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アルカナ堂は今日もゆく〜素材屋リュネルの秘録〜  作者: 磨羯瑞花


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第48話 魔導工業都市アウレクシア〜残夢〜

サイラスたちとの合流場所として指定されたのは中心街の端――先ほどまで戦闘を繰り広げていた工房区画とは真反対に位置する、今は使われていない旧発電施設だった。

外から見れば、錆びついた巨大な鉄骨が剥き出しになり、用途の分からない壊れた配管や巨大な機材が雑多に放置されているだけの廃墟である。

だが、その地下には彼らが万が一の際の一時的な退避場所として、事前に結界を張って確保していた小部屋が存在する。

リュネルたち一行が警戒しながらそこへ到着した時には、すでにサイラス、ニコラ、エルヴィンの三人が、緊迫した空気の中で待機していた。

彼らも無傷というわけではなかったようだ。

ニコラの額には血が滲む裂傷があり、エルヴィンの左腕には血の滲んだ包帯が巻かれている。

ただ、サイラスだけは、多少の傷はあるものの、いつもの完璧に整えられた胡散臭い笑顔が顔に張り付いていた。

「お帰りなさいませ。皆様、ご無事で何よりです」

「……そちらも、大変だったようですね」

「えぇ。ですが、幸いにも我々は運には恵まれたようでして」

サイラスの視線がリュネルの背後へと滑る。

ソランの背中で疲れ果てて眠りかけているレギスの姿と、そこにいるはずのもう一人の少年の不在を確認すると、サイラスはその洞察力で一瞬にしてすべてを察し、それ以上無粋な質問をしてくることはなかった。

「…皆様の無事は確認できました。まずは、手持ちの情報の整理を急ぎましょう」

サイラスはいつも通りの感情の波を排した静謐な声だった。

普段であれば薄情に感じるその『仕事人』としての気質が、今のリュネルたちにとっては、奇妙だがありがたく感じられた。

中央の埃っぽい机の上に、詳細なアウレクシア市街の地図が広げられる。

そこへサイラスが目印代わりの小石を地図の上へ次々と置いていく。

「現在、我々が確認できただけで、爆破ないし襲撃を受けたゲート関連施設は7か所」

「なな……」

その情報にリュネルは眉を寄せた。

「リッダ工房だけが狙われたわけではなかったんですね」

「ええ」

サイラスは、地図上に置いた小石を一つずつ指で指し示していく。

一つ。

「オルディナエネルギーの倉庫」

二つ。

「工房区北部の資材集積場」

三つ。

「リッダ工房」

四つ。

「旧サデウスキー邸」

五つ。

「ゲート構成員の出入りが見られた宿泊施設」

六つ。

「政府管轄外の、地下研究区画」

そして最後に。

「港湾地区にある倉庫です」

七つの小石の目印が、アウレクシアの地図の各所に散らばっている。

「これらすべての施設において、ほぼ同時刻、一斉に大規模な爆破ないし魔法攻撃が実行されました」

サイラスが、事実だけを淡々と告げる。

「……それらすべてが、ドライの仕業だと?」

カリナが小さく呟く。

「間違いないでしょう」

「断定できる証拠はあるのですか?」

リュネルが間髪入れず訊く。

「昨日、我々が目撃したドライの隊員と思わしき人物と、それに加え……倉庫とリッダ工房への攻撃に使われたと術式が、ガルディアがよく使用する大規模魔法式でしたので──」

サイラスはそこまで言うと、意味深に一度言葉を止めた。

「ですが、物証となり得るものは全て消え去りました」

部屋を重苦しい沈黙が支配した。

「全部、ですか?」

リュネルが眉をひそめる。

「ええ。各施設内の記録媒体は爆破によりすべて焼失。魔導記録装置も回路そのものが破壊されています」

「生き残ったゲートの構成員からの証言は?」

「ほぼ、何も知らない三下ばかりだ」

ニコラが答える。

「組織の全貌や、上層部の指揮系統を知る立場の者は、我々の網には一人も確認できていない」

「アウレクシア政府の捕虜になった者は?」

「すべて、混乱に乗じてアウレクシアの治安維持部隊に回収された。我々が手出しできる状況ではない」

「……つまり」

リュネルは、絶望的な状況を示す地図を睨みつけた。

「僕たちの手元には、ほとんど何も残っていないと?」

「誠に残念ながら」

サイラスが諦めたように薄く笑う。

その笑顔は普段の不敵さとは違い、どこか空虚で薄っぺらいものだった。

「…こちらからも報告があります」

リュネルは地下で遭遇したゲートのナンバー2、自称"バイロン"とのやり取りや、彼が見せた異常な反応、そして戦闘時の詳細な状況について、漏らすことなく事細かく話した。

「なるほど。つまり、組織のナンバー2である彼自身が、この同時爆発の事を知らされていなかったと?」

サイラスが顎に手を当てる。

「恐らく、ですが」

「推測ではなく、断言できますか?」

リュネルは、あの時のバイロンの顔を鮮明に思い出し、確信を持って答えた。

「僕の目には、間違いなくそう見えました」

「理由は?」

「僕との戦闘の最中、彼が何らかの知らせを受けたようなのですが、急に取り乱していました。アレは演技とは思えません」

あの時の彼の顔を思い出す。

余裕が完全に消え去った焦り。

そして、底知れぬ恐怖。

「“予定より早すぎる”と、そう口にしたんです」

サイラスの顎を撫でていた指が僅かにピタリと止まる。

「…確かに、そう口にしたんですね?」

「はい」

「となると」

カリナが現状のピースを繋ぎ合わせて推測を述べる。

「ゲートとガルディアは、完全な協力関係ではなかったということになります」

「あるいは」

サイラスがさらに深く思考を掘り下げるように続ける。

「少なくとも爆破については、ゲート側の上層部にすら知らされていなかったということだ」

「裏切りってことか?」

ソランが地図の上の小石を指先で苛立たしげにつつきながら言った。

「その可能性は、極めて高いですね」

サイラスが頷く。

「なんでだよ」

誰も答えない。

ソランは、複雑すぎる謀略に納得がいかないといった様子で地図を睨みつける。

「ガルディアは、ヴラタを手伝ってたんだろ? 」

「我々もその可能性が高いと考えていました」

「じゃあ、なんで急に全部ぶっ壊すんだよ! 」

「それが、」

サイラスの口元から、ついにいつもの営業スマイルが完全に消え去った。

「分からないのです」

彼にもそういった結論になる事があるのかと、リュネルは少し珍しく感じた。

「…ただの口封じでしょうか?」

リュネルが可能性を提示する。

「十分に考えられます。ヴラタが致命的な失敗したのか。あるいは研究が完了し、ガルディアにとって、もうゲートという組織そのものが必要なくなったから切り捨てたのか…」

「それか、次の計画にフェーズが移ったか…」

「そちらも、決して否定できません」

どのような仮説を出しても、結局のところ推測に過ぎず、確たる答えにはならない。

「……リュシェンは?」

リュネルが思い出したように静かに言った。

サイラスの目がその言葉に僅かに細くなった。

アウレクシアに不審な動きがあるという情報をルキフェリアへと知らせ、調査を依頼してきたのはリュシェン公国だ。

彼らがただの憶測だけで友好国を巻き込むような話を持ちかけるはずがないだろうと、リュネルは冷静に考えたのだ。

「今回のこの件を、リュシェンは一体どこまで知っていたんでしょうね」

「……」

サイラスは難しいチェスの盤面を見つめるように、こめかみを指で小さくトントンと叩く。

「単純に自国の諜報員だけでは深く調査できないから、ルキフェリアを利用した?」

「それも、十分に考えられます」

「それとも…」

リュネルは地図の上の小石から目を上げ、サイラスの瞳を真っ直ぐに射抜いた。

「僕たちがアウレクシアへ入り込むことで、ガルディアやゲートの"何かが動くこと"まで、すべて想定した上での依頼だった?」

サイラスは、また読み取れない笑みを湛えたまま、明確には答えない。

国家には国家の、組織には組織の、それぞれにそれぞれの譲れない目的がある。

味方だから善、敵だから悪といった、単純な線引きで簡単に分けられるような世界ではないのだ。

不可視の巨大な盤の上で、いくつもの手が、それぞれの思惑で盤面を引っ掻き回している。

誰が誰を巧妙に利用して、誰がどのタイミングで誰を切り捨てたのか。

誰が最初から、この結末を計算していたのか。

今の彼らには、その全貌を掴むことは不可能だった。

「結局さ」

ソランが、たまらず苛立ちを隠そうともせず吐き捨てるように言った。

「俺たち、何も分かんないまま、いいように踊らされただけじゃんか」

その痛烈な事実をここにいる誰もが、否定することはできなかった。

「……ええ。誠に不本意ですが、今のところはね」

サイラスが、静かに、だが悔しさを滲ませて言った。

     ◇

「それで、本国にはどう報告を?」

リュネルが、今後の指針を尋ねた。

「すでに、一報を送っています」

「報告を受けて、ルキフェリアはどう動くと?」

「動きません」

サイラスは一切の迷いなく即答した。

「……何も、ですか?」

「ええ。少なくとも、表向きは」

リュネルの群青の目が少しだけ険しさを増す。

「他国とはいえ、街が吹き飛び、これだけの多数の犠牲者が出る事件が起きたのに?」

「ええ。だからこそ、絶対に動けないのです」

サイラスの声は氷のように冷たく、冷静だった。

「忘れないでください。我々は今回アウレクシア政府の正式な許可を得て、捜査をしていたわけではないのです」

リュネルは「確かにそうだ」といった苦い面持ちで、小さく頷いた。

「本来の入国理由は、あくまで民間レベルでの商談と技術交流を目的としています。その我々が、スラムや企業の工房へ独断で入り込み、あまつさえ武力衝突まで起こして施設を破壊している」

「でもよ!」

納得できないソランが、怒りを込めて食い下がる。

「あいつらが裏で無抵抗な子供を攫って人体実験なんてふざけたことして──」

「分かっています」

サイラスが、普段なら相手を宥めるはずの場面で、珍しくソランの言葉をピシャリと遮った。

口調は決して怒鳴るように強くはないが、その響きには、重い語気が含まれており、ソランを黙らせるには十分だった。

「貴方の怒りは、分かっています。…ですが」

サイラスは複雑な関係が絡み合う地図を見つめる。

「我が国が今この非人道的な事実を公に大声で糾弾し、事を大事にすれば、ルキフェリアとアウレクシア、そして背後の帝国を巻き込んだ国際問題になる事は必至です。戦争の引き金になりかねない。それだけは、国家として絶対に避けなければならないのです」

リュネルは拳を震わせるソランの肩にそっと手を置き、彼をなだめるように何も言わなかった。

「それに、最も厄介なのは、ガルディア帝国がこの件に直接介入したという決定的な物証が、爆発によってすべて消え失せたことです」

「証拠がないって、俺たち全員でドライの連中をハッキリ見たんだろ? それが立派な証拠になるだろ!」

「彼らの姿を見たと証言しているのは我々だけなのです。第三者の証人がいない」

「それじゃ駄目なのかよ!?」

「我々だから、駄目なのです」

サイラスは目を細め、底なしの虚無を抱えたような乾いた笑みを浮かべた。

「『他国において非公然活動中で、本来いるはずのないルキフェリアの諜報員の証言』……それが国際社会でどれほどの重みを持つか」

言葉にして並べてみれば、その立場の矛盾とギリギリさが、ソランにもすぐに分かる。

「我が国がこれを公式な事実として国際会議で主張すれば、まずアウレクシア側から猛烈に問われるでしょう。“なぜ、貴国のスパイが我が国内の施設に侵入していたのか”と。我々が侵略行為を働いたと逆手にとられます」

「スパイなんて、どこの国も相手の国にこっそりせんにゅー?してるもんだろ!」

真っ直ぐな気性のソランは、大人の理屈に耐えきれず、声を荒げた。

「えぇ、仰る通りどの国もやっています。ですが、それはあくまで"絶対にバレないように"行う事が必然なのです。他国において、諜報員は諜報員だと知られた瞬間、それは死と同義なのです。おまけに、この件はガルディアが深く絡んでいる可能性が極めて大きい。あの国なら、“我が軍が関与したという明確な証拠を提示しろ”と強硬に要求してくるでしょう。提示できなければ、我々が虚偽の申告で帝国を侮辱したとして、報復の口実にされます」

