第2章 一枚の名刺
夜のリビングは、昼間の渋谷とはまるで違う静けさに包まれていた。
窓の外には、都内のマンション群の灯りが点々と浮かんでいる。どこかの部屋では夕食の片づけをしているのか、遠くで水音のような生活の気配がした。車の走る音も、人の話し声も、ここまでは少しだけ薄められて届く。
テーブルの上には、一枚の名刺が置かれていた。
株式会社アステル・アーツ
マネージャー 佐藤美咲
白い紙に刻まれた文字は、昼間カフェで受け取った時よりも、ずっと重く見えた。あの時は、渋谷の喧騒の中にいたからかもしれない。人の流れ、店内の音楽、アイスラテの氷の音。すべてが混ざり合って、現実感を少しぼかしていた。
けれど、家に帰り、夕食を済ませ、両親がまだ帰っていないリビングで改めてその名刺を見ると、それはもうただの紙ではなかった。
未来へつながっているかもしれない扉。
あるいは、踏み込んではいけない場所への入口。
天音には、そのどちらにも見えた。
「……ちゃんとした名刺だよね」
奏が、ソファの上で膝を抱えながら言った。
「名刺がちゃんとしてるからって、全部信用できるわけじゃないよ」
天音は、スマートフォンを手に取った。
検索画面に、佐藤から聞いた事務所名を入力する。
アステル・アーツ。
検索結果には、公式サイトが一番上に表示された。天音は少し迷ってから、それを開いた。白を基調にした清潔なデザインのページが表示される。会社概要、所属タレント、ニュース、問い合わせ先。見た目はきちんとしていた。
「サイト、あるね」
奏が隣からのぞき込む。
「うん」
「あ、この人知ってる。ドラマに出てた人じゃない?」
奏が所属タレント一覧の一人を指さした。
たしかに、天音にも見覚えがあった。主演ではないが、何度かテレビで見たことのある俳優だった。別のページには、雑誌で見かけたモデルの名前もある。昼間、カフェで佐藤と話していた女性も、その中に載っていた。
「本当に事務所の人だったんだ」
奏の声が少し明るくなる。
「まだ分からないよ。サイトなんて、作ろうと思えば作れるし」
「天音、疑いすぎ」
「疑いすぎくらいでちょうどいいの」
天音はそう言いながら、さらに検索を続けた。
アステル・アーツ 評判。
アステル・アーツ 契約。
アステル・アーツ トラブル。
アステル・アーツ レッスン料。
画面にはいくつもの記事や口コミが表示された。中には芸能事務所全般への注意喚起の記事もある。高額なレッスン料を請求された例。契約内容をよく確認しないまま所属してしまった例。辞めたくても辞められなかったという話。
天音は、その一つひとつを読んでいくうちに、胸の奥が冷えていくのを感じた。
「やっぱり、怖い世界だよ」
ぽつりと呟く。
奏は、天音の横顔を見た。
「でも、アステル・アーツがそうだって話は出てないよね?」
「今のところはね。でも、出てないから安全ってわけじゃない」
「それはそうだけど」
奏は少し唇を尖らせた。
天音はその表情を見て、言いすぎたかもしれないと思った。けれど、簡単に夢の方へ身体を傾けることはできなかった。
昼間、佐藤美咲は誠実に見えた。
少なくとも、これまで声をかけてきたスカウトマンたちとは違っていた。軽さがなかった。無理に連絡先を聞き出そうともしなかった。両親と一緒に話を聞きに来ても構わないと言った。その一つひとつは、天音の警戒心を少しずつ解くものだった。
けれど、だからこそ怖かった。
もしも、本物だったら。
もしも、本当に自分たちに可能性があるのだとしたら。
その時、自分たちはどうすればいいのだろう。
「奏は、どう思ってるの」
天音はスマートフォンを伏せ、妹に向き直った。
奏はすぐには答えなかった。膝を抱えたまま、テーブルの上の名刺を見つめている。その目は、昼間カフェで佐藤の言葉を聞いていた時と同じように、少し遠くを見ていた。
「分からない」
奏は言った。
「分からないけど……気になる」
「気になる?」
「うん」
奏は、指先で自分の膝を軽く叩いた。
「今まで声をかけられた時って、別に何とも思わなかったじゃない? またか、って感じで。ちょっと怖い時もあったし、面倒くさいなって思うこともあった」
「うん」
「でも、今日の佐藤さんは違った。私たちのこと、ただ珍しい双子として見てる感じじゃなかった」
天音は黙って聞いていた。
「もちろん、双子だから声をかけたんだと思うよ。それは分かる。でも、それだけじゃない気がした。天音が話す時、私がどう聞いてるかとか、私が言ったことに天音がどう反応するかとか、そういうところまで見てた気がする」
「……うん」
