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アルカナ堂は今日もゆく〜素材屋リュネルの秘録〜  作者: 磨羯瑞花


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第43話 魔導工学都市アウレクシア〜奇遇〜

翌朝。

目を覚ましたリュネルは、奇妙な違和感を肌に抱いた。

静かなのだ。

窓の外から聞こえてくる、アウレクシア特有の音は相変わらず響いている。

だが、昨日とは打って変わって部屋が異様なまでに静まり返っているのだ。

あまりにも静かすぎる、と断言していい。

いつもなら、朝から響き渡るはずの騒々しい足音や声が、全く聞こえてこない。

リュネルは寝巻きの上に薄手のカーディガンを羽織ると、足早に共有スペースへと向かった。

ドアを開けて直ぐに耳に飛び込んできたのは――獣が苦痛に耐えるような、低い呻き声だった。

「……ぉぇ……」

ダイニングテーブルの奥、椅子の陰からソランの掠れた声が漏れる。

そして、その背中をさすりながら声をかけるカリナの冷静な声が被さった。

「吐くならこちらの桶に。水は一気に飲まないで、少しずつ含んで。ほら、今は妙な意地を張らないで」

「意地じゃ、ねぇ……ちょっと、腹の奥が痛くて……ただちょっと、気持ち、悪いだけだ……」

ソランがカリナに支えられながら、まるで産まれたての子鹿のように小刻みに震えている。

顔色も青白く土気色に濁っていた。

爛々と輝いていた瞳の赤色も、水に薄められたように力がない。

「……せんせぇ……」

こちらの足音に気づいたソランが、視線だけで痛切な助けを求めてくる。

その顔は、昨日まで見せていた“血気盛んな元気な若い衆”の面影はなく、完全に“やらかした哀れな弟子”のそれだった。

リュネルがテーブルの上へと静かに目をやると、そこには大きな紙袋と、カリナが用意したであろう看病の品々が並んでいた。

清潔な水差し、微量の塩、そして胃への負担を減らすための薄い粥の準備。

彼女の介抱の的確さがそこには表れていた。

「腹痛ですか?」

リュネルの静かな問いに、カリナは表情を変えずに一度だけ頷いた。

「おそらく、朝食にあたったようです」

カリナはテーブルの端に置かれていた、食べかけのバゲットサンドを包みごと持ち上げて見せてきた。

「…せんせ、と、一緒に食おうと、思って……」

息を荒くし、胸を上下させるソランが熱で潤んだ目を向けながら必死に訴えてくる。

リュネルは、そんな相棒の痛々しい姿に呆れながらも、慈しむような優しい笑みを浮かべて、彼の頭をそっと撫でてやった。

そして、カリナから受け取ったサンドを指先で軽く回して見回すと、鼻を近づけた。

すると、ピクリと眉を動かし、次には「やれやれ」と心底呆れたような表情で、長いため息を吐いた。

リュネルは大きな紙袋の中を覗き込む。

そこにはまだ5個の包みが手つかずで残っており、その中の一つを慎重に手に取った。

「カリナさんは、もう食べましたか?」

「はい、私自身の分はすでに」

リュネルはカリナに質問を投げかけながら、魔法薬の調合用の小型器具を取り出し、机の上で手際よく展開していく。

「食べてから、どれくらいの時間が経っていますか?」

「そうですね、…少なくとも5分以上は経過しています」

リュネルは「ふんふん」と頷きながら、携帯用のすり鉢で乾燥した葉を素早く刻み、鎮痛作用のある根を粉々にすり潰し、小瓶の液体を数滴混ぜ合わせ、と、流れるような手さばきで即席の調合を進めていく。

「…毒、ですか?」

カリナが、その手元を見つめながら低く問う。

「ええ、そうですね。まぁ、幸い致死性を持つ毒ではありませんし、この袋の中を確認したところ、毒入りも彼が口にしたこの一つしか無かったようです。単なる嫌がらせか、若しくは……」

と、リュネルがそこまで口にしたところで、魔法薬が出来上がった。

彼は最後の仕上げとして、指先に魔力を込め、短い詠唱を滑らかに口ずさむ。

濁った古い苔みたいな色味だった液体が、魔力と反応して淡くクリアな緑色へと透き通ったのを確認すると、容器を軽くひと回しして成分を馴染ませ、ソランに渡した。

「はい、これを少しずつ飲んで。いいかい、一気に飲まないでね」

ソランは言われた通り、震える手で容器を受け取り、チビチビと苦い薬を飲み下していく。

顔の全パーツが顔の中心で一つに集まってしまうのではないかというほどの凄まじい表情で、その強烈な味に耐えていた。

リュネルはそんなソランの様子をよそに、彼の腹部にそっと手を当てる。

(……珍しい毒だな。サンプルが少ないものだから帰ったら詳しく調べてみよう)

