第44話 魔導工業都市アウレクシア〜愁逢〜
ヘルメスの案内は地図よりも曖昧だが、どの地図よりも正確だった。
彼は薄暗い路地を曲がるたび、どこかの目印を見るでもなく歩いている。
頭上の錆びた看板も読まず、曲がった角の数も数えない。
なのに一切の迷いなくその歩みを進めていく。
リュネルは少し前を歩く友の背中を見つめながら、静かに思考を巡らせた。
裏社会で生きる者というものは道を歩いているのではない。
自分がいきたいと欲する方向へ、周囲の障害をすり抜けながらひたすらに進み続けているだけではないかと。
法や道徳、あるいは他者の引いた境界にとらわれることなく、ただ己の信念と直感のみを標として、この世界を独歩し続ける。
ヘルメスという男はまさにそうだった。
歩幅は驚くほど軽く、肩の力は完全に抜けている。
だが、その実彼はただの一度も己の無防備な背中を晒すことはない。
冗談めかして笑っているように見えて、いざとなれば影のようにいつでもこの場から消え去ることができる。
「こっちだよ、リュンちゃん」
ヘルメスは振り返ることもなく軽薄なトーンで言う。
「分かっているよ」
リュネルはそれに短くこたえた。
その声の響きだけを聞けば、友達同士の気ままな散歩に聞こえただろう。
しかし、実際に彼らが歩いているのは、アウレクシアの中心街から外れた「灰路街」と呼ばれるスラムの道なのだが。
「……随分と、子供が多いんだな」
リュネルは周囲の陰惨な景色に視線を滑らせながら静かに呟いた。
湿った路地の端。
魔力が絶えて久しい壊れた魔導灯の下。
廃材が無造作に積まれた壁際。
そこかしこの暗がりに小さな影――子供たちがいた。
もっとも、彼らは子供らしく無邪気に走り回ったり大声を上げて笑ったりしているわけではない。
泥にまみれた裸足の子。
用途も分からない古い歯車を大事そうにする子。
一滴の水すら入っていない空のガラス瓶を、まるで宝物のように抱え込んでいる子。
大人の冷酷さをそっくりそのまま真似て、警戒心に満ちた目だけを鋭く光らせている子。
そしてその誰もが、こちらへと近づいてくる身なりの良い大人の顔を、ただ感情を削ぎ落とした虚ろな眼差しでじっと見つめていた。
「この辺りは、これでもまだマシな『入口』さ」
ヘルメスが、前を向いたまま言った。
「中心街の人間は、ここのことをただ“汚い”って吐き捨てる。ヴラタの連中は“整理対象”って呼ぶ。で、実際にここに住んでる連中自身は……まあ、な」
背中越しゆえにヘルメスの表情は見えないが、その声はいつもの彼らしい飄々とした緩さを保とうとして、逆に少しだけ無理をしているようにリュネルの耳には聞こえた。
やがて少しだけ視界が開けた広場のようなエリアに出ると、リュネルは不意に足を止め、しゃがみ込んだ。
石畳の隙間に手を近づけ、魔力の痕跡を慎重に辿る。
反応は確実に強くなってきているが、変なノイズが多く、リュネルは目を閉じて意識を深く集中させる。
「……こっちだね」
リュネルが立ち上がり、確信を持って示した先には今にも崩れ落ちそうなほどさびれた古い集合住宅が建っていた。
外壁は煤で黒く汚れ、窓の半分以上は不揃いな木の板で無残に塞がれている。
入り口の上には、かつてそこが何番地であったかを示す鉄板が、錆びきって今にも落ちそうな音を立ててぶら下がっていた。
「……あそこ?」
ヘルメスが手を頭の後ろで気楽に組みながら、感心したように口笛を吹いた。
二人でその朽ちた建物の前まで来ると、リュネルは周囲の気配を読み取るように建物全体を静かに見上げる。
「入り口は一つ。…でも、裏側に抜け道が作られているね」
リュネルは取り出した長杖の石突きを、地面に二度、コツン、コツンと軽く突き立てた。
その振動に乗せて建物の内部へと探査の魔力を浸透させ、瞬時に空間の構造を把握する。
「いやぁ、本当になんでもお見とーしだねぇ」