ソランは正論で殴られ、全く納得のいっていない悔しい顔でギリッと歯を食いしばる。

「……リュシェンも動きはないと?」

リュネルのその本質を突く一言で、サイラスに一瞬、沈黙がうまれた。

「……恐らくですが、彼らもこの事態の推移を見守り、知らぬ存ぜぬの沈黙を貫くでしょう」

「それなら」

リュネルが、諦念を込めて口にする。

「ルキフェリアも、決定的な証拠が掴めない以上、この件については深く追及せず、沈黙するしかありませんね…」

「誠に遺憾ですが、現時点では、ね」

リュネルはサイラスの物言いに口を開きかけ、やめた。

ここでサイラスをいくら責め立てたところで、国際情勢が何も変わらないことは分かっていた。

この男は国家に仕える歯車として、己の感情を殺し、ただ職務を粛々と遂行しているだけなのだ。

「……本当に、嫌な仕事ですね」

リュネルが深く吐き出すように、ぽつりと零した。

サイラスは少しの間、静かに目を伏せると。

「えぇ」

いつもの人を食ったような胡散臭い笑顔を一切作らず、ただの一人の人間として、深く疲労した声で答えた。

「まったく、仰る通りです」

     ◇

隠れ家を出て、宿へ戻った頃、日はすでに西の空へと大きく傾いていた。

空を赤く燃やすように橙色に染まるその美しい夕暮れの景色と、街の惨状は、まるで別の世界を切り貼りしたように、あまりにも噛み合っていなかった。

中心街の被害は比較的軽微なものだったが、爆破の標的となった工房区画や倉庫街、そして延焼した郊外の住居区画の被害は甚大だった。

遠くの空では黒煙が未だに太い柱となって立ち上り、治安部隊や魔動車が、助け出された負傷者を次々と病院へ運んでいく。

道行く市民たちは、不安に顔を歪ませながら口々に噂をしている。

「隣国からのテロ攻撃だって」

「いや、工房でヤバい魔力素材の暴走事故が起きたらしいぞ」

「違うね、裏社会のギャング同士の大規模な抗争だ」

「ヴラタの極秘施設が何者かに狙われたって噂だぜ」

「政府や公安からは、まだ何も正式な発表してないぞ。どうなってんだ」

飛び交う無数の憶測。

真実は、意図的に流された情報の洪水の中で、すでにその明確な輪郭を完全に失っていた。

誰も本当の真相など知らず、そして恐らく、この街の住人が真実を知ることは永遠にない。

     ◇

リュネル達は何とも後味が悪い空気の中で、帰国するための荷造りを急いでいた。

ソランも珍しく一言も喋らず、黙々と自分の荷物を鞄へ詰め込んでいた。

本来の彼なら、初めての異国での滞在の終わりに、「お土産は何を買って帰るか」だの、「あの大通りの屋台の食べ物を持ち帰れるか」だの大騒ぎしていただろう。

しかし今は、怒りを押し殺すように何も言わず、ただ機械的に手を動かしていた。

カリナは窓際の机に背筋を伸ばして座り、監視役としての報告書をまとめている。

だが、そのペンは先程から何度も止まっていた。

正直に書けない事ばかりだと、真面目な彼女なりに頭を悩ませているのかもしれない。

考えては数行書き、線を引いて消し、また考えては書きを繰り返している。

そして、レギスは床に座るリュネルのすぐ横に体育座りでちょこんと座っていた。

彼自身が持ってきた荷物は、今着ているボロボロの服以外ほとんどないため、とりあえずリュネルの荷物整理を手伝う係を命じられたのだ。

「……リュネル」

荷造りを始めてから、ずっと貝のように黙っていたレギスが、ぽつりと口を開いた。

リュネルはあえて自分の手を止めずに荷物を畳みながら促した。

「ん? どうしたの」

「…ロイの」

レギスの表情が不安げに少しだけ曇る。

「ちゃんと」

「うん」

「……綺麗な墓、作ってくれるよな」

リュネルは、そこで初めてピタリと手を止め、振り返ってレギスの不安げな瞳としっかりと目を合わせた。

「ちゃんと約束したでしょ?」

「……大人はすぐ嘘つくから。絶対に、忘れんなよ」

「僕は嘘はつかないし、絶対に忘れない」

「……誰にも邪魔されない、静かな場所」

「分かった」

「……ちゃんと、あったけぇ日が当たるところがいい」

「うん、…場所の検討はつけてあるんだ」

「……あと」

レギスは、少しだけ思案するように下を向く。

「……花」

「ロイ君に似合う花を、一緒に選ぼう」

レギスは安心したように、小さくこくりと頷いた。

     ◇

窓の外の空は、西の地平線から徐々に橙、赤、深い紫へと、グラデーションを描きながらゆっくりと色を変えていく。

夜の訪れと共に、街路の魔導灯が一つ、また一つと自動で灯り始める。

だが、所々で不規則に明滅したり、完全に消えたままの灯りがあるのは、魔力供給網が爆発の影響で断線しているからだろう。

リュネルたちが泊まる宿の窓から、道を一本挟んだ真向かいに建つ古い時計塔。

その高い屋上の縁に、一人の男が夜風に吹かれていた。

片足を虚空へ投げ出すようにして、屋上の低い石の柵へ行儀悪く腰掛けている。

生温かい夜風が彼の結んだ髪と外套をひらひらと揺らしていた。

彼の手には一冊の薄い黒革のファイルが握られていた。

「……いやぁ、それにしても派手にやったねぇ」

ペラペラとページをめくりながら、誰に聞かせるでもなく独り言をもらした。

その鋭い視線は、紙面に並ぶ無機質な文字列を斜めに追っていく。

非合法な魔力素材の搬入記録。

おぞましい人体実験の実験番号。

致死量を超える魔力素材の投与量。

そして、名もなき『被験体』の年齢と適応結果。

完成品の搬送先。

資金提供している多国籍企業名。

極秘の地下研究区画の図面。

この事件のすべての闇を証明する、決定的な証拠。

だが、彼が読んでいる肝心な部分の多くは、複雑な暗号符号で書かれているか、上から黒くベッタリと塗り潰されていた。

「これは……」

ある特定のページで動いていた指がピタリと止まる。

彼は目を細め、その黒く塗りつぶされた文字列を指でゆっくりとなぞった。

普段どんな状況でも気の抜けた笑顔を浮かべている男のその口元から笑みが完全に消え去った。

「……なるほどねぇ。そりゃあ証拠隠滅したくもなるか」

彼はパタンと音を立ててファイルを閉じると、器用に組んだ足の膝に頬杖をついた。

向かいの宿の窓を上から見下ろすと、その視線の先にリュネルの姿がはっきりと見える。

部屋の中、怒りを押し殺して荷造りをするソランや、真面目に机へ向かうカリナ。

そして、リュネルのすぐ側にぴったりとくっついて離れない、小さな獣耳の少年。

彼はしばらくの間、その奇妙で温かい疑似家族のような光景を眺めていた。

「……まぁた拾ったんだ」

鼻から短く出た呼気は、お人好しな旧友に対する呆れか、あるいは救われない自分への自嘲か。

「ホント……」

彼は柵からスッと立ち上がると、外套の内側へ、ファイルを大事にしまい込んだ。

「全然変わんないねぇリュンちゃんは」

屋上から未だ混乱の只中にあるアウレクシアの街全体を見渡した。

遠くではまだ必死に消防隊が火を消し止めようと放水し、治安部隊が走り回っている。

「さてと………俺は俺の仕事に戻るとするか」

彼は宿の窓に向かって、届くはずのないウインクを一つ投げた。

「また会うだろうね、リュネル」

次の瞬間、月が雲に隠れたわずかな隙に彼の姿はもうそこには無く。

ただ、夜の帳に溶け込むように、黒い外套の端がフワリとなびいた幻が残っただけだった。

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