薬を最後の一滴まで飲み切ったソランが、顔を激しくしかめて口元を両手で押さえる。

カリナが間髪入れず、完璧なタイミングで桶を差し出した。

「折角リュネルさんが調合してくださった薬を、吐いて無駄にしないようにね」

「……はい」

ソランの声が、これ以上ないほどに小さく萎縮する。

リュネルは静かに息を吐き、冷徹な結論を提示した。

「ソラン、今日は宿で留守番ね。絶対だよ」

「えぇぇぇ……そんなぁ……」

「“えぇぇ”じゃない。君が倒れたら、僕が困るからね」

「オレだって、派手に動かないのが今回の仕事だってことくらい分かってるし……」

「分かっているさ。だからこそ、いざという時に君の力が必要なんだよ。……だから、回復するまでは大人しくしていること」

「……ちぇ……」

ソランの声は酷く弱い。

だが、悔しさはその瞳の奥にまだ燻って残っているようだった。

カリナが姿勢を正して静かに言う。

「私が厳重に見張っておきます」

その一切の迷いのない言い切り方は、新たな任務を受諾したかのような宣言だった。

「お願いします、カリナさん」

リュネルは信頼を込めて短く言った。

カリナは深く頷く。

その生真面目な表情が、ほんの僅かだけ、ソランを案じる姉のように柔らかく見えた気がした。



リュネルは一人、廊下を挟んだサイラスたちの部屋を訪ねた。

ドアを三度、軽くリズミカルにノックすると、鍵が外れる音と共にドアはすぐに開かれた。

相変わらず氷のように無表情なニコラが、リュネルの姿を上から下までジッと値踏みするように見つめると、無言のまま顎をしゃくって中へ入るよう促した。

「おはようございます、リュネル様。…おや、お二人はどうされたのですか?」

サイラスは、テーブルで資料を広げながら、いつもの完璧な営業スマイルで応対する。

向かいの椅子に座る様にと優雅な手つきで促されたので、リュネルは遠慮なくサイラスの正面に腰を下ろした。

「実は今朝、ソランに毒が盛られましてね」

「ほぅ」

背後に控えていたニコラとエルヴィンが、"毒"という単語に微かに反応し、サイラスは純粋に意外だという顔を作ってみせた。

「それは穏やかではありませんね。しかし、なぜ狙われたのが他でもないソランさんだと?」

サイラスは顎に手を当て、芝居がかった手つきで深く考えるような仕草をみせた。

「彼が今朝、全員の朝食用にと表通りで買ってきたサンドイッチに毒が仕込まれていたのですが、彼が購入した6個中、5個は全く同じ通常の商品でした。しかし、残りの一つだけは、致死量には至らないものの、毒がしっかりと仕込まれ、彼が自分用にカスタムしたものでしたので」

「なるほど。ソランさんがご自身の分として、とりわけ念入りに選んでいたものだからこそ、そこにピンポイントで毒が仕込まれたと……。となると、その屋台の店主が犯人ですか?」

リュネルは少し思考を巡らせるように目を閉じ、短い沈黙を落とした。

「……昨日、カリナ女史も同じ店で軽食を買っていたのですが、それに毒は一切入っていませんでした」

「なるほど、表通りのあのスパイスサンドの店ですね。あそこからならば、我々が滞在するこの宿に出入りする様子も容易に確認出来ます。我々と、リュネル様達が街で共に行動しているところも、見られている訳ですね。……確かに、狙われたのは高確率でソランさんだと推測されますね」

サイラスは一人納得したように深く頷き、後ろの2人に向けて指先で何やら無言で合図を送った。

ニコラはすぐさま資料をサイラスへ手渡し、エルヴィンは足音を立てずに別室へと向かった。

「…ふむ、あそこの屋台は、中年の店主が一人で切り盛りしているようですね。他の従業員を雇っていた痕跡も無い。出身はザフラ王国の西部か。どうやら、商売をしながら各地を転々としている渡りの商人のようですね。現時点では、アウレクシア政府とも、ヴラタ技研連盟との明確な繋がりも確認できません」

サイラスは、文字の羅列からリュネルへと視線を滑らせる。

「とすれば、購入のまさにその瞬間、もしくは購入直後の人混みの中で、第三者が巧妙に毒を混入した、という線が濃厚になるのでしょうね」

リュネルは眉間に指をあて、思考の海に潜るように深く息を吐いた。

そこへ、サイラスが唐突に両手を「パンッ」と乾いた音で打ち鳴らしたため、リュネルの体は反射的に僅かな反応を示した。

「リュネル様、別行動に致しましょう」

「……よろしいのですか?」

サイラスの口角が、ゆっくりと、しかし確実に吊り上がる。

「えぇ、構いません。私が当初予想していた以上に、貴方は優秀で、恐ろしいほど賢いお方だと判断しましたから。今日は昨日貴方に接触してきた、あのスリを追われるおつもりだったのでしょう?」

リュネルは、もはやこの底知れない情報員に対して企みを隠す必要もないと鼻で短く笑い、椅子の背もたれに深く体重を預けた。

「サイラス様達の今日の予定を伺ってから、こちらから提案しようとはしてましたよ。……昨日僕から袋を奪ったただのスリにしては、どうにも引っかかるモノがありましたからね」

サイラスは、心底楽しそうな、そして捕食者のような笑みを浮かべる。

「貴方は、そのままのご判断で結構です。我々は予定通りオルディナエネルギーに探りを入れつつ、ゲートの動向についても網を張りますので。何か有益な情報が手に入りましたら、例の符でお知らせください」

そうして、サイラスとニコラは再び自分たちの作戦会議へと戻っていった。

リュネルは一旦自室に戻り、カリナに事のあらましと今後の行動予定を簡潔に伝えた。

ソランは薬が効いてすっかり眠りに落ちたようで、ベッドの上で大いびきをかいていた。

リュネルは、錬材師としての正装から、いつものフィールドワーク用の服装へと着替えを済ませると、一人静かに宿を後にした。


華やかで整然とした中心街を足早に抜け、無機質な工房区画の外縁を掠めるようにして進む。

足元の石畳は相変わらず綺麗に舗装されているのに、歩を進めるごとに、肌に触れる空気が少しずつ荒れ、淀んでいくのが分かる。

すれ違う人影はどんどん少なくなり、建物の壁面に落書きが増え始める。

そして、鼻を突く特有の臭いがリュネルを暗い路地の奥へと誘い込む。

街の中心から外れた、陽の当たらない区画。

あれほど頻繁に見かけた、街を清掃する自動人形の姿は、この辺りでは次第に見かけなくなる。

道の端や建物の陰に、虚ろな目をして座り込んでいる人々の姿を頻繁に見かけるようになってくる。

リュネルは己の神経を研ぎ澄まし、昨日盗られた袋の中身の微かな魔力の痕跡を確実に辿っていく。

緩やかな坂を下り、見通しの悪い角を曲がる。

両側に迫る歪な建物群によって視界が極端に狭まる。

吹き抜ける風が、不快な湿気を帯びて肌にまとわりつく。

遠くから聞こえてくる人の声の質が、享楽的なものから、絶望と暴力に満ちたものへと変わる。

そこはまさに、巨大なスラム街の入り口であった。

痕跡が指し示す“ゴロつきの溜まり場”は、まるでアウレクシアという都市が抱える傷口に、無理やり張り付けられた粗く汚い布のようだった。

酒場とも、廃物置き場の倉庫ともつかない、歪に増築された建物。

入り口のひしゃげた扉は半開きになっており、中から重く淀んだ音が漏れ出してくる。

安っぽいグラスが乱暴にぶつかる音、品性の欠片もない下卑た笑い声、そして、何かが割れるような音。

それらすべてを包み込むように、濃い脂の匂い、染み付いた体臭、そして鼻を曲げるような安い酒のアルコール臭が漂っていた。

リュネルがその建物の前で、静かに足を止める。

(……痕跡の反応は、確かにこの辺りから出ているね)

リュネルは一切の躊躇を見せず、半開きの扉を素手で遠慮なくノックした。

「失礼。少しばかり、探し物をしているのですが」

返事はない。

代わりに、扉の向こう側で響いていた下劣な笑い声が、不自然にスッと小さくなった。

重い足音がこちらへと近づき、軋む音を立ててゆっくりと扉が開かれた。

中から出てきたのは、異常なまでに痩せこけた男だった。

落ち窪んだ目は危険な薬物でもやっているのか酷く濁っており、口元だけが獲物を見つけたかのように不気味に歪んで笑っている。

「なんだ、お前は。見ねぇ顔だな」

男は、リュネルの身なりを上から下まで値踏みするように見る。

その瞬間、男の口元の笑いが、警戒を帯びてスッと薄くなった。

「……ん? お前……」

リュネルは、相手の威圧に微塵も動じることなく、毅然とした態度で男の濁った目を真っ直ぐに見据えた。

「昨日、この街の繁華街の辺りで、大切な小さな袋をなくしてしまってね。……中身を返してさえくれれば、それ以上事を荒立てるつもりはない」

男は、リュネルの言葉を聞いて喉の奥で嗤った。

「落とし物、だと? ハッ、ここは親切なお役所の拾得物係じゃねぇんだよ、お坊ちゃん」

「んー、そう言われましてもね。あの中身には、後から追えるような、術がかかっていましてね。僕の袋が今現在、この辺りにあるのは、分かっているんですよ」

「……ほぉう。だったら、案内してやるから、相応の案内料をたっぷり払ってもらおうじゃねぇか」

男が、合図するように指をパチンと鳴らす。

その瞬間だった。

建物の薄暗い内側から、殺意を孕んだ影が一気に溢れ出した。

目の前の男だけではない。

建物の奥、そして周囲の路地の死角から、さらに数人の荒くれ者たちが姿を現す。

そして、彼らの背後から迫る足音には――ただのチンピラにはあり得ない、訓練された“揃った動き”があった。

これは、ただのゴロつきの群れではない。

ナイフに棍棒、手斧。

それらの武器を手にした男たちが、リュネルをぐるりと取り囲む。

だが、リュネルの表情は全く崩れなかった。

周囲を取り囲む男たちへ向けて、静かに問いかける。

「スリは単なる撒き餌で、狙いは最初から僕の命だった、という事で良いのかな?」

スリを働いて袋を奪い、持ち主が魔法で追跡してくるのを待って、この人気のないスラムの奥地へとおびき寄せる。

そして――痕跡ごと、暗闇の中で確実に消し去る。

「ご名答だ、錬材師センセイ。正直、お前らが別行動を取ってくれたのは最高に好都合だったぜ。あのバカみたいにデカくてゴツい若造が側に居なければ、お前みたいなヒョロいのを路地裏で潰すなんて、俺たちにとっちゃ赤子の手をひねるより楽な仕事だからな。安心しな、お前のその鬱陶しいお友達たちも、今ごろは綺麗に消されてるだろうよ!」

男たちは、勝利を確信したように一同に下劣な笑い声をあげる。

そして、彼らの最初の攻撃は、藪から現れる毒蛇のように速かった。

鋭く磨かれた刃が二本。

狙いは正確に、リュネルの頸動脈。

だが、リュネルは一切の焦りを見せず、身体の重心をわずかにズラすという最小限の動作だけで、刃を滑らかに躱す。

それに続くように、今度は四方八方から無数のナイフと棍棒が容赦なく振り下ろされてくる。

しかし、それらの凶器はリュネルの身体に届く数十センチ手前の空間で、まるで見えない鋼の壁にぶつかったかのように、激しい火花を散らして弾き返された。

「なっ……!?」

男たちは、突如として展開された不可視の防護結界の衝撃に一瞬怯むが、すぐに気を取り直し、怒声と共に波状攻撃を仕掛けてきた。

リュネルは右手で杖を流麗に構え、左手には星の煌めきを思わせるミドルソードを逆手で握りしめた。

杖の先端から放たれる多彩で変則的な魔法――視界を奪う閃光、足元を凍らせる冷気、平衡感覚を狂わせる幻惑――で男達の連携を徹底的に惑わし、翻弄する。

魔法の隙間を縫って繰り出される攻撃に対しては、ミドルソードで的確に合わせていなし、相手の体勢を崩していく。

「お前ら! コイツたった一人相手に何をモタモタ手こずってやがる!! さっさと取り囲んで殺れ!!」

リーダー格の男が焦燥に駆られて怒鳴り散らす。

リュネルは体力の消耗を防ぐため、あくまで最低限の動きだけで対処していたが、攻撃を空振りし続ける男達の側には、確実に疲労と焦りが見え始めていた。

しかし、彼らはそれでも心折れて逃げ出すどころか、逆に死に物狂いで、まるで蜘蛛の糸のようにしつこく絡みついてくる。

(……そろそろ本格的に面倒くさくなってきたな……)

リュネルは、冷たい瞳で杖を構え直した。

だが、この街中で派手に立ち回るわけにはいかない。

既に少し遅い気もするが、これ以上長引いて騒ぎが広まるのは、今後の潜入任務においては得策では無いという考えがリュネルの頭をよぎる。

(広範囲を一度に眠らせる手は……いや、相手の組織の底が知れない以上、中途半端な眠りではなく完全に無力化する必要がある。ルーガルを召喚するか? ……いや、ここで喚ぶのもまずいか。やっぱり、やるしかないのかな……)

リュネルは、防御一辺倒だった動きの中に、少しづつ反撃の攻勢を混ぜ込んでいく。

男の突き出した腕、踏み込んだ太もも、無防備な肩口などに、ミドルソードの刃を正確に滑らせつつ、同時に杖から放つ微弱な雷撃魔法を傷口に流し込んで、相手の肉体の麻痺と思考の鈍化を強制的に引き起こす。

しかし、如何せん相手は数が多すぎた。

そして何より、彼らの狙いは正確だ。

恐怖を麻痺させられたように、ただ純粋に“殺す気”で突っ込んでくる。

相手の命を奪わず、何とか致命傷だけを避けて無力化しようとするリュネルの戦い方とは、背負っている覚悟と殺意が決定的に違うのだ。

一瞬の死角。

リュネルの左腕を背後から音もなく迫ったナイフの刃が僅かにかすめた。

傷自体は浅いが、痛みのせいでリュネルの動きが僅かに鈍る。

(……鬱陶しいな)

このままジリ貧になる前に、周囲の被害を度外視して広範囲魔法で派手に一掃するか。

あるいは一旦この場から退却し、態勢を立て直すか。

リュネルの思考の中で、選択肢が二つまで絞り込まれた。

――まさにその時だった。

リュネルの背後へ回り込もうとしていた男の一人が、突然、目に見えない糸が切れた操り人形のように、声一つ上げずにドサリと地面に崩れ落ちた。

そして、その男が倒れた直後の色濃い影の中から、得体の知れない“誰か”が音もなく現れた。

現れた、というより、まるで地面に張り付いていた“影そのものが自らの意志を持って立ち上がった”かのような、異様で美しき暗殺の歩法であった。

次の瞬間、薄暗い路地に、白銀の刃が一筋、残酷なまでに美しく閃いた。

一瞬の交錯。

一人目の男の喉笛が、悲鳴を上げる間もなく鮮やかに裂ける。

二人目。

驚愕に目を見開いた男の背後から刃が滑り込み、絶望の息が漏れる。

三人目。

頸動脈から鮮血が噴きだし、糸を切られたように体が崩れ落ちる。

四人目、五、六、七、八……。

リュネルを幾重にも取り囲み、確実な死の包囲網を築いていたはずの精鋭の賊たちが、まるで刈り取られる麦のように、次々と無残に倒れていく。

それはまさに、芸術的とも言える“瞬殺”の光景だった。

動きに一切の無駄がなく、刃の軌道に微塵の迷いがない。

致命傷を与えるその動作が、まるで夜会でワルツを踊っているかのように、恐ろしいほどに軽く、そして歓喜に笑っているようにすら見えた。

そして、最後に偉そうに指示を出していたリーダー格の男の胸を、背後から突き出された刃が容赦なく貫くと、この血生臭い路地裏で生き立っているのは、リュネルと、その影から現れた“男”だけになった。

影から姿を現した男が、手にした二振りの短剣を空中で軽く振るい、血を払い落とした。

その一連の動作が、舞台役者のようにどこか芝居がかっている。

そして、男は振り返ってリュネルの顔を見ると、極めて嬉しそうに、無邪気に笑った。

「……やぁ。意外なところで会うもんだねぇ」

リュネルは、その顔を見るなり全身の緊張を解いて深く息を吐き、呆れたように口元だけで笑った。

「……本当だよ。ヘルメス」

旧友に名を呼ばれた男――ヘルメスは、大げさに肩をすくめてみせた。

「リュンちゃんこそ、こんな危ないスラムの奥地で、一体どんななお仕事をしてるんだい?」

「まぁね、色々と厄介事に巻き込まれてね。君こそ、どうしてこんな所にいるんだい?」

「俺? 俺は……そうさねぇ、天気のいい日のお散歩かねぇ?」

「嘘だね」

「バレた?」

ヘルメスは、血まみれの死体の真ん中で、これ以上ないほどわざとらしいお手上げポーズを作ってみせた。

「もっとマシな嘘をつきなよ」

リュネルは、目の前の惨状と男の軽薄さのギャップに眩暈を覚えながら、生温かい視線をヘルメスに向けた。

「一応、助けてくれてありがとう、と言うべきなのかな?」

「いーや、俺が勝手にそうするべきだと思って、身体が動いちゃっただけさ。………それよりさぁ、久しぶりの再会なんだから、もっと俺に抱きついて喜んでくれてもいいじゃんか〜!」

ヘルメスはバチコンとウィンクを飛ばしたかと思えば、捨て犬のようにねだるような甘えた表情を作り、リュネルとの距離を一気に詰めてきた。

リュネルは、迫りくるその顔面を、無表情のまま片手で少し力を込めてグイッと押し返す。

二人の背格好や体格はさして変わらないように見えるのに、ヘルメスの前進に、リュネルは押し負けそうになる。

「分かってる、僕だって君に会えて嬉しいよ。…けど、できればこんな死体の山の上じゃなくて、もっと穏やかな場所での再会が良かったよ」

その皮肉を聞いても、ヘルメスの表情はまるで緊張感の欠片もない、気の抜けた飄々としたもののままだった。

そして、「あはは、違いない!」と笑いながらリュネルから離れると、何食わぬ顔で足元に転がっている賊の体を靴先でゴロリと転がし始めた。

そして、その中の男の一人の懐に手を突っ込み、手慣れた動作で何かを抜き取る。

「……やっぱり、予想通り『ゲート』の連中だ」

その瞬間、ヘルメスの声の温度が先ほどの軽薄さから一転して、低く沈み込んだ。

リュネルの目も、その言葉を受けて鋭く細くなる。

「君の、この国での本当の目的は?」

「ヴラタ技研連盟の弱体化」

ヘルメスは、己の機密であるはずの目的を、リュネルに対しては隠そうともせずにさらりと言い放った。

「組織の完全なる壊滅までは求められていない。ただ、ヴラタはあまりにも大きくなり過ぎた。少しばかり、その枝葉を切り落として痛い目を見せる必要がある」

「へぇ、今回は雇い主がいるんだ?」

ヘルメスは、緩かった表情を少しだけ引き締め、苦笑した。

「…ホント、きみ相手だとどーしょーもなく気が緩むねぇ」

誰からの依頼なのか、深く追求する事も頭をよぎったが、この飄々としたヘルメス相手に真正面から問い詰めたところで、のらりくらりとかわされるだけで意味がないだろうと判断し、リュネルは最低限の情報交換に徹することにした。

「……ゲート、って組織の正体、君なら詳しく分かるかい?」

「あぁ、リュンちゃんたちはそっちを調べてるんだ」

「……ヴラタ技研連盟の表の顔と、裏社会のゲートとの繋がりを、知りたいんだ」

リュネルは訝しげに、ヘルメスの口から語られるであろう真実の言葉を待つ。

「リュンちゃん、今回のヤマは、きみが思っている以上にかなり厄介よ?」

ヘルメスが、真剣な面持ちで語り始める。

彼が独自のルートで得た情報によれば、ヴラタ技研連盟は設立当初こそ、魔導工学を純粋な形で発達させ、人々の生活を豊かにしようとする健全な技術者たちの団体であった。

だが、ある時期を境に、組織の上層部が技術の兵器転用や、人体実験を伴う禁忌領域への到達を積極的に試みるようになり、裏社会での実動隊としてできたのがゲートなのだ。

そして、その急激な方針転換の背景には、強大な軍事力を持つ大国が関与しているらしい。

だが、その某国が具体的にどこなのかに関しては、さすがの彼の口からも詳細な国名が漏れることはなかった。

リュシェン公国と水面下で激しく対立しているアウレクシア。

そして、そのアウレクシアの技術的躍進の背後で糸を引く、得体の知れない大国の影。

リュネルは、自分が想像以上の規模の面倒事に突っ込んでしまった事実を改めて突きつけられ、思わずその場で頭を抱えそうになる。

「で、リュンちゃんの方は? 一体何を調べて、こんな所まで来たのさ」

ヘルメスは、賊達の懐漁りを調べる手を止める事なく、背中越しに聞いてくる。

「……ある国から、アウレクシアから国境を越えて違法な素材や危険な魔道具が流出しているから、その出所と製造工程を内密に調査して欲しいって、ルキフェリアに依頼が来たんだ。それで」

「なるほどね、それでリュンちゃんