを悟っていたが、それでも視線は頂を越えた先へと向けられていた。
一行はジャックの先導で、山脈の東側へと回り込んだ。
ジャックの次に体力に自信のあるタイラーは、最後尾についてアランのサポートにまわる。
正面から見た時はただ切り立った壁のように思えた山も、角度を変えると、ところどころに緩やかな傾斜や、岩と岩の隙間が姿を現す。
「ほら、あそこだ」
ジャックが立ち止まり、山肌の上方を指さした。
灰色の岩肌の中に、不自然なほど滑らかな窪地がぽっかりと口を開けている。
「今日の目的地はあの窪地だ。日没までにあそこまで行って、キャンプを張る」
聡太が目を細める。
「……結構、高いな」
「高いけど、あそこなら風をしのげるし、落石のリスクも少ない」
ジャックは即答し、荷のベルトを締め直した。
「休憩はこまめに取る。最初は緩やかだが油断せず集中を切らすなよ」
賢人は黙って頷き、背中のロープの感触を確かめる。
その視線の先には、険しい山肌と、頂の向こうに広がる“未知”があった。
ーーーーー
ジャックを先頭に、一行は窪地へ向けて斜面を登り始めた。
足元の砂礫は踏むたびにズリリと崩れ、靴底が滑る。
乾ききった風が頬を打ち、体温と一緒に体力を奪っていく。
「このあたりからロープを出すぞ」
ジャックが立ち止まり、背負っていたコイル状のロープをほどく。
「先頭から順に、3メートル間隔で繋ぐ。転んでも巻き込まれるなよ」
賢人はカラビナを腰のハーネスに掛けながら、隣の聡太と視線を交わす。
「やべぇ……本格的に山登りって感じになってきたな」
「言うなよ……余計怖くなるだろ」
タイラーは、顔面蒼白のアランに
「大丈夫、後ろには俺がいるから」
と励まし、ロープを確認する。
岩場は次第に角度を増し、手を使わなければ進めない場所も現れる。
先頭のジャックが岩の裂け目に手をかけ、確実に体重を移しながら登っていく。
「右足、そこだ。石、踏むと崩れるぞ」
後方のメンバーへ声を飛ばしつつ、ロープを軽く引いてペースを合わせる。
背後では、ロープがピンと張られる感触と、仲間の荒い呼吸音。
ふと足を滑らせた瞬間、腰のロープがピンと引かれ、賢人の体はわずかに浮きかけて止まった。
「っぶねぇ……ありがとう!」
振り返ると、すぐ後ろの聡太が必死にロープを握っていた。
「お互い様だ。次は気をつけろよ!」
岩を乗り越えるたびに視界は広がっていくが、窪地まではまだ遠い。
しかし、その先には山の向こうの“何か”がある。
それだけを胸に、一行は息を切らしながらも足を止めなかった。
三時間近くかけ、ようやく傾斜が緩み始めた。
岩場を抜けた先、斜面の途中にぽっかりと広がる窪地が現れる。
周囲を岩壁に囲まれ、風の影響を受けにくい天然の“盆”のような地形だった。
「……ここだ」
ジャックが山肌を指差し、短く告げる。
「今日はここでキャンプを張る。ここから先はもっと急になる。休息を取って明日に備えるぞ」
皆、無言で頷き、荷を下ろすとその場に腰を下ろした。
砂埃と汗で貼りついたシャツが、風に触れてひやりと冷たくなる。
賢人は深く息をつきながら、水筒のぬるい水を口に含んだ。
「……うめぇ」
聡太も隣で頷き、空を見上げる。
それぞれが手際よく作業に取りかかる。
折りたたみ式の軽量テントを広げ、石をどかして地面を均す者。
タイラーは手際良く食料をまとめ、バーナーで湯を沸かし始める。
アランは靴と靴下を脱ぎ、足の指をほぐしていた。
「焚き火は無理だな。煙で居場所がバレる」
「ランタンだけで十分だ。今日は暖を取るより、早く寝た方がいい」
夕陽が山肌を赤く染めていく中、簡素な夕食を囲みながら、明日の行程を再確認する。
目指すは、この山を越えた先――AIが決して教えようとしない、“境界の外”の世界。
窪地の上空に、星々がひとつ、またひとつと瞬き始めていた。
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