それは、天音も感じていた。
佐藤の視線は、二人の顔立ちだけに向けられていたわけではなかった。二人の間に流れる空気そのものを見ているようだった。だからこそ、天音はいつものように簡単には断れなかった。
「私たちってさ」
奏は小さく笑った。
「ずっと、二人で一つみたいに見られてきたでしょ」
「うん」
「でも、私は別に、天音のコピーじゃない。天音も、私のコピーじゃない」
天音は、少しだけ目を伏せた。
当たり前のことだった。けれど、それを人に説明するのは難しい。周囲にとって二人は、まず「双子」だった。天音と奏という名前より先に、そっくりな二人として見られることが多かった。
同じ服を着せられた幼い頃。
名前を間違えられた小学校。
テストの点数まで比べられた中学時代。
片方が褒められると、もう片方も同じようにできると思われた高校時代。
そして今も、人混みの中で並んで歩くだけで、誰かの視線を集める。
その視線を、天音はどこかで諦めていた。
けれど奏は、そこに別の意味を見ようとしているのかもしれない。
「もしさ」
奏は、名刺を見つめたまま言った。
「私たちが、ただ似てるだけじゃなくて、二人だからできる何かがあるなら……それを一回くらい、見てみたいって思う」
天音は胸がざわつくのを感じた。
奏の言葉は、危ういようでいて、まっすぐだった。夢に浮かれているわけではない。軽い気持ちで芸能界に入りたいと言っているわけでもない。ただ、自分たちの中にあるかもしれない可能性を、無視したくないのだ。
「見てみて、違ったら?」
天音は尋ねた。
「その時は、やめる」
「そんな簡単にやめられる世界じゃないかもしれないよ」
「だから、話を聞くだけ」
「話を聞いたら、断りにくくなるかもしれない」
「天音は、断れるでしょ」
奏がそう言って、少しだけ笑った。
天音は言葉に詰まった。
確かに、断るのはいつも天音の役目だった。小さい頃からそうだった。知らない人に話しかけられた時。しつこく誘われた時。二人で決めなければならない場面で、先に慎重な言葉を選ぶのは天音だった。
奏は明るく、天音は慎重。
周囲はよくそう言った。
けれど、その役割に自分たちが縛られているのではないかと思うことが、天音には時々あった。
「奏は、私に止めてほしいの?」
天音が聞くと、奏は驚いたように目を見開いた。
「え?」
「自分では気になる。でも怖い。だから、私がやめようって言えば、それに従える。そういうこと?」
「違うよ」
奏の声が少し強くなった。
「そんなつもりじゃない」
「じゃあ、どうしたいの」
「だから、話を聞きたいって言ってる」
「それは、行きたいってことでしょ」
「天音は行きたくないの?」
奏の問いに、天音はすぐに答えられなかった。
行きたくない。
そう言えば簡単だった。今まで通り、芸能界に興味はないと言えばいい。普通の大学生として過ごし、卒業して、就職して、時々「昔、スカウトされたことがあるんだ」と笑い話にすればいい。
それが安全だった。
それが正しい気がした。
けれど、心の奥のどこかに、昼間の佐藤の声が残っていた。
あなたたちには、お二人にしかない、特別な可能性があります。
特別。
そんな言葉を信じるほど、天音は子どもではないつもりだった。けれど、その言葉を完全に笑い飛ばせるほど、大人でもなかった。
「……分からない」
天音は、やっとのことで答えた。
「怖い。でも、気になってないと言ったら嘘になる」
奏の表情が、少しやわらいだ。
「じゃあ、同じだね」
「同じかな」
「同じだよ。怖いけど、気になる」
奏はテーブルに身を乗り出し、名刺を指先でそっと押した。
「これ、捨てられないもん」
天音は、その言葉に小さく笑った。
「捨てるつもりだったの?」
「天音が言うかと思ってた」
「私を何だと思ってるの」
「慎重すぎる姉」
「奏は無防備すぎる妹」
「出た」
二人は笑った。
しかし、その笑いはすぐに静けさの中へ溶けた。名刺は、変わらずテーブルの中央にある。白い紙の小さな四角形が、二人の間に置かれたまま、まるで答えを急かさず待っているようだった。
その時、玄関の方で鍵の開く音がした。
「あ、お母さんかな」
奏が身体を起こす。
天音の心臓が少し速くなった。両親に話す。カフェで自分が口にしたことなのに、いざその瞬間が近づくと、急に不安が大きくなる。
玄関から母の声がした。
「ただいま」
「おかえり」
二人は声を揃えて答えた。
母は買い物袋を手にリビングへ入ってきた。仕事帰りにスーパーへ寄ったのだろう。髪を後ろで一つにまとめ、少し疲れた顔をしていたが、二人を見ると柔らかく笑った。
「二人とも、今日は渋谷だったんでしょ。楽しかった?」
「うん」
奏が答える。
「人、多かったけどね」
天音が続けた。
「土曜日だものね」
母は買い物袋をキッチンに置き、ふとテーブルの上にある名刺に気づいた。
「何? これ」
その瞬間、天音と奏は同時に黙った。
母の視線が、名刺から二人の顔へ移る。
「どうしたの?」
何でもない。
そう言ってしまうこともできた。
けれど、天音は名刺を隠さなかった。隠したら、この話は最初から間違った方向へ進む気がした。
「今日、渋谷で……というか、カフェで」
天音は慎重に言葉を選びながら話し始めた。
「芸能事務所の人に、声をかけられたの」
母の表情が変わった。
驚きと、不安と、少しの警戒。そのすべてが一瞬で浮かんだ。
「芸能事務所?」
「うん。でも、いつもの街のスカウトみたいな感じじゃなくて。ちゃんと名刺をくれて、両親と一緒に話を聞きに来てもいいって」
奏が急いで補足した。
「アステル・アーツっていう事務所。サイトもあって、所属してる人もちゃんとしてるみたいで」
「奏、落ち着いて」
天音が小さく言う。
母は名刺を手に取った。文字を読み、しばらく黙っていた。
「あなたたち、行きたいの?」
母の声は、責めるものではなかった。けれど、軽く聞き流せる響きでもなかった。
天音は奏を見た。
奏も天音を見た。
どちらかが代表して答えるのではなく、二人で答えなければならない気がした。
「まだ、分からない」
先に言ったのは天音だった。
「でも、話だけは聞いてみたいと思ってる」
奏が続ける。
「もちろん、勝手に決めるつもりはないよ。お父さんとお母さんにも一緒に来てほしいし、怪しかったらすぐ断る」
母は、二人の顔を交互に見た。
その沈黙は短かったのか長かったのか、天音には分からなかった。時計の秒針の音だけが、やけにはっきり聞こえた。
「お父さんが帰ってきたら、ちゃんと話しましょう」
母は静かに言った。
「こういうことは、二人だけで決めていいことじゃないから」
「うん」
天音と奏は頷いた。
母は名刺をテーブルに戻した。その動きは丁寧だったが、指先には明らかな緊張があった。
「お母さんはね」
母はキッチンへ向かいかけて、ふと足を止めた。
「あなたたちが何かに挑戦したいと思うことは、悪いことだとは思わない。でも、傷ついてほしくないの」
天音の胸が締めつけられた。
自分が奏に対して思っていたことと、同じだった。
傷ついてほしくない。
それは愛情であり、同時に足を止める理由にもなる。
「分かってる」
天音は言った。
「だから、ちゃんと相談する」
母は小さく頷き、キッチンへ入っていった。
リビングに、再び静けさが戻る。
奏は深く息を吐いた。
「緊張した」
「まだお父さんが残ってる」
「そっちの方が怖い」
「うん」
二人は顔を見合わせたが、笑う余裕はあまりなかった。
父は、こういう話にきっと厳しい。芸能界という言葉を聞いただけで、眉をひそめるかもしれない。危ない、やめておけ、大学を優先しろ。そう言われる可能性は高かった。
それでも、話さなければ何も始まらない。
天音はテーブルの上の名刺をもう一度見た。
その紙は、昼間よりも、そしてさっきよりも、さらに重くなっていた。もう二人だけの秘密ではなくなったからだ。母が知った。これから父も知る。話は、少しずつ現実になろうとしている。
「天音」
奏が静かに呼んだ。
「ん?」
「怖くなった?」
「なった」
「私も」
奏はそう言って、少しだけ笑った。
「でも、ちょっとだけ嬉しい」
「嬉しい?」
「うん。ちゃんと、話せたから」
天音はその言葉を聞いて、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
確かに、そうだった。
隠さなかった。ごまかさなかった。曖昧な興味を、曖昧なままにせず、家族に向かって差し出した。それだけでも、何か一歩を踏み出したような気がした。
玄関の外で、遠くエレベーターの到着音がした。
父が帰ってきたのかもしれない。
天音と奏は、同時に背筋を伸ばした。
テーブルの上の名刺は、二人と家族の間に置かれた小さな試練のようだった。
まだ何も決まっていない。
けれど、もう何もなかった頃には戻れない。
天音はそっと息を吸った。
奏も、隣で同じように息を整えていた。
同じ顔をした二人。
けれど今、その胸の中には、それぞれ違う不安と、違う期待が揺れている。
やがて玄関のドアが開く音がした。
「ただいま」
父の声が、廊下の向こうから聞こえた。
天音と奏は顔を見合わせた。
そして、どちらからともなく、小さく頷いた。




