第3章 きらめきの残像
父に話すのは、予想していた通り簡単ではなかった。
その夜、リビングのテーブルの上に置かれた一枚の名刺を前に、父はしばらく黙っていた。眉間に深く皺を寄せ、名刺の文字を何度も読み返している。母はその横で、心配そうに天音と奏を見つめていた。
「芸能界、か」
父がようやく口を開いた時、その声は低かった。
「お前たちは、まだ大学に入ったばかりだろう」
天音は頷いた。
「うん。だから、すぐに決めるつもりはないの。ただ、話だけでも聞いてみたいと思って」
「話だけと言ってもな」
父は名刺をテーブルに戻した。
「そういう世界は、きれいな話ばかりじゃない。テレビに出ている人たちの裏で、どれだけ大変なことがあるか分からないだろう。簡単に信用していい相手じゃない」
奏が膝の上で両手を握りしめた。
「分かってる。でも、この人は、両親と一緒に来てもいいって言ってくれたの。契約とかも、すぐにどうこうじゃなくて」
「そう言われたから安全、とは限らない」
父の言葉は厳しかったが、二人を責めているわけではなかった。むしろ、その厳しさの奥にある心配が分かるからこそ、天音は反論できなかった。
「お父さん」
天音は、慎重に言葉を選んだ。
「私も怖いと思ってる。奏ほど前向きには考えられてない。芸能界に入りたいって、はっきり思っているわけでもない」
奏が少しだけこちらを見る。
「でも、気になっているのは本当。もし何も聞かないまま断ったら、あとでずっと考えてしまう気がする。あの時、話だけでも聞いておけばよかったって」
父は天音を見た。
その視線は、厳しいままだった。
けれど、少しだけ揺れたようにも見えた。
「……今日はもう遅い」
父は静かに言った。
「この話は、いったん預かる。父さんも調べる。お前たちも、浮かれずによく考えなさい」
「うん」
「分かった」
二人は同時に頷いた。
それで、その夜の話し合いは終わった。
認められたわけではない。反対されたままでもない。けれど、完全に閉じられたわけでもなかった。
その曖昧さが、天音の胸に残り続けた。
翌日の日曜日。
重たい空気を少しでも変えようと、奏が突然言い出した。
「どこか行こう」
朝食の後、リビングのソファでぼんやりしていた天音は、顔を上げた。
「どこかって?」
「分からない。とにかく、家にいると名刺のことばっかり考えちゃうから」
「それは分かるけど」
「郊外のショッピングモールとか。買い物して、何か食べて、普通の日曜日っぽいことしようよ」
普通の日曜日。
その言葉に、天音は少し笑った。
確かに、昨日からずっと、普通ではないことばかり考えている。芸能界。事務所。契約。両親の心配。佐藤美咲の眼差し。どれも、十九歳の大学生の休日には少し重すぎた。
「いいよ」
天音は立ち上がった。
「行こう。普通の日曜日をしに」
奏の表情がぱっと明るくなった。
昼前の電車に乗り、二人は少し郊外にある大型ショッピングモールへ向かった。駅から直結した広い建物には、家族連れや学生、買い物袋を提げた人たちが行き交っている。ガラス張りの天井からは柔らかな光が差し込み、吹き抜けのイベントスペースには季節の飾りが揺れていた。
入口を入った瞬間、奏は大きく伸びをした。
「あー、こういうところ落ち着く」
「渋谷より?」
「うん。渋谷は情報量が多すぎる」
「奏がそれを言う?」
「私だって疲れる時は疲れるよ」
二人は笑いながら歩き出した。
服を見て、雑貨を見て、書店に寄った。奏はアクセサリーショップで小さな星形のピアスを手に取り、鏡の前で耳元に当ててみせた。
「これ、どう?」
「可愛い。奏っぽい」
「天音も似合うよ」
「私はもう少し小さい方がいいかな」
「そういうところ、天音だよね」
「どういうところ」
「控えめなところ」
奏はそう言って笑った。
天音は反論しかけたが、やめた。自分が控えめなのか、ただ怖がりなのか、最近少し分からなくなっていた。