「裏の窓はかなり小さいから大人は通れない構造になっているけど、子供なら簡単に通れるね」
リュネルが長杖を空間へ収納し、手持ちの杖へと持ち替えると、二人は慎重に建物の中へと足を踏み入れた。
中はお世辞にも人間が生活するのに適した清潔さとは言えなかった。
積もり積もった埃の匂いと、長年換気されていない饐えた臭いが鼻を突き、足を踏み出すたびに、腐りかけた床の木材が悲鳴のような嫌な音を立てる。
壁には無数の意味不明な落書きと、日数を数えたのか、あるいは何か別のものを数えたのか、執拗に刻み込まれた傷の痕が無数に残されていた。
二階へ上がる。
探していた魔力の匂いは、まだ上へと続いている。
三階。
廊下は昼間だというのに酷く薄暗かった。
塞がれていない僅かな窓の隙間から差し込む光は、灰色をしており、その淀んだ空気の中を無数の粉塵がゆっくりと漂っている。
リュネルは一番奥にある一室の前で音もなく足を止めた。
扉は固く閉まっている。
だが、鍵はかかっていなかった。
ヘルメスが面白がるように片方の眉を上げる。
「開ける?」
「うん。……ただし、相手が誰であれ、絶対に殺さないでね」
「信用ないなぁ」
ヘルメスは肩をすくめながらノブに手をかけ、中の気配を伺いながら音を立てぬよう慎重に扉を押し開ける。
リュネルはヘルメスの対角線上に陣取り、杖を静かに構えた。
錆びた蝶番の軋み。
部屋の奥に広がる、薄い闇。
――そして、その闇から突然飛びかかってくる黒い影。
小柄な体がまるでバネが弾けるように、床すれすれの低い死角から気配も無く一気に跳ね上がった。
それは人間の動きというよりも、完全に獲物を狩る獣の動きだった。
狙いはリュネルの喉笛ではない。
彼の杖を握る右手首だ。
初撃でこちらの武器を落とすか、あるいは道具を奪い取るつもりなのか。
驚異的な速さ。
そして何より、間合いに飛び込んでくるその瞬間まで、殺気はおろか気配そのものが極限まで薄かった。
だが、リュネルの思考と唇はその獣の爪が届くよりも遥かに速く動いていた。
「〈コード:バインド(縛鎖)〉」
部屋の空気が、微かな魔力の摩擦で小さく鳴る。
宙を跳んでいた影の細い足首に、リュネルの放った淡い光の輪が瞬時に巻きつき、その推進力を空中で強引に削ぎ落とした。
その一瞬の隙をヘルメスは見逃さなかった。
彼は流れるような体捌きで相手の華奢な腕を取り、床へと転がした。
痛めない程度の絶妙な力加減で床に押さえ込み、それでいて相手の動きは完全に封じている。
「っ、痛ぇ! 離せ、このクソ野郎!」
床に組み伏せられながらも、獣のように叫んだのは、ひとりの少年だった。
灰色がかったボサボサの髪の間から、獲物を睨みつけるような鋭く獰猛な目がこちらを睨んでいる。
そして、その頭部には、感情に合わせてピクリと動く獣の耳があった。
耳の形状や骨格のつき方からして、イヌ科の獣人だろうか。
まともな食事をとっていないのか酷く痩せており、拘束されている足首は折れそうなほど細い。年齢は十六歳前後か、あるいはもう少し下かもしれない。
少年は鋭い犬歯を剥き出しにしてリュネルを睨み上げた。
「てめぇら、ヴラタの犬か!」
「違うよ」
リュネルは、感情を波立たせずに即答した。
「嘘つけ! じゃあなんだ、街の官憲か! それとも情報屋か!」
ヘルメスは緩い笑顔で答える。
「うーん、どっちかと言われれば、情報屋のほうに近いかもしれないねぇ〜」
「黙れ、この胡散臭ぇ変態!」
「お、この子人を見る目あるね」
リュネルはヘルメスの顔を見て、皮肉たっぷりに頬を緩ませた。
少年はさらに牙を剥いて激しく暴れようとしたが、ヘルメスの押さえはミリ単位すら崩れない。
「落ち着いて。君に怪我はさせたくないんだ」
「そんなふざけた言葉、信じるかよ!」
リュネルは、警戒心を全く解こうとしない少年を、何とか穏便になだめようとゆっくりと近づく。
「君の名前は?」
「誰が言うかよ!」
その頑なな態度を見て、ヘルメスが楽しそうに笑った。
「あはは、元気だねぇ。こういう子、昔の誰かさんにそっくりじゃない?」
「…さぁ、記憶にないな」
「いやいや、どうかなぁ――」
少年は自分を完全に無視して行われる二人の緩すぎるやり取りに、調子を狂わされたようにわずかに混乱した顔をした。
「さて、単刀直入に聞くよ。昨日、街で僕から盗ったモノはどこにやった?」
「……知らねぇよ。そんな袋なんか、見たこともねぇ」
「僕は一言も『袋』だなんて言ってないよ」
少年の目がしまったというように一瞬だけ激しく揺れる。
リュネルにとってはその反応だけで十分すぎるほどだった。
「換金目的?」
「……」
少年は顔を背け、頑なに口を閉ざす。
「それとも、ヴラタの連中に渡すため?」
「違うっ!!」
それは、考えるよりも先に反射で口から飛び出た、強い嫌悪感を伴う否定の声だった。
リュネルが静かに目配せをすると、ヘルメスは少年を床に押さえつける力をほんの少しだけ緩めた。
「なら、換金目的だね」
少年はギリッと音を立てて歯を食いしばった。
そして、観念したように自棄になって吐き捨てた。
「そうだよ。金目のものかと思って、金にするつもりでスッたんだ。悪いかよ!」
「悪いね。持ち主に無断で持っていったんだから」
「綺麗事言うなよ! ここじゃあな、やられたくなきゃ先にやり返すのが通りなんだよ!」
「なるほど、そういう場所なのはよく分かった」
リュネルは説教をするわけでもなく、ただ事実を受け入れるように静かに言った。
「で? 僕の袋は、今はどこにあるのかな?」
「ふんっ! 誰が教えるかよ」
その強がりな反応にリュネルはあえて大人の不敵な笑みを浮かべ、声音を一段階低く、底知れぬ圧を込めて囁いた。
「……じゃあ、僕がこの部屋を探してもいいね?」
少年の耳がピクリと動き、ほんの一瞬、視線が無意識に部屋の隅にある床板へと流れた。
リュネルはそのわずかな視線の動きを決して見逃さなかった。
彼の視線の先をゆっくりと辿る。
そこには埃の積もり方が周囲と異なり、床板の一部が不自然に数ミリだけズレている箇所があった。
「君は、素直で良い子だね」
「は……?」
リュネルは一切の迷いなくその箇所まで歩み寄ると、靴の先で床板を軽くコンと叩いた。
間違いない、ここだ。
「ーーっ、この、クソ野郎……!」
隠し場所を見破られた少年が、怒りで再び激しく暴れようとしたため、ヘルメスはほんの少しだけ押さえる力を強めた。
「痛っ!」
「はいはい、暴れない暴れない。お兄さんがうっかり腕を折っちゃうからね」
リュネルが床板の隙間に指の爪をたてて軽く引き上げると板は簡単に外れた。
床下の空間には古びたバスケットが一つ置かれており、その中には硬くなったパンが二つ、薄汚れた硬貨が数枚、刃の欠けた錆びたナイフ、そしてリュネルの袋があった。
リュネルは袋を拾い上げ、中身を取り出して状態を確かめる。
「…売らなかったんだね」
「……売れなかっただけだ」
少年は観念したのか大人しくなったが、その語気にはまだ反抗心が燻っており、吐き捨てるように言った。
「街の買取屋のクソジジイが、変な魔力が籠もってるから買い取れねぇって、突き返しやがったんだ」
「その買取屋って、ここのかい?」
リュネルは取り出した指輪型の魔道具を太陽の光に透かし、不具合がないかを丁寧に調べながら聞いた。
「中心街の店に決まってんだろ。こんなスラムにまともな店があるかよ」
(……アレほどの技術がありながら、魔石の力に気気が付かないという事は……ヴラタの影響力がこの国のすべてに及んでいるという事でもない訳か)
リュネルは刹那に思考をすると、ヘルメスに少年を解放するように合図した。
拘束を解かれた少年はバネが弾けるように瞬時に床から飛び退き、リュネル達の真反対にあるベッドまで一気に距離をとった。
その右手にはいつの間にか短剣が握られていた。
床下に隠してあった錆びたナイフとは違い、手入れの行き届いた鋭い銀色の輝きを放っている。
ヘルメスから離れる一瞬の隙に、服の裏に隠していたものを抜き放ったのだ。
「袋は取り返したんだろ! それなら、もう用は済んだはずだ、とっとと帰れ!」
少年は腰を低く落とし、全身の毛を逆立てるようにして激しい威嚇の姿勢をとる。
子供とはいえ獣人らしく、その切羽詰まった殺気にはそれなりの凄みと迫力があった。
「帰る前に、少しだけ君に話を聞きたいんだ」
しかし、リュネルとヘルメスにその程度の威嚇が通じるはずもなく、リュネルは落ち着き払った様子で言った。
「…そうだな、まずは君の名前は?」
少年は威嚇が全く通じていないことに一瞬唖然としたが、すぐに元の獰猛な表情へと戻る。
「だから、誰が言うかよ!」
「僕はリュネル。で、コッチの胡散臭いのがヘルメス」
少年の言葉に耳を貸すこともなく、リュネルは一方的に自己紹介を続け、ヘルメスもそれに合わせて緩すぎる笑顔でヒラヒラと手を振る。
それでも少年は短剣を下ろそうとはせず、警戒心を剥き出しにして二人を激しくにらみつける。
そのあまりにも頑なな姿を見たリュネルは、やれやれと深い息を漏らした。
「……じゃあ、君のことは『ワンコ君』と呼ぼうか」
「ぶふっ……!」
そのネーミングセンスに、少年は屈辱で不快そうに顔を歪めて眉を寄せ、隣にいたヘルメスはこらえきれずに吹き出し、肩を震わせて爆笑し始めた。
「ーーふざけんな!! 俺の名前はレギスだ!! それに、俺はイヌじゃねぇ! ハイエナだっ!!」
少年ーーレギスは怒りのままに叫んだ直後、自ら名前を大声で明かしてしまったことにハッとして、慌てて口を手で塞いだ。
「うん、素直で大変よろしい。よろしくね、レギス」
リュネルはいつも通りの柔らかな笑みをレギスに向けた。
「あはははっ! リュンちゃん、今のは絶対にわざとでしょ!? 君が、獣人の骨格を見て種族を間違えるなんて、絶対にありえないもんね!」
笑いすぎて涙を流しながらお腹を抱えるヘルメスが、容赦なくその手口を指摘する。
「お前っ! わざとかよ!!」
レギスが顔を真っ赤にして怒鳴る。
「ごめんごめん。教えてくれてありがとう、レギス」
「うるせぇ、礼なんか言うなよ! 調子が狂うだろ!」
「ありがとう」
「だから!!」
レギスは短剣を握りしめたまま、恥ずかしさと苛立ちで顔を真っ赤にして、地団駄を踏む。
それは殺意というよりも、年相応の照れ隠しと、大人に弄ばれた悔しさが混ざり合った、リュネルから見れば酷く可愛らしい反応に思えた。
二人のやり取りを横で見ていたヘルメスは、ひときわ愉快そうに口笛を吹く。
「いやぁ可愛いねぇ、この子」
「てめぇ殺すぞ、変態」
「ヘルメス、それは流石に犯罪かなぁ」
「うわぁー、君たち息ピッタリじゃん」
正面からは冷たい言葉の刃を向けられ、隣に立つ友からは若干引き気味のトーンで切り捨てられ、ヘルメスのメンタルにもほんの少しだけ傷がついた。
「まぁ、コイツ置いておいて。……レギス」
リュネルは声のトーンから柔らかなユーモアを消し去り、表情に大人の真剣な緊張を少々滲ませた。
「……なんだよ」
「君はさっき、僕たちがヴラタの人間かどうか確かめていたね」
「……だから何だよ」
リュネルは目を細め、静かに相手の懐へと踏み込む。
「いや、君のような子供が、とてもヴラタを警戒しているように見えたから、ね」
「……ッ」
レギスはあからさまに視線を床へと逸らした。
「何か、ヴラタに関わることで隠している事があるんじゃないのかな?」
「……知らねぇよ。俺には関係ねぇ」
今度の返答は考えるよりも早く、反射的な速さだった。
リュネルはそれ以上無理に追及して彼を追い詰めることはしなかった。
ヘルメスに視線をやると、彼も無言で「今はこれ以上踏み込んでも無駄だろう」と肩をすくめた。
「そっか。……分かった、ありがとう、レギス」
リュネルは穏やかに笑うと、背中を向けてそのまま扉へと向かい、ヘルメスもつまらなそうにそれに続く。
部屋を出て階段の踊り場まで降りかけたところで、背後から慌ただしい足音がバタバタと追いかけてきた。
「……待てっ!」
レギスが何かに追い立てられるような勢いで、廊下へと飛び出してきたのだ。
リュネルとヘルメスは静かに足を止め、ゆっくりと振り返る。
「……どうしたの?」
リュネルが優しく問いかけると、レギスは何かを言葉にしようとしては喉の奥で飲み込み、そして酷く言いづらそうに血が滲むほど強く唇を噛んだ。
握りしめられていた右手の短剣は無く、今は空っぽになった両手がぶるぶると震えながら強く拳に握りしめられていた。
そして、意を決して深く息を肺に吸い込むと、震える声でその名を口にした。
「……リッダ工房」
その名前き背後のヘルメスがわずかに眉を動かして反応した。
「リッダ工房、か。どこかで聞いた名前だな」
「工房街の端っこにある、工房だ。いろんな機械の部品を作ったりとか……詳しいことまでは俺には分からないけど、とにかく色々やってるらしい」
リュネルは、昨日の昼間に繁華街を散策した時に見た、あの掲示板の求人広告を思い出した。
「…求人広告を街の掲示板で見たよ。そのリッダ工房がどうしたの?」
レギスはさらに強く自らの拳を握り締めながら、小刻みに全身を震わせる。
「……あの工房に、スラムの子供たちが、たくさんあつめられてるんだ」
階段の割れた窓の隙間から吹き込む冷たい風が、床の埃を渦を巻いて巻き上げた。
リュネルは何も言わずレギスの言葉をただ静かに待つ。
「…簡単な仕事をさせるって言って、連れてくんだ。ここに行けば、毎日温かい飯が食えて、雨風を凌げる寝床もあるって。……最初は、みんな喜んでた。あの工房で働きさえすれば、腹を空かせて凍えることはねえんだって」
レギスの顔が押し殺した悲痛な感情によって、段々と苦しげに歪んでいく。
「……戻って来た子はいるの?」
「……少しだけは、いる。けど……なんか変なんだ」
リュネルは、レギスがその先を続けることに躊躇いを感じているのを察した。
「具体的に、どんな風に変だったのか言えるかい?」
レギスは、リュネルの深く静かな瞳と視線をわずかにぶつけた。
「…前の事をおぼえてなかったり…、何もされてないのに、急に叫びだしたり……。何もない壁の空間を見つめながら、ずっと、ずっと……気味の悪い声で、笑い続けてるヤツもいた」
リュネルの胸の奥底が冷たくなった。
同時に、普段は滅多に沸き起こることのない激しい感情が沸々とあがってくる。
「……レギスの、知り合いも連れて行かれた?」
リュネルの静かな問いにレギスの表情が今にも泣き出しそうになり、唇が震えていた。
「…お、……弟が」
レギスの大きな瞳から、堪えきれなくなった大粒の涙が床に染みをつくる。
「名前は?」
「ロイ。っ、じ、まだ10さいだ」
レギスは、嗚咽でしゃくりあげながら、何とか必死に言葉を紡ぎ出す。
「いつ連れて行かれたの?」
「こんげつ、入ってから……もう、10日、前くらいになる」
リュネルはレギスの小さな背中を包み込むように優しくさすってあげた。
レギスの荒れた息を落ち着かせるように、ほんの少しだけ精神を安定させる魔力の助けを借りながら、ゆっくりとなだめる。
「君の弟を連れて行ったのは、どんな人だったか覚えてる?」
「くろい、…いい服を着た大人の男が二人。工房で簡単な仕事があるから、来ないかって。最初は、怪しいと思って断ったんだ。でも……」
レギスは、自らの無力さを呪うように、ギリッと強く歯を食いしばった。
「ロイは、病気だったんだ。でも、俺には薬を買ってやる金もなくて。病気のロイに、工房の仕事なんてできるわけないって言ったけど、あいつら、工房で働けば、病気も治してやるって、そう言ったんだ……」
「ロイくんは、自分で行くって行ったの?」
レギスの瞳から止めどない涙が溢れ流れた。
「……俺が、行かせたんだ」
かすれた喉から絞り出すような声だった。
「俺が、あそこに行けば、お前の病気はきっと元気になるって、行かせたんだ……っ!」
レギスは両手で自分の頭を掴み、しゃがみ込んだ。
「とりあえず、検査と仕事で3日だけだ、3日で必ず帰すってやつらは言ったんだ。なのに、約束の日を過ぎても全然帰ってこない! 我慢できなくて工房の表門に行っても、警備の連中は誰も俺の話なんか聞いてくれなかった! …でも、裏口のゴミ捨て場の近くに、ロイの履いてた靴が片方落ちてたんだ。…俺がボロボロになった底を縫って直してやった跡があったから、絶対に見間違えるわけねぇ!」
リュネルは、震えるレギスの両手を、自らの両手でそっと包み込むように温かく握った。
「お金をあつめてたのは?」
「工房の奴に裏口で靴のことを突きつけて騒いだら、笑いながら金さえ払えば返してやるって言われたんだ」
「……奴らは、いくら要求してきた?」
レギスが掠れた声で答えたその金額は、スラムの子供が一生かけても集められるような額では到底なかった。
だが、絶対に不可能と言い切れない額でもあった。
「最初から返す気なんてさらさらないじゃん、それ」
背後で話を聞いていたヘルメスが静かに言った。
「そんなこと、俺だってわかってるよ!!」
レギスが、行き場のない怒りを爆発させるように声を張り上げた。
「でも! じゃあ他にどうしろって言うんだよ!! 金がなきゃ門前払いだ! 他にロイを助ける方法なんか、一つもおもいつかねぇーんだよ!!」
悲痛な叫び声が、朽ちた建物中に反響して響き渡った。
建物のどこかの階で、様子を伺う気配が動くのが分かったが、姿を現す者は誰もいなかった。
レギスは、溢れる涙を目元で乱暴にこすり取った。
「大人は誰も助けてくれねぇ! 街の役人は、俺たちスラムのガキなんかハナから存在しないみたいに知らねぇふりをする。ヴラタの連中にこれ以上逆らったら、ロイが何をされるかもわかんねぇ!! 金さえあれば返してやるって奴らが言うなら、どんな汚い手を使ってでも、俺は金を集めるしかなかったんだよ!!」
すべてを吐き出し、肩で息をするレギスの頭に、リュネルはそっと優しく手を乗せた。
「……分かった。僕たちが、ロイくんを助けるよ」
「……は?」
レギスは、何を言われたのか理解できないというように、唖然とした表情でリュネルの顔を見上げた。
その表情に浮かんでいるのは、希望などではなく、疑いだった。
「なんで、おまえが…」
「君が、今僕たちに『助けて』と頼んだからさ」
「頼んでねぇよ! 」
「でも、心の底では助けて欲しいから、僕たちに話してくれたんでしょ?」
「俺はただ、聞かれたから話しただけだ!」
「…僕の耳には、どう聞いても『弟を助けてくれ』という君の必死な願いに聞こえたけどね」
レギスの口が反論しようと小さく開いたが、そこから先を紡ぐ言葉は何も出てこなかった。
「……なんなんだよ、お前。意味が分かんねぇ」
レギスは、損得勘定の全く合わないリュネルの行動原理が理解できず、本気で意味がわからないという顔をした。
その後ろで、ヘルメスは少しだけ呆れたように笑った。
「ははは、仕方ないよ。こういう人なんだよ、リュンちゃんは」
レギスは、居心地が悪そうに苛立ったように顔を逸らす。
リュネルは腰の袋から小さな美しい魔道具を一つ取り出した。
指輪のようにも、衣服の留め具のようにも見える、繊細な意匠の小さな装身具。
純銀の縁取りの真ん中に、淡く澄んだ青い石が一つ、静かに嵌まっている。
レギスの目が、その小さな石が放つ不思議な光に吸い寄せられる。
「……きれー」
「うん、多分、市場に出せばかなり高いよ」
「なんで、そんないかにも高そうなものを俺の前に出すんだよ」
「君にあげる」
レギスは時が止まったように完全に固まった。
「……は?」
「とりあえず、これを持っていて」
「お前、本当に馬鹿か。俺は昨日お前からモノを盗んだ、盗人だぞ」
「いいから、理由なんか気にせずに持っていて」
「だから、意味分かんねぇって言ってんだろ!」
リュネルは、困惑する少年を見て小さく笑った。
「ごめん、さっきの高く売れるは嘘だね。これには僕の魔力が籠もっているからね、街の買取屋に持って行っても、多分気味が悪がられてこれは売れないよ」
レギスは警戒心を剥き出しにして、差し出された青い石の魔道具を睨みつける。
「……どうせ、俺を監視するための罠だろ」
「さあ、どうかな。まぁ、それを受け取るかどうかは、君が自分で決めていいよ」
レギスは差し出された手の前でしばらく動かなかった。
リュネルの顔と魔道具を目で何度も往復し、眉を深く寄せ、耳をペタンと伏せる。
スラムで生き抜くための大人びた警戒心と、子供としての純粋な迷いが入り混じった、年相応に必死に迷っている顔だった。
やがて、彼は乱暴な手つきでひったくるようにそれを掴み取った。
「……借りる、だけだからな」
「うん」
「絶対に、返すからな」
「うん、君が返せると思った時で良いよ」
「絶対に返すって言ってんだろ!」
「分かったよ」
リュネルの声がどこまでも穏やかで柔らかいほど、レギスは自分の感情のやり場に困り、顔を真っ赤にして怒った。
それが素直になれない照れなのか、無償の優しさを向けられたことへの戸惑いの怒りなのか、彼自身にも分かっていないようだった。
こうして、リュネル達とレギスによる"ロイ救出作戦"が決まった。
「よし、とりあえず今日は僕たちも一旦宿へ帰って、向こうで手に入れた情報と今の状況を整理して来るよ。…レギスは、間違っても一人で無茶をして、工房へ突っ走るような真似はしないようにね」
リュネルに念を押され、レギスは「子供扱いすんな!」とまた威勢よく口ごたえをした。
だが、レギスの噛みついてくる時の感情の裏側にある不器用さが読めてきたリュネルは、もはや微笑ましい顔でその反抗を受け止めていた。
レギスの心の中は、かつてないほどに混乱していた。
目の前にいる見ず知らずの大人たちは、どう見ても怪しくて胡散臭い。
なのに、心のどこかで、この柔らかく笑う男の言葉を信じたい、頼りたいと強烈に思ってしまっている自分がいる。
それが、たまらなく腹立たしかった。
「……俺は、礼なんか絶対に言わねぇからな」
「うん。今はそんなものはいらないよ」
「あと、もしお前らが失敗して、弟を助けられなかったら……」
「その時は、僕を思い切り恨んで、怒っていい」
「……ほんとに、死ぬほど怒るからな」
「うん」
リュネルは真剣な瞳で深く頷いた。
この絶望の底にいる少年にとって、理不尽に対して心置きなく「怒る相手」がいることも、絶望に押し潰されないためには必要なのだと思ったから。
「じゃあ、また明日。今日は体力を温存してゆっくり休むこと」
そう言って、リュネルは自分の荷物の中からレギスに小さな包みを渡した。
中にはリュネルお手製の日持ちする携帯食と、水で薄めて飲む回復用の栄養剤が入っている。
レギスがそれらを抱え、部屋に戻って扉を閉めたのを確認すると、二人は足速にその場を後にした。
帰り際、ヘルメスが独り言のようにふと会話を切り出した。
「そういえばさ、アイツの動く時の独特な技っていうか、あの気配の消し方? あれ、なかなか面白かったな。ただ足音や殺気を消して気配が薄いってだけじゃない。相手の“意識の死角の隙間”に、スッと自然に入り込むような感じ。……あれは、天性の才能かねぇ?」
リュネルが少し興味深そうに目を細める。
「対象の意識を意図的にそらして、自己の存在確率を極限まで薄める。そんな感じの認識阻害の固有魔法じゃないかな?」
リュネルは、歩きながら思考を続ける。
「生きるために無意識で使っているのだろうけど、すごい才能だと思う」
「お? なんだかあのワンコ君のこと、結構気になっちゃう感じ?」
ヘルメスは面白そうな玩具を見つけた子供のように、興味津々といった表情を浮かべた。
「あの子なら、訓練すれば、かなり化けるんじゃないかな」
「訓練ねぇ〜。まぁ、こんなスラムじゃまともな先生はいねーだろうね」
ヘルメスは頭の後ろで両手を組みながら、チラリと意味深な視線をリュネルへと送る。
彼のその視線は「君が拾って鍛えてやれば?」と物を言っていたが、リュネルはあえてそれに乗らず、放っておくことにした。
また暫く、スラムの淀んだ空気の中を会話のないまま歩いていると、ヘルメスが唐突に真剣な音で問いかけてきた。
「ねえ。リュンちゃんが筋金入りのお人好しなのはよく知ってるけどさ、今回は一体どうしたの?」
リュネルは歩みを止めずに横目でヘルメスの顔をみた。
「どういうこと?」
「そうね……、きみは確かに優しいけど、自分の大切なモノにまで火の粉が降りかかるような真似は絶対にしない質じゃん?」
「それは……」
リュネルは、その核心を突く言葉への反応に一瞬だけ言葉を迷った。
ヘルメスの質問はリュネルの本質を理解しているからこその、もっともな指摘だった。
リュネルは自分の錬材師としての仕事に揺るぎない誇りと美学を持っている。
だからこそ、危険であっても自らフィールドワークに赴くし、素材の鑑定にも買取にも一切の妥協はしない。
自分が愛する「素材」が、金や権力によって醜く汚されるのは断じて見逃せない。
今回の面倒な依頼も錬材師としての矜持があったからこそ、あえて受けたのだ。
しかし、リュネルにとってそれと天秤にかけられると困るモノがある。
『仲間』――否、彼にとっては血の繋がり以上に愛おしい、『家族』である。
リュネルにとって、あのアルカナ堂という小さな店が。
ソランが、リラが、ベルギスが、ルーガルが。
そして、ネレウスとカリナの存在も、今や絶対に守り抜くべき大切な『家族』なのだ。
たとえ国や大組織が彼らに危険を及ぼすような事があれば、その時は錬材師としての誇りや、自らの名誉など投げ打ってでも、リュネルは彼らを守り抜くだろう。
リュネルは自分自身が、世界を救う特別な英雄でも、崇高な正義の使徒でもなく、ただ自分の手の届く範囲の大切なものを失うことを極端に恐れる、ただの人間であることを、誰よりも自覚していた。
だからこそ、本来であればこれ以上深入りすればアルカナ堂の面々に危険が及ぶかもしれない事など、無情に切り捨てるべきだったのだ。
リュネルは狭いスラムの空の彼方、遠くを見つめ、噛み締めるように口を開いた。
「それは……目の前に、弟を助けたいと泣き叫ぶ、不器用な兄がいたからだよ」
「……たったそれだけの理由で? 国を敵に回すかもしれないのに?」
「………あぁ。僕にとっては……それだけで、……それだけで十分すぎる理由だよ」
そこには、世界を救う大義などない。
ただ、「大切なものを失いたくない」と叫ぶ少年の姿に、自分を重ね合わせてしまっただけなのだ。
ヘルメスはリュネルのいつに無い横顔を見て、珍しくそれ以上の言葉を言わなかった。
スラムの空はどこまでも狭く、息苦しい。
無秩序に建て増しされた建物と、黒い煙を吐き出す煙突、そして頭上を覆うように張り出した継ぎ接ぎの板屋根の隙間から、まるで蜘蛛の糸のような細い光がわずかに道へと落ちている。
その心許ない細い光の下を、二人の足は繁華街へと向かって無言のまま真っ直ぐに進んでいった。




