第1章 スクランブルに響く声
土曜日の午後、渋谷のスクランブル交差点は、いつものように人であふれていた。
信号が青に変わった瞬間、四方八方から人の波が一斉に流れ出す。大型ビジョンには新作映画の予告が映し出され、別のビジョンでは人気アーティストのミュージックビデオが、音のない叫びのように街へ光を投げていた。スマートフォンを片手に歩く若者たち。観光客らしい家族連れ。誰かを待つ人。誰かを追い越していく人。さまざまな足音と話し声と音楽が、ひとつの大きなうねりになって交差点を満たしていた。
その人波の中を、天音と奏は並んで歩いていた。
十九歳。都内の大学に通う、双子の姉妹だった。
二人は、幼い頃からよく似ていると言われてきた。艶のある黒髪。すっと通った鼻筋。左目の下にある小さな泣きぼくろ。笑った時に、ほんの少しだけ上がる左の口角。初めて会う人は、たいてい一度では見分けられない。
けれど、本人たちにしてみれば、自分たちはまるで違っていた。
天音は、歩く時に少しだけ周囲を気にする。人の流れを読み、ぶつからないように、相手の歩幅に合わせる癖がある。慎重で、先のことを考えすぎるところがあった。
一方の奏は、同じ道を歩いていても、視線がよく動く。店のショーウィンドウ、新しくできたカフェ、通り過ぎる人の服装。面白そうなものを見つけると、すぐに足を止める。思い切りがよく、心が動いた方向へ素直に身体が向かうタイプだった。
「ねえ、天音。あのワンピース、見て」
奏が、SHIBUYA109のショーウィンドウを指さした。
淡いブルーのワンピースだった。胸元に小さなリボンがあり、スカート部分は軽やかな素材で、歩くたびに揺れそうなデザインだった。
「奏に似合いそう」
天音が言うと、奏はすぐに首を横に振った。
「えー、天音の方が似合うよ。私にはちょっと甘すぎる」
「そうかな。奏が着たら、甘すぎない感じになると思うけど」
「それ、褒めてる?」
「もちろん」
二人は顔を見合わせて笑った。
その笑顔までよく似ているせいか、すれ違う人の何人かが、思わず振り返った。けれど、二人はもう慣れていた。双子であること。似ていること。目立つこと。それらは、二人にとって特別な出来事ではなく、日常の一部だった。
幼い頃は、知らない人から「双子ちゃん?」と声をかけられることも多かった。小学生の頃は、クラスメイトに名前を間違えられた。中学生になると、二人でいるだけで少し注目された。高校生の頃には、駅前や繁華街でスカウトらしい人に声をかけられることも増えた。
けれど、天音と奏がその誘いに乗ったことは一度もない。
芸能界。
その言葉には、光と同じくらい影の匂いがした。華やかな衣装。テレビの中の笑顔。眩しいステージ。けれどその裏に、厳しい競争や人間関係、傷つく言葉があることも、二人は知っていた。少なくとも、知っているつもりでいた。
だから今日も、バスケットボールストリートに差しかかった時、前方から近づいてきた若い男を見た瞬間、天音は小さく息を整えた。
「あの、すみません」
流行りのオーバーサイズのTシャツを着た男だった。手にはスマートフォンと、名刺入れのようなものを持っている。天音と奏の前に立つと、慣れた笑顔を浮かべた。
「芸能界とか、興味ありませんか? お二人、すごく雰囲気ありますよ」
天音と奏は、ほとんど同時に軽く頭を下げた。
「すみません。興味ないんです」
答えたのは天音だった。声は柔らかいが、言葉ははっきりしている。
「少しだけ話を――」
「ごめんなさい」
今度は奏が笑顔で続けた。明るい声だったが、これ以上踏み込ませない響きがあった。
男は少し残念そうな顔をしたが、すぐに別の人波へ視線を移した。
「そうですか。失礼しました」
天音と奏は、また並んで歩き出した。
「今日も来たね」
奏が小さく笑う。
「うん」
「月に何回くらい声かけられてるんだろう」
「数えなくていいよ。増えたら怖いから」
「でもさ、いつも思うんだけど、本当に芸能界に入りたい子だったら、こういう声って嬉しいのかな」
奏の何気ない言葉に、天音は少しだけ考えた。
「嬉しいのかもしれない。でも、私は怖い方が先に来るかな」
「天音は慎重だもんね」
「奏が無防備すぎるだけ」
「ひどい」
「事実です」
二人はまた笑った。
けれど、笑いながらも、天音はほんの少しだけ胸の奥に残ったざらつきを感じていた。
芸能界に興味がない。
そう答えることには慣れている。実際、今まで本気で考えたこともなかった。大学に通い、友人と話し、課題に追われ、時々こうして買い物に出かける。そんな普通の毎日は、特別ではないけれど、十分に大切だった。
けれど、もしも。
もしも、あの世界に入ったら。
そう考えかけて、天音はすぐに首を振った。考える必要のないことだと思った。
人混みを抜け、少し落ち着いた場所を求めて、二人は公園通りの方へ歩いた。表通りの喧騒から少し離れると、渋谷の音はわずかに柔らかくなる。雑居ビルの二階に、小さなカフェの看板が出ていた。
「ここ、入ってみない?」
奏が言った。
「いいよ。少し休もう」
階段を上がると、ドアの向こうにアンティーク調の落ち着いた空間が広がっていた。木目のテーブル。深い緑色のソファ。壁には古い映画のポスターが飾られ、窓際には小さな観葉植物が並んでいる。渋谷の中心にあるとは思えないほど、店内には静かな時間が流れていた。
二人は窓際の席に座り、アイスラテを注文した。
「こういうお店、好き」
奏が店内を見回しながら言った。
「うん。外と全然違うね」
天音はグラスの中の氷が小さく鳴る音を聞きながら、窓の外を見下ろした。下の通りには相変わらず人が流れている。けれど、二階から見る渋谷は、少しだけ遠いものに見えた。
「ねえ、天音」
「ん?」
「もしさ、本当にちゃんとした事務所の人に声をかけられたら、どうする?」
天音は、グラスに伸ばしかけた手を止めた。
「どうするって?」
「だから、さっきみたいな軽い感じじゃなくて。本当にちゃんとしてる人。ちゃんと話を聞いてくれて、ちゃんと育ててくれるようなところだったら」
「奏、興味あるの?」
「うーん……あるっていうか」
奏はストローを指で軽く回しながら、言葉を探した。
「自分がなりたいって思ったことはないよ。でも、少しだけ気になる時はある。私たちって、昔から『双子だからすごいね』って言われるじゃない?」
「うん」
「でも、それって私たち自身がすごいわけじゃなくて、ただ似て生まれただけでしょ」
天音は、妹の横顔を見た。
奏は普段、こういうことをあまり口にしない。明るくて、よく笑って、何でも軽やかに受け流しているように見える。けれど本当は、奏なりに思うことがあったのだろう。
「もし、その『双子だから』っていうのが、何かの形になるなら……それは、ちょっとだけ見てみたい気もする」
奏の声は小さかった。
天音はすぐには答えなかった。奏の気持ちが分からないわけではなかった。二人でいると、必ず見られる。必ず比べられる。必ず「そっくり」と言われる。その視線を、ただ受け流すだけではなく、何かに変えられるとしたら。
それは、少しだけ魅力的なことなのかもしれない。
けれど、天音はやはり怖かった。
「私は、奏が傷つくのが嫌だよ」
思わず、そんな言葉が出た。
奏が驚いたように天音を見る。
「私だけ?」
「私もだけど。奏は、興味あるものにすぐ飛び込むから」
「そんな子どもじゃないよ」
「分かってる。でも、心配なの」
天音は、目の前のアイスラテに視線を落とした。
「芸能界って、夢だけじゃないと思う。比べられたり、傷つくことを言われたり、知らない人に勝手に評価されたりするんだと思う。私たちが思ってるよりずっと、怖い場所かもしれない」
奏はしばらく黙っていた。
店内には、静かなジャズが流れていた。隣のテーブルでは、二人組の女性が話している。一人は、どこかで見たことのある顔だった。ファッション誌のページで見かけた若手モデルかもしれない。けれど、天音の視線を引いたのは、その向かいに座る女性だった。
三十代後半くらいだろうか。
スーツを着ているのに、堅苦しさがない。黒に近いネイビーのジャケットを、まるで身体の一部のように自然に着こなしていた。髪は低い位置でまとめられ、耳元には小さなピアスが光っている。話し方は落ち着いていて、相手の言葉を途中で遮らない。けれど、ただ優しいだけではない。視線の奥に、仕事の場で何人もの人を見てきた人特有の鋭さがあった。
その女性が、ふとこちらを見た。
天音は、一瞬、息を止めた。
街で向けられる視線とは違った。
珍しいものを見る目ではない。値踏みするような目でもない。可愛い双子を見つけたという軽さもない。
まるで、二人の表情や姿勢、声の出し方、互いを見る時の空気まで、静かに読み取っているような眼差しだった。
天音は思わず視線を外した。
「どうしたの?」
奏が尋ねる。
「ううん、何でもない」
その時、隣のテーブルのモデルらしい女性が席を立った。電話がかかってきたのか、スマートフォンを耳に当てながら店の外へ向かう。残されたスーツの女性は、テーブルの上の資料を丁寧にまとめると、少しだけ考えるように視線を落とした。
そして、立ち上がった。
天音は、その女性がこちらへ歩いてくるのを見て、心臓が小さく跳ねた。
奏も気づいたのか、背筋を伸ばす。
女性は、二人のテーブルの横で立ち止まった。近くで見ると、彼女の目元には疲れもあった。けれど、それ以上に、仕事に対する確かな熱が宿っていた。
「突然申し訳ありません」
落ち着いた、よく通る声だった。
「少しだけ、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」
天音と奏は顔を見合わせた。
また、スカウトだ。
そう思ったはずなのに、なぜかいつものようにすぐ断る言葉が出てこなかった。
女性は、名刺入れから一枚の名刺を取り出した。差し出す仕草は丁寧で、急かすようなところがなかった。
「株式会社アステル・アーツでマネージャーをしております。佐藤美咲と申します」
天音は、差し出された名刺を受け取った。
上質な紙の感触が指先に伝わる。そこに刻まれた文字は、簡素で、誠実で、不思議な重みがあった。
「先ほどから少しだけ、お二人の様子が目に入りました。もちろん、不躾なことだとは承知しています」
佐藤はそう言って、軽く頭を下げた。
「ですが、どうしてもお声がけせずにはいられませんでした」
奏が、戸惑いながら尋ねる。
「あの……スカウト、ですか?」
「そう受け取っていただいて構いません。ただ、街で名刺を配っている方々とは、少し違うつもりです」
佐藤の声は静かだった。
「私は、お二人をただ見た目が似ているから、可愛いからという理由でお声がけしたわけではありません」
天音の指先に力が入った。
似ているから。
可愛いから。
双子だから。
そんな言葉は、これまで何度も聞いてきた。けれど、佐藤はそのどれとも少し違う場所を見ているようだった。
「お二人が並んでいる時の空気。そして、言葉を交わす時の間。片方が話す時に、もう片方が自然に受け止めている感じ。それは、訓練で簡単に作れるものではありません」
奏が、何かを言おうとして口を開きかけたが、言葉にならなかった。
佐藤は続けた。
「芸能の世界にご興味はありませんか。モデルでも、アイドルでも、女優でも、可能性はいくつもあります。もちろん、簡単な世界ではありません。華やかに見える反面、厳しいことも多いです。だからこそ、軽い気持ちでおすすめするつもりはありません」
天音は、佐藤の目を見た。
この人は、夢だけを見せようとしていない。
そう感じた。
それが、かえって天音を戸惑わせた。いつものように、調子のいい言葉だけを並べる相手なら、簡単に断れた。けれど佐藤は、厳しさを隠さなかった。そのうえで、二人に声をかけている。
「すみません」
天音は、慎重に言葉を選んだ。
「私たち、今までそういうお話は全部お断りしてきました。芸能界は、怖い世界だという印象もありますし……大学もあります。簡単には考えられません」
「当然です」
佐藤はすぐに頷いた。
「むしろ、そう考えられる方でなければ、私はお声がけしません」
その言葉に、天音は少し驚いた。
奏も目を瞬かせる。
「夢を持つことは大切です。でも、夢だけで続けられる世界ではありません。ご家族の理解も必要ですし、契約の確認も必要です。学業との両立も、きちんと考えなければなりません」
佐藤は、テーブルの上の名刺に視線を落とした。
「ですので、今すぐお返事をいただきたいわけではありません。ただ、もし少しでも可能性を感じていただけるなら、一度だけ、正式にお話を聞きに来てください。ご両親と一緒でも構いません」
ご両親と一緒でも。
その一言で、天音の中の警戒心がほんの少しだけ揺らいだ。
本当に怪しい相手なら、そんなことは言わないのではないか。少なくとも、家族に隠して来るように促すような人ではない。
奏は、名刺を見つめていた。
その横顔を見て、天音は胸の奥がざわつくのを感じた。奏の目に、かすかな光が宿っている。それは、ショーウィンドウの服を見た時の軽い興味とは違っていた。もっと深く、もっと遠くを見ようとしている目だった。
「あなたたちには」
佐藤が静かに言った。
「お二人にしかない、特別な可能性があります」
その言葉は、渋谷の喧騒から切り離されたこの小さなカフェの中で、不思議なほどはっきり響いた。
天音は、何も答えられなかった。
特別な可能性。
そんなものが、本当に自分たちにあるのだろうか。
ただ似ているだけの双子ではなく、何かを誰かに届けられる存在になれるのだろうか。
佐藤は、それ以上踏み込まなかった。
「突然失礼いたしました。お時間をいただき、ありがとうございます」
深く頭を下げると、彼女は隣のテーブルへ戻り、荷物を整えて店を出ていった。
ドアベルが小さく鳴る。
その音が消えた後も、天音と奏はしばらく黙っていた。
テーブルの上には、一枚の名刺が残されている。
外では、相変わらず渋谷の街が騒いでいた。人は流れ、音は重なり、光は絶えず移り変わっている。さっきまでと同じ景色のはずなのに、天音には、何かが少しだけ違って見えた。
「……どう思う?」
先に口を開いたのは、奏だった。
天音は名刺を見つめたまま、すぐには答えなかった。
いつもなら、こう言うはずだった。
やめておこう。
危ないかもしれない。
私たちには関係ない世界だよ。
けれど、その言葉は喉の奥で止まっていた。
佐藤の眼差し。
ショッピングモールで見た、アイドルに手を振られて笑顔になった女の子の表情。
そして、奏の横顔。
いくつものものが、天音の中で静かに重なっていた。
「分からない」
天音は正直に答えた。
「怖い?」
奏が尋ねる。
「怖いよ」
「うん」
「でも……」
天音は、名刺に刻まれた文字を指先でそっとなぞった。
「いつものスカウトとは、違った気がする」
奏の表情が、少しだけ明るくなった。
「私も、そう思った」
二人はまた黙った。
まだ何も始まっていない。
契約もしていない。夢を語ったわけでもない。ステージに立つ自分たちを、はっきり想像できるわけでもない。
ただ、一枚の名刺があるだけだった。
けれど、その一枚は、まるで閉じていた扉の隙間から差し込んだ細い光のように、二人の前に置かれていた。
天音は窓の外を見た。
スクランブル交差点を、無数の人が渡っている。誰もがそれぞれの目的地へ向かい、誰もが誰かの人生の脇役としてすれ違っていく。その中で、もし自分たちが、誰かの目に留まる存在になるとしたら。
もし、自分たちの声や姿が、誰かの背中を押す日が来るとしたら。
そんな未来は、あまりにも遠く、あまりにも眩しかった。
「帰ったら」
天音は小さく息を吸った。
「お父さんとお母さんに、話してみようか」
奏が、驚いたように天音を見た。
「いいの?」
「話すだけ。決めるわけじゃないよ」
「うん」
奏は何度も頷いた。
「話すだけ」
けれど、その声は少し弾んでいた。
天音は苦笑する。
「奏、もう半分行く気になってない?」
「なってないよ」
「本当?」
「……三分の一くらい」
「多いよ」
二人は小さく笑った。
その笑い声は、カフェの静かな空気にやわらかく溶けていった。
この時の二人は、まだ知らなかった。
この一枚の名刺が、やがて二人を過酷なレッスンへ導くことを。小さなライブハウスの冷たい視線の前に立たせることを。地方の雨のショッピングモールで歌わせることを。たった五人の観客に向かって全力で踊らせることを。
そして、いつか一万人の歓声が響く場所へ、二人を連れていくことを。
けれど、そのすべてはまだ未来の中にあった。
今はただ、渋谷の午後。
スクランブル交差点の喧騒の中で、天音と奏の人生に、初めて聞き慣れない声が響いた。
その声は、こう告げていた。
あなたたちには、まだ知らない可能性がある。




