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アルカナ堂は今日もゆく〜素材屋リュネルの秘録〜  作者: 磨羯瑞花


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第47話 魔導工業都市アウレクシア〜慰撫〜

街が燃えている。

つい数刻前まで確かに存在した人々の営みは、鼓膜を裂く轟音と共に跡形もなく消し飛んだ。

視界を埋め尽くすのは、ただ無惨な焦土のみ。

街の一角を丸ごと喰らい尽くした狂暴な爆炎が、建物の輪郭も、路地の境界も、昨日までそこにあった日常の痕跡さえも乱暴に溶かし合わせ、一面を瓦礫と灰の海へと変えてしまった。

立ち昇る黒煙が幾重にも折り重なり、アウレクシアの白い街並みを誇った空を、重く濁った鉛色へと塗り潰していく。

絶望に泣き崩れる声。

家族の名を叫ぶ声。

血に染まった身で助けを求める声。

アウレクシアの誇っていた都市機構は至る所で悲鳴を上げていた。


リュネルはその中でただ膝をついていた。

周囲の被害状況の分析、救助活動への着手。

本来の彼であれば、瞬時に思考を巡らせ、最適解を導き出して行動しているだろう。

だが、今この瞬間だけは、目の前の小さな光景から視線を外すことがどうしてもできなかった。

──にいちゃんは、俺だけのヒーローだった。

消え入りそうだったロイの最期の言葉が、耳の奥底にこびりついて離れない。

目の前に座り込むレギスは、もう泣いていなかった。

涙が出尽くしてしまったのか、あまりに巨大な喪失に精神が防衛本能を働かせたのか、泣き方そのものを忘れてしまったかのように。

ただ、すべての感情が抜け落ちた虚ろな表情で、微動だにしない弟の亡骸を抱き抱えている。

気持ちよく眠りについた弟を、絶対に起こさないよう細心の注意を払うかのように、そっと。

リュネルはその傍らで、かける言葉を見失っていた。

いつもの、彼ならば何かしら適切な言葉を紡ぎ出していただろう。

深く傷ついた者を優しく宥め、行き場のない怒りを鎮め、暗闇の中にいる者へ次の一歩を示すための希望の言葉を。

けれど今、この絶望の底にいる幼い少年に、一体どんな言葉をかければいいというのか。

『大丈夫だ』

─そんなはずがない。

 たった一人の家族を理不尽に奪われて、大丈夫なはずがない。

『君のせいじゃない』

─誰が悪いかを決める権利が、彼を一人で危険な場所に踏み込ませた自分にあるというのか。

『まだ君には、先の未来がある』

─未来などという光に満ちた言葉が、明日を永遠に奪われたこの小さな亡骸の前で、どれほど空々しく残酷に響くだろう。

だから、リュネルはただ、沈黙したままそこにいた。

レギスが弟の温もりと一緒に居られるこの最後の時間を、大人の身勝手な言葉にも、どんな喧騒にも、決して奪わせないために。

     

「先生!」

瓦礫と黒煙の向こうから、聞き慣れた声が響いた。

リュネルが、重い首を動かしてゆっくりと顔を上げる。

もうもうと立ち込める煙の向こうから大柄な人影が走ってきた。

そのすぐ後ろには、抜身の剣を手にしたカリナの姿もある。

「リュネルさん!」

二人とも、熾烈な戦闘と爆発をくぐり抜けてきたためか、酷い有様だった。

ソランの上着は肩口から大きく裂け、煤と埃のせいで元の生地の色すら判別しにくい。

額から血を一筋流しているが、彼自身のタフさならば大事ではないだろう。

カリナも上着の袖が激しく焦げ、頬には細い裂傷が走っている。

「先生、無事か!?」

ソランは積み重なった瓦礫を弾かれたように飛び越えて駆け寄ると、リュネルの肩を両手で強く掴んだ。

「どこか痛むところはないか!? 血は出てるか!? 骨は折れてねぇか!」

「……僕は、大丈夫だ」

リュネルは、肺の奥から澱んだ空気を吐き出すように短く答え、二息ほど間を空けて続けた。

「敵の空間転移に巻き込まれて、外の通りに弾き出された。だから、爆心からは距離があったんだ」

「転移?」

「その話はあとで」

その声に含まれた尋常ではない重さと暗さに、ソランはハッとして、初めてリュネルの視線の先へと目を向けた。

「……」

その光景を目にした瞬間、ソランの表情から一瞬にして温度が失われた。

カリナも一歩遅れて追いつき、その小さな亡骸を見て、同じように言葉を失い立ち尽くす。

ボロボロになったレギスと、その細い腕の中に抱かれた少年。

そこに何が起きたのか、二人とも一目で理解してしまった。

「……弟、か?」

ソランの声が乾いた砂のように掠れていた。

レギスは、何も答えなかった。

代わりにリュネルが小さく頷いた。

「…あぁ、ロイ君だ」

ソランはひどく悔しそうな表情で強く歯を食いしばった。

「……そう、か」

口から出たのは、たったそれだけ。

だが、彼の紅い瞳の奥底では、街を焼く炎よりも猛烈な昏い感情が燃え上がっていた。

純粋な怒り。

己の無力さへの悔しさ。

そして、救えなかった命への深い悲しみ。

だが、どれほど怒りで拳を白くなるまで握り締め、振り上げたところで、今ここでその拳を叩きつけるべき相手は誰もいないのだ。

あの忌まわしい工房はすでに跡形もなく吹き飛び、子供たちを使い捨ての道具のように扱っていた『門』の人間たちも、多くが爆発に巻き込まれた。

ロイをこんな目に遭わせた者たちの姿は、もうここにはない。

その虚しい事実が、彼の胸の内で燻る怒りを、さらに行き場のない、腹の底を焼き焦がすような苛立ちへと変えていく。

「……くそッ」

ソランが、絞り出すように唸り声を漏らす。

「くそっ……!!」

行き場のない感情を込めて足元の瓦礫を思い切り蹴り飛ばすと、砕けた石片が激しく跳ね、黒く焦げた壁に当たって乾いた虚しい音を立てた。

「なんでだよ…………助けに、来たんだろ……」

固く握られた拳が、小刻みに震えていた。

「俺たち……助けに来たはずだっただろ!?」

その血を吐くような問いに、答えられる者はここにはいなかった。

カリナが、剣を静かに鞘に納めて歩み寄ると、レギスの前で片膝をついた。

真っ直ぐに背筋を正し、自身の胸元に右手を添えて、深く頭を下げる。

「……間に合わなくて、本当にごめんなさい」

それが、己の立場において正しい振る舞いなのか、彼女自身にも分からなかった。

だが、今の彼女には、散っていった命へのせめてもの敬意と、己の無力さを詫びる他に、伝えるべき言葉が見つからなかった。

その時、ずっと動かなかったレギスの耳がほんの少しだけピクリと動いた。

「……あんたらのせいじゃねぇよ」

固く閉ざされていた口を、レギスはゆっくりと開いた。

その声は、周囲で燃え盛る炎の音や建物の崩れる音にかき消されてしまいそうな程、弱々しく、擦り切れそうだった。

「お、れが………全部、おれが悪いんだ。俺が……ロイをあの場所に、行かせたんだ」

「レギス」

リュネルがひび割れた心を包み込むような、柔らかい声で名を呼ぶ。

「だって、そうだろ……」

レギスは腕に抱く弟の血に汚れた顔から、決して目を離そうとしない。

「金がなかった。薬も買えなかった。美味い飯だって、腹いっぱい食わせてやれなかった」

懺悔のような言葉が紡がれるたび、声が少しずつ崩れていく。

「工房で簡単な仕事さえしたら……お前の病気も治してやるって、あいつらがそう言ったから……俺が……無理して行ってこいって、あいつの背中を押したんだ」

「……うん」

「検査だけで、三日で必ず帰ってくるって……そう約束したから……だから……だから……っ」

そこから先の言葉は嗚咽に飲み込まれて形にならなかった。

それでも、リュネルはその凄惨な後悔の言葉を安易に否定しようとはしなかった。

今ここで、大人の無責任な優しさで「そんなことはない、君は悪くない」と言葉をかけることが、この絶望の淵にいる少年を救うとは、到底思えなかったからだ。

ただ、静かに、紡ぐように言った。

「それは、今の君が急いで決めることじゃない」

「……何を」

「この理不尽な悲劇の中で、誰が一番悪かったのかを」

レギスが空虚な顔をゆっくりと上げる。

「君は今、その重すぎる問いの答えを、無理に出そうとしなくていいんだよ」

「でも──」

リュネルは手を伸ばし、レギスの泥と涙にまみれた頬を指先でそっと拭った。

「今の君じゃ、全部を自分のせいにしてしまいそうだから」

レギスの大きな瞳が、その言葉に激しく揺れた。

ソランとカリナが、息を呑んでリュネルの横顔を見る。

「自分自身のせいだった、自分が全部悪かったって決めてしまえば」

一呼吸置いて、リュネルは人の心の痛ましい道理を突くように続けた。

「それ以上、難しいことを考えなくて済むからね。誰を恨めばいいのかすら分からないこの滅茶苦茶な状況で……ロイ君を助けられなかったという、事実から目を逸らすことができる」