フードコートで遅めの昼食を取った後、二人は吹き抜けのイベントスペースの近くを通りかかった。そこには、いつの間にか人だかりができていた。中央には小さなステージが組まれ、スピーカーとマイクスタンドが並んでいる。ステージ脇には、カラフルな衣装を着た五人の女性たちが、スタッフと何かを確認していた。
「あ、ライブかな」
奏が足を止める。
天音も視線を向けた。
ステージ前には、すでに何人もの観客が集まっていた。手にサイリウムを持っている人。首からタオルをかけている人。小さな子どもを連れた親子。買い物の途中で足を止めたらしい年配の夫婦。明らかにファンと分かる人もいれば、偶然通りかかっただけの人もいる。
「アイドルかな」
「たぶん」
二人は少し離れた二階の手すり近くに立った。上からなら、ステージ全体が見える。
やがて、明るいSEが流れ始めた。観客の一部から歓声が上がる。五人のアイドルたちがステージに飛び出してきた。
「皆さん、こんにちは!」
センターに立つ女性が、元気よく声を張った。
「私たちは、スターリット・ベルです! 今日は立ち止まってくださってありがとうございます!」
スターリット・ベル。
天音はその名前を知らなかった。たぶん、テレビで毎日のように見るような有名グループではない。けれど、ステージ上の五人は、まるでここが小さなショッピングモールではなく、大きなホールであるかのように全力で笑っていた。
曲が始まる。
明るいイントロに合わせて、観客の前方にいたファンたちがサイリウムを振る。決して大きな音響ではない。ステージも広くはない。ダンスのフォーメーションも、少し窮屈そうだった。それでも五人は、限られた空間を最大限に使って踊っていた。
天音は、最初はただ眺めているだけだった。
けれど、曲が進むにつれて、少しずつ目が離せなくなっていった。
歌は完璧ではなかった。ところどころ音程が揺れる。ダンスも、全員が完全に揃っているわけではない。息が上がっているのも分かる。笑顔の奥に必死さが見える。
それなのに、不思議と胸が熱くなった。
五人は、誰かに評価されるためだけに歌っているのではないように見えた。目の前の人に楽しんでほしい。立ち止まってくれた人に、ほんの数分でも明るい気持ちになってほしい。その思いが、ステージの端々から伝わってきた。
「すごい」
隣で奏が呟いた。
その声は、いつもの軽い感想ではなかった。
「うん」
天音も小さく頷いた。
奏の目は、ステージの上で踊る一人のメンバーに釘付けになっていた。長いポニーテールを揺らしながら、キレのある動きでフォーメーションを引っ張っている。歌割りは多くない。けれど、彼女が動くと、自然に視線が集まった。
「あの子、すごい」
奏が言った。
「ダンス?」
「うん。大きい動きじゃないのに、目が行く。指先とか、顔の向きとか、全部ちゃんとしてる」
天音は奏の横顔を見た。
その瞳には、憧れとも悔しさともつかない光が宿っていた。奏は、身体を動かすことが好きだった。高校の文化祭でも、ダンス企画に出た時は誰よりも楽しそうだった。けれど、それを将来につなげるとは一度も考えていなかったはずだ。
今、奏の中で何かが静かに鳴り始めている。
天音はそう感じた。
二曲目は、少し切ないメロディの曲だった。
センターの子が、マイクを両手で握りしめて歌う。明るい笑顔ではなく、どこか寂しげな表情を浮かべていた。歌詞の内容までは完全には聞き取れない。それでも、声の震えや目線の動きから、何かを届けようとしていることは分かった。
天音の胸に、そっと触れるものがあった。
歌は、ただ上手ければいいわけではないのかもしれない。
この人は、今、誰かに向かって歌っている。
そう思った。
天音は昔から、歌うことが嫌いではなかった。カラオケに行けば、友人から「天音は声がきれい」と言われることもあった。けれど、それは趣味の範囲だった。誰かの前に立ち、その人の心に届くように歌うなんて、考えたこともなかった。
ステージの下で、小さな女の子が手作りのうちわを持っていた。
天音はその子に気づいた。
小学校低学年くらいだろうか。少し大きめのブレザーを着て、母親らしい女性の隣に立っている。うちわには、ステージ上のメンバーの名前らしい文字と、小さな星のシールが貼られていた。
女の子は、瞬きも忘れたようにステージを見つめていた。
曲の途中、そのうちわに気づいたメンバーが、ほんの一瞬、女の子に向かって手を振った。
その瞬間。
女の子の顔が、ぱあっと明るくなった。
まるで、自分だけに星が落ちてきたみたいに。
天音は、息を呑んだ。
胸の奥を、何かがまっすぐに貫いた。
アイドルって、こういうことなんだ。
華やかな衣装を着ることでも、テレビに出ることでも、注目されることでもない。
誰かの一日を、少しだけ特別なものに変えられること。
誰かが明日を頑張る理由を、ほんの少し渡せること。
その女の子の笑顔を見た瞬間、天音の中で、芸能界という言葉の形が少し変わった。
怖い世界。
厳しい世界。
傷つくかもしれない世界。
それはきっと間違いではない。
けれど、その中には、こんなにも温かい瞬間がある。
三曲目が終わると、観客から拍手が起こった。前方のファンたちは大きく声を上げ、偶然足を止めた人たちも手を叩いていた。スターリット・ベルの五人は息を切らしながら、何度も頭を下げた。
「ありがとうございます!」
「このあと、一階の物販スペースで特典会もあります。よかったら遊びに来てください!」
明るい声が響く。
ステージが終わると、集まっていた人たちは少しずつ散っていった。ファンらしい人たちは物販スペースへ向かい、買い物途中の人たちは再び店へ戻っていく。あれほど輝いていたステージも、スタッフが片づけ始めると、ただのイベントスペースに戻っていった。
けれど、天音と奏はしばらくその場を動けなかった。
「……すごかったね」
奏が言った。
「うん」
天音は頷いた。
「有名なグループなのかな」
「分からない。でも、ファンはいたね」
「うん」
奏は手すりに両手を置いたまま、ステージのあった場所を見下ろしていた。
「私、なんか勘違いしてたかも」
「何を?」
「アイドルって、もっと遠いものだと思ってた。テレビの中とか、大きなステージとか、そういう場所にいる人たちだけがアイドルなんだと思ってた」
奏はゆっくりと言葉を続けた。
「でも、ああいう小さなステージでも、ちゃんと誰かのために歌って踊ってるんだね」
「うん」
「しかも、すごく本気だった」
天音は、女の子の笑顔を思い出した。
「私も、少し分かった気がする」
「何が?」
「佐藤さんが言ってたこと」
奏が天音を見る。
「芸能界っていうと、テレビとか有名になることばかり考えてた。でも、誰かに何かを届ける仕事でもあるんだなって」
「うん」
奏は小さく頷いた。
「私も、あんなふうに踊れたらって思った」
天音は少し驚いた。
「踊りたいの?」
奏は自分でも驚いたように目を瞬かせ、それから照れたように笑った。
「分かんない。でも、見てたら身体が動きそうになった。ステージの上って、怖そうだけど、気持ちよさそうだった」
奏らしい言葉だと思った。
怖さより先に、身体が反応する。
天音にはできない感じ方だった。
「天音は?」
「私は……」
天音は少し迷った。
「歌っている子を見て、すごいと思った。上手いとか下手とかじゃなくて、ちゃんと誰かに向かって歌ってた」
「天音、歌うまいもんね」
「カラオケとは違うよ」
「でも、天音の声って、聞いてると落ち着くよ」
「急に何」
「本当のこと」
奏はまっすぐ言った。
天音は照れくさくなって、視線をそらした。
自分の声が誰かに届く。
そんなことを考えたことはなかった。けれど、あのステージを見た後では、その可能性を完全に否定することもできなかった。
二人は、しばらくモールの中を歩いた。
けれど、買い物に集中することはできなかった。服を見ても、アクセサリーを見ても、頭の中にはさっきのステージが残っている。サイリウムの光。息を切らしながら笑うアイドルたち。手作りのうちわを握った女の子の表情。
普通の日曜日をしに来たはずだった。
けれど、普通の日曜日の中に、また別の扉が現れてしまった。
帰りの電車の中、二人は並んで座っていた。窓の外を、夕方の街並みが流れていく。向かいの席では、小さな子どもが母親の膝にもたれて眠っていた。車内には穏やかな疲れが漂っている。
奏はスマートフォンで、さっきのグループを検索していた。
「スターリット・ベル、結成三年目だって。メジャーデビューはまだみたい」
「三年もやってるんだ」
「うん。ライブ、月に何本も出てる。地方も行ってるみたい」
奏の声には、さっきまでとは違う重みがあった。
天音も画面をのぞき込む。そこには、彼女たちのライブスケジュールが並んでいた。ショッピングモール、ライブハウス、野外イベント、配信番組。華やかな大舞台ばかりではない。むしろ、地道な活動の方が多いように見えた。
「大変そうだね」
天音が言った。
「うん」
「でも、楽しそうでもあった」
「うん」
奏は画面を閉じた。
「ねえ、天音」
「ん?」
「もし、佐藤さんの話を聞きに行ったとしてさ」
「うん」
「すぐに何か決めるんじゃなくて、ちゃんと全部聞いて、ちゃんと考えよう」
天音は奏を見た。
「珍しいね。奏が慎重なこと言うの」
「私だって考えるよ」
「ごめん」
「でも、今日のライブ見て思った。あの人たち、きっと簡単にあそこに立ってるわけじゃない。ステージに立つって、たぶん思ってるよりずっと大変」
「うん」
「だから、憧れだけで決めちゃいけない。でも、怖いだけで逃げるのも違う気がする」
天音は、その言葉を静かに受け止めた。
奏は、ただ夢に浮かれているわけではなかった。今日のステージを見て、むしろその厳しさにも触れたのだと思う。アイドルたちの笑顔の奥にある努力や疲労、積み重ねを、奏なりに感じ取っていたのだ。
「私も、そう思う」
天音は言った。
奏が少しだけ笑った。
「じゃあ、お父さんにも、今日見たライブのこと話そう」
「うん」
「ただ芸能界に興味があるっていうより、ちゃんと見て、考えたって伝えたい」
「そうだね」
電車が次の駅に近づき、車内アナウンスが流れた。
天音は窓の外を見た。
夕暮れの空は、淡いオレンジから薄紫へと変わり始めていた。ビルの窓に反射する光が、どこかステージの照明の残像のように見える。
あの女の子の笑顔が、まだ胸の中に残っていた。
天音は、自分がステージに立つ姿を想像しようとした。
眩しいライト。
見知らぬ観客。
震える足。
マイクを握る手。
想像しただけで怖くなった。
けれど、その向こうに、もし誰かの笑顔があるのなら。
たった一人でも、自分たちを見て、少し元気になってくれる人がいるのなら。
その怖さの先を、少しだけ見てみたいと思った。
家に着く頃には、空はすっかり暗くなっていた。
玄関のドアを開けると、リビングからテレビの音が聞こえた。父が帰宅している。母の声もする。
天音と奏は靴を脱ぎ、顔を見合わせた。
「話す?」
奏が小さく聞く。
「うん」
天音は頷いた。
「昨日よりは、ちゃんと話せる気がする」
二人はリビングへ向かった。
父はソファでニュースを見ていた。母はテーブルにお茶を置いている。テーブルの端には、あの名刺がまだ置かれていた。
父が二人に気づき、テレビの音量を下げた。
「出かけていたのか」
「うん」
天音は答えた。
「ショッピングモールに行ってきた」
「そうか」
父はそれだけ言って、視線を名刺へ向けた。
言わなければ。
天音はそう思った。
怖いけれど、今は昨日とは違う。
ただ分からないまま揺れているだけではない。今日、二人は一つのステージを見た。あの場所で、誰かが本気で歌い、踊り、誰かを笑顔にしていた。
「お父さん」
天音は静かに口を開いた。
「今日、ショッピングモールで、アイドルのライブを見たの」
父は少し意外そうな顔をした。
奏が続ける。
「有名な人たちじゃなかったと思う。でも、すごく一生懸命で、見てる人たちが本当に嬉しそうで」
天音は、女の子の話をした。手作りのうちわを持っていたこと。アイドルが手を振った瞬間、その子の表情が輝いたこと。自分がそれを見て、アイドルという仕事の見え方が少し変わったこと。
父は黙って聞いていた。
母も、何も言わなかった。
「私たち、まだ何も決めてない」
天音は言った。
「でも、話を聞いてみたいって気持ちは、昨日より強くなった。芸能界に入りたいって簡単に言うつもりはない。でも、ちゃんと知りたい。自分たちに何ができるのか、できないのか」
奏が隣で頷く。
「もし危ない話だったら、絶対に断る。お父さんとお母さんにも一緒に来てほしい。契約とかも、勝手に決めない。でも、何も聞かないまま終わらせたくない」
父は、長い間黙っていた。
天音はその沈黙の中で、自分の心臓の音を聞いていた。
やがて父は、深く息を吐いた。
「……今日、そのライブを見て、浮かれたわけじゃないんだな」
天音と奏は顔を見合わせた。
「浮かれた、というより」
奏が少し考えてから言った。
「怖くなった。でも、ちゃんと見てみたくなった」
父は奏を見て、それから天音を見た。
「怖くなったのに、見てみたいのか」
「うん」
天音が答えた。
「怖いからこそ、ちゃんと知りたい」
父はテーブルの上の名刺を手に取った。
昨日よりも、その表情は少しだけ柔らかかった。もちろん、不安が消えたわけではないだろう。反対する気持ちも、きっとまだある。それでも、父は二人の言葉をただ否定しようとはしなかった。
「分かった」
父は静かに言った。
「一度だけ、話を聞きに行こう」
奏が息を呑んだ。
天音も、言葉が出なかった。
「ただし」
父はすぐに続けた。
「父さんと母さんも一緒に行く。契約の話が出たら、その場では絶対に決めない。必要なら弁護士にも見てもらう。学業をどうするのかも、必ず確認する。それが条件だ」
「うん」
天音の声が震えた。
「ありがとう、お父さん」
「ありがとう」
奏も頭を下げた。
父は名刺をテーブルに戻した。
「まだ認めたわけじゃない。話を聞くだけだ」
「分かってる」
奏はそう言ったが、その表情には隠しきれない光があった。
天音も、胸の奥に小さな熱を感じていた。
それは夢というにはまだ曖昧で、覚悟というにはまだ弱いものだった。
けれど、確かに何かが始まろうとしていた。
その夜、天音はベッドに入ってからも、なかなか眠れなかった。
目を閉じると、ショッピングモールのステージが浮かぶ。スターリット・ベルの五人。サイリウムの光。手作りのうちわ。あの女の子の笑顔。
そして、佐藤美咲の声。
あなたたちには、お二人にしかない、特別な可能性があります。
天音は寝返りを打ち、天井を見つめた。
自分たちに、そんなものが本当にあるのかは分からない。
でも、もしあるのなら。
もし、まだ自分たちの知らない自分たちがいるのなら。
それを一度だけ、見てみたい。
隣の部屋から、かすかに物音がした。奏もまだ眠っていないのかもしれない。
天音はスマートフォンを手に取り、メッセージ画面を開いた。
『起きてる?』
送ると、すぐに返信が来た。
『起きてる』
天音は少し笑った。
『今日のライブ、まだ頭に残ってる』
奏からの返事は、すぐに来た。
『私も』
少し間が空いて、次のメッセージが届いた。
『あのステージ、忘れられない』
天音は画面を見つめた。
忘れられない。
本当にそうだった。
昼間見た小さなステージは、きっと大きなニュースになるようなものではない。世間の多くの人は、今日あの場所でライブがあったことすら知らない。けれど、天音と奏にとっては、人生の向きが少しだけ変わるほどの出来事だった。
天音はゆっくり文字を打った。
『私たちも、ちゃんと考えよう』
奏から返ってきた言葉は短かった。
『うん。二人で』
天音はその画面をしばらく見つめてから、スマートフォンを枕元に置いた。
二人で。
その言葉が、胸の中で静かに光っていた。
やがて眠りに落ちる直前まで、天音のまぶたの裏には、ステージの光が残っていた。
それは、強烈なスポットライトではない。
ショッピングモールの小さなステージで見た、ささやかな、けれど消えない光だった。
その光は、天音と奏の未来に、きらめきの残像として焼き付いていた。