「……ッ」

「でも、それは」

リュネルは少し迷って言葉を選び、そして、深い慈愛を込めて言った。

「君一人が背負って生きていくには、あまりにも重すぎる罰だよ」

レギスは再び深く俯き、ロイの身体を抱きしめる腕の力を強めた。

その表情は影に隠れて見えないが、引きつったような息が喉から漏れるたび、彼の小さな背中が痛々しいほどに跳ねていた。

     

突如、遠く離れた区画で何かが爆発する重低音が響いた。

その不穏な音に、四人が反射的に顔を上げる。

工房区画の中心とは全く違う方角から、黒い煙の柱が一本、新たに空へと真っ直ぐ昇っていた。

「……またですね。これで三つ目ですよ」

カリナが周囲の警戒を怠らずに低く呟いた。

リュネルは黙ったまま、立ち昇るその新たな煙をじっと見つめた。

この未曾有の同時爆破は、リッダ工房だけを狙ったものではないらしい。

リュネルは胸元にしまった、あの焼け焦げた連絡符に服の上から触れた。

──SSS(ドライ)が動いた。

──計画はすべて中止。

──即刻、全速力で退避を。

(……彼らの真の目的は、一体何だったのかな)

門の壊滅か。

ヴラタ技研連盟との繋がりの隠蔽か。

非人道的な人体実験の証拠の隠滅か。

違法素材の流通ルートの完全破壊か。

それとも、重要な機密資料の奪取、あるいは特定の人物の暗殺か。

(……その全部、か?)

リュネルは次々と頭に浮かんでは不気味に漂う推測の数々を断ち切るため、奥歯をギリッと強く噛み締めた。

巨悪の思惑など、今はどうでもいい。

今、自分が一番先にしなければならないことは、目の前にあるのだ。

「レギス」

「……何だよ」

顔を上げた少年の声は、すでに魂の半分が抜け落ちたように疲れ切っていた。

リュネルはレギスの震える肩にそっと手を乗せ、彼のペースに合わせるようにゆっくりと尋ねた。

「君は、この先、どうしたい?」

「……」

「すぐに答えを出さなくてもいい。でも、君の意思を聞いておきたいんだ」

レギスは何も答えなかった。

冷たくなった弟を抱いたまま、ただ呆然と、炎に包まれて崩れていく故郷の街を眺めていた。

「……分かんねぇ」

長い、あまりにも長い沈黙のあと、枯れた井戸から水を汲み上げるように、絞り出した声でこたえた。

「もう……何も、分かんねぇよ」

声がひどく小さかった。

「俺の頭の中には、ロイを助けることしか、考えてなかったんだ」

「うん」

「どんな汚い手を使ってでも金集めて……あいつらから取り返して」

「うん」

「そしたら……」

レギスの喉が嗚咽で激しく詰まる。

「そしたら、また、二人で一緒に暮らして……」

一粒、ロイの血に汚れた頬へ、透明な涙が落ちた。

「帰る家も……もうなくなっちまったし」

二粒。

「一緒に帰るロイも……もう、いねぇし」

三粒。

「おれ……」

限界まで張り詰めていた心の糸がぷつりと切れ、せき止めていた感情が鉄砲水のように溢れ出した。

「俺、これから……何すりゃいいんだよ……」

大粒の雫が、埃に塗れた頬に幾筋もの跡を作る。

「何のために………これから、何のために生きりゃいいんだよ……ッ」

その悲痛な魂の叫びを聞いて、リュネルはほんの少しだけ、苦しげに目を伏せた。

そして、彼にしか出せない静かで穏やかな声で言った。

「うちの店に、来る?」

「……は?」

涙で濡れた大きな瞳が、信じられないものを見るように、確かにリュネルの顔を捉えた。

「ルキフェリア王国にある、僕の営んでいる店さ」

レギスは自分がたった今まで泣いていたことすら忘れてしまったような、間の抜けた顔でリュネルを見ている。

背後にいたソランとカリナも、突然の提案に驚き、リュネルへと視線を向けた。

「住み込みのアルバイトとしてね」

「……はぁ?」

「衣食住、三食昼寝付き。部屋はもちろん個室だ」

「おい、ちょっと待て…」

「当然、働きに応じて給料もしっかり出すよ。ブラックな職場じゃないからね」

「ちょ、お前……」

「仕事内容は、店番。店内の掃除。商品の荷物運び。素材の整理。たまに、裏の畑の世話とか、素材採取の手伝いもしてもらうかもしれないな」

「だから、ちょっと待てって!!」

リュネルが自分の返事も聞かずにあまりにもスラスラと具体的な雇用条件まで進めてしまうため、レギスも悲しみを通り越して思わず大声で叫んでしまった。

「急に、お前は何言ってんだよ……頭おかしいのか!?」

「そうかな。急だった?」

「急すぎるだろ!」

「でも、君が今、『何のために生きればいいか』と僕に聞いたからね」

「俺、別に聞いてねぇよ! 独り言みたいなもんだろ!」

「何のために生きればいいか分からないなら、とりあえず生きる理由が見つかるまで、僕の店で働けばいい」

「だからって、この状況でいきなり『俺の店で働け』って話になるか、普通!?」

矢継ぎ早にツッコミを入れるレギスの声に、先ほどまでの死人のような虚ろさが消え、少しだけ彼本来の生気と子供らしいキレが戻っていた。

こんな絶望的な状況であるにもかかわらず、その見事な掛け合いに、背後で見ていた二人もほんの僅かに口元を緩める。

リュネルも狙い通りだと言わんばかりに柔らかく笑った。

「…少なくとも、この国に君が一人きりで残るよりは何倍もマシな選択肢だと思うけどね」

レギスは複雑そうに眉間にしわを寄せ、バツが悪そうにリュネルの視線から顔を逸らした。

「君の家もなくなった。この国の混乱状態は、しばらく続くだろう。それに、ゲートの上層部の状況が全く判らない以上、すでに顔を知られている君がこの街で一人でいるのは危険かもしれない」

レギスは一瞬だけ縋るように顔をリュネルの方に向けたが、すぐに己の立場を思い出したのか、暗く俯いてしまった。

だが、その隠された表情に一人ぼっちになることへの強烈な不安と恐怖の色が見えた事は、リュネルには言うまでもなかった。

「それに」

リュネルは俯くレギスの顔を伺うように、少しだけ悪戯っぽく首を傾けた。

「君のあの魔法。僕は個人的に結構、気に入ってるんだ」

「……俺の、まほう?」

レギスは、不意を突かれたようにぎこちない動きで顔を向けた。

「うん。認識の死角に潜り込む、とても面白い魔法だ」

「…んなもん、人からモノを盗むことにしか使えねぇ、汚い力だぞ」

「そんなことないよ」

リュネルは、自嘲するレギスの目を真っ直ぐに見据えて即答した。

「力の使い方次第で、君は誰かを確実に守ることもできる」

「……」

「僕がちゃんと基礎から訓練してあげれば、もっともっと上手くなるよ」

昨日もあの廃屋で同じことを言われたのを、レギスは鮮明に思い出した。

もしもそんな機会があれば。

誰かに正しく必要とされるなら。

心の中で、本当に一瞬だけ、そう夢想した。

あの時は、弟を一日でも早く助け出すために必死だった。

だが、もう、その守るべき弟は、腕の中で冷たくなっている。

「……俺」

レギスが、自らの罪を告白するように呟く。

「汚い、スラムの泥棒だぞ」

「知ってるよ。僕が被害者本人だからね」

「お前からも、モノを盗った」

「それも知ってるよ」

「……お前以外からも、いっぱい色んなモノを盗ってる」

「それについての贖罪は、うちに来てから、落ち着いてちゃんと話そうか」

「……怒るか?」

「盗んだ内容と理由によるかな」

すると、背後にいたソランがいつもの調子の良い声で余計な口を挟んできた。

「おいチビ、気をつけるんだな。先生を本気で怒らせると、魔法じゃなくて素手で頭をスイカみたいに握り潰されるから、覚悟しとけよ」

「ソラン」

リュネルが、笑顔のまま声のトーンを絶対零度まで落とした。

「……ごめんなさい、調子に乗りました」

ソランは首をすくめ、カリナの後ろへ隠れるように素早く引き下がった。

その一連のコントのようなやり取りを見て、レギスがほんの少しだけ口を開けて呆然とした。

「……なんなんだよ、お前ら、ほんとに。……人の調子狂わせる天才かよ」

その声はまだ涙でひどく濡れていた。

だが、そこには確かに、僅かに笑いに近い、人間らしい感情の音が混じっていた。

それが消えると、レギスは再び腕の中の静かな弟へと思いを馳せるように見つめた。

「………ロイも」

擦り切れたような、懇願するような声。

「うん?」

「ロイも……一緒に、あんたの国へ連れてってくれ」

リュネルの表情が静かな決意の色に変わる。

「……もちろん。そのつもりだよ」

「墓」

「うん」

「ちゃんとした、綺麗な墓……作ってやりたいんだ」

レギスは弟の冷たい頬へ自らの頬をすり寄せる。

「こんな……」

声が、悲しみで再び崩れる。

「こんな、空が煙ばっかで、くせぇ匂いがする場所じゃなくて……」

「うん」

「もっと……風が気持ちよくて、静かな場所」

「そうしよう」

「きれいな花とか……」

レギスの目に涙がまた、溢れ始める。

「きれいな花、いっぱい置いてやりたい」

「ロイ君は、何の花が好きだった?」

「……知らねぇよ……」

レギスは泣きながら、自嘲するように少しだけ笑った。

「ロイのやつ、スラムのゴミ山しか知らないから、花なんか興味なかったし……名前も知らねぇよ……」

「なら」

リュネルが、優しく言う。

「君がロイ君に似合う花を選んであげればいい」

「……俺も、花の事なんか、一つもわかんねぇよ」

「じゃあ、僕が一緒に選んであげるよ」

「……」

「うちには植物に詳しい人間も来るからね。きっとロイ君にぴったりの花が見つかるはずだ」

その言葉にレギスの強がっていた顔が、完全に崩壊した。

「……なんで……」

「うん?」

「なんで……そんなに普通に……優しくするんだよ……っ」

涙がダムが決壊したように止まらない。

「俺みたいな……ゴミみたいな泥棒なんかに……」

リュネルは何も言わず、ただ静かに腕を伸ばし、ロイを抱くレギスごと、その小さな身体を包み込むように優しく抱き締めた。

「……っ!!」

レギスの身体が雷に打たれたようにビクッと硬直する。

自分を包み込む、大人の腕の力強さと温度。

それは、彼が過酷なスラムで生き抜く中で、もう久しく感じていなかった、自分を外敵から守り、無条件につつみ込んでくれる強くも優しい体温だった。

レギスの泥だらけの指が、縋りつくようにリュネルの外套の生地を強く掴んだ。

「うっ……ぁ……」

そして、レギスはもう己の感情を無理に抑え込むのをやめ、湧き上がる悲しみと安堵に任せて、リュネルの背中に腕を回した。

そして、大人の前で声を殺して泣くことを、ついにやめた。

「うあぁぁぁぁ……っ!!」

崩壊し、瓦礫だらけになった死の街の片隅に、少年の魂の底からの泣き声が響き渡った。

「ロイ……っ、ごめんな……っ」

冷たくなった弟を抱き、温かいリュネルの胸へ縋りつき。

「ロイィィ……!! ロイィィィィッ!!」

何度も、何度も、失われた半身の名前を絶叫する。

リュネルはただ、少年の泣き声を受け止め、その震える背中を宥めるように優しく撫で続けた。

『もう大丈夫だ』とも、『泣くな』とも決して言わない。

涙が枯れるまで、泣けるうちは泣けばいい。

今この瞬間だけは、彼はスラムで生きる強かな少年ではなく、ただ一人の弟を愛する、等身大の子供に戻っていいのだから。

誰も強がる必要などないのだ。

     

やがて、レギスの激しい泣き声が、少しずつしゃくりあげるような弱いものへと変わっていった頃。

リュネルは、彼を安心させるように、極めて静かに声をかけた。

「レギス、ロイ君を少しの間、預かっても良いかい?」

レギスは、腫れた目を乱暴に袖で擦りながら、まだ残る警戒心で強がってリュネルを睨みつけた。

「……何する気だよ」

「このままの状態だとルキフェリアへ帰るまでに、彼の身体を保てない」

レギスの表情が、その残酷な現実を突きつけられてサッと強張る。

「大丈夫、彼を傷つけたりは絶対にしないよ。保存魔法をかけて、帰るまでの間、僕の魔法空間の中で眠ってもらうだけだ」

レギスはロイを奪われまいとするように、隠すように自分に寄せた。

「……僕を、信用できない?」

レギスは少しの間黙って葛藤したが、それからゆっくりと首を横に振った。

「……信用、する」

「ありがとう」

「でも」

「うん」

「変なことしたらマジで一生許さねぇからな」

「分かった」

「本気だからな。俺は根に持つタイプだからな」

「うん。重々承知しているよ」

リュネルはレギスの細い腕の中から、ロイの身体を落とさないようにしっかりと受け取った。

その瞬間、リュネルの表情がわずかに曇った。

軽かったのだ。

それは十歳の少年とは思えないほど、あまりに軽すぎた。

この子がスラムでどれほど過酷な飢餓を強いられてきたか。

その悲痛な事実が、腕の重みを通じてリュネルの胸の奥を鋭く抉った。

込み上がる感情をすぐに切り替えて、リュネルは白い布を取り出す。

上質な薄い絹のような布。

それをリュネルが杖の先端で優しく撫でた途端、布の表面に、魔力を帯びた淡い銀色の紋様が波紋のように広がった。

次に、ロイの頭から足先までを杖でなぞり、身体を綺麗にした。

そして─

『……眠りを乱さず、時よ、その歩みを緩めよ。

 永久の眠りは、ただ安らかであれ』

リュネルが静かな詠唱を紡ぐと、布がまるで自らの意思を持っているかのように自然と動き、ロイの足元からゆっくりと身体を包み込んでいく。

静かに、丁寧に。

それはまるで、眠りについた愛しい我が子に毛布を掛けてあげるような優しい動きだった。

最後に、リュネルはロイの冷たい額へ、そっと指先で触れた。

「……おやすみ、ロイ君」

ロイの身体を包んだ布が淡い光を放ち、その光の中へと――リュネルの魔法空間へと消えていく。

レギスの腕の中から、ロイの物理的な重さが完全に消え去った。

「……」

空になった自分の両腕をレギスはしばらくの間、茫然と見つめていた。

胸の中でまだそこにあるはずの何かを抱くように、腕を曲げたまま。

リュネルはその小さな肩へ慰めるように静かに手を置いた。

その時、遠くの街角から空気を裂くような甲高い警笛の笛の音が響き渡った。

その音にいち早く周囲の変化を察知したカリナが顔を上げる。

「アウレクシアの治安部隊です。こちらへ向かってきています」

瓦礫と立ち込める土煙の向こうで、武装した数十人の部隊の人影が慌ただしく揺れ動いているのが見えた。

「こんな混乱のど真ん中に居るのを見られるのはマズイですね。…どこか安全な場所に移動しよう」

リュネルが周囲を見回して言う。

「おい、レギス」

ソランがレギスの隣へ立ち、見下ろして言った。

「お前、歩けるか?」

「……歩けるに決まってんだろ」

レギスは強がって自力で立とうとするが、極度の緊張と精神的疲労の反動で足に全く力が入らないようで、ぐらりと前へ身体が傾いた。

ソランが咄嗟にその腕を掴み、支えようとした。

「ほら、無理すんな」

「いらねぇって言ってんだろ! 離せよ!」

レギスは意地を張って抵抗しようとするも、大人と子供では力の差は歴然としている。

だが、ソランもレギス相手に強引に引っ張るような真似はせず、大きな溜め息をついて彼から手を離してやった。

「その生まれたての子鹿みたいな足で、何言ってんだ。置いてくぞ」

「うるせぇ! 自分で歩ける!」

「途中で転んだりぶっ倒れたりしたら、先生に迷惑かけることになるんだぞ!!」

レギスは反論しようと口を開いたが、ソランの正論に言い返せず、しばらく彼を恨めしそうに睨むと、ポツリとこぼした。

「……じゃあ、せめて、背負ってくれ」

ソランは思いがけず素直な要求に少し驚いたような顔をみせたが、すぐに「仕方ねぇな」と満足気な表情になると、レギスに背を向けてその場にしゃがんだ。

レギスは恐る恐るソランの広い背中に体重を預けた。

彼がしっかり掴まった事を確認すると、ソランはすっくと軽快に立ち上がった。

リュネルはその光景を見て、ようやく少しだけ張り詰めていた空気を緩めた。

「じゃあ、行こうか」

リュネルの合図で一行は治安部隊の目を避けるように、裏路地を足速に移動し始めた。

ソランの背中に揺られながら、レギスは一度だけ、肩越しに後ろを振り返った。

そこにはもう、ロイはいない。

帰る家もない。

この数日間、ただ弟を探し出すことだけを考え生きてきた街。

その全てが炎と黒煙の中に消えていく。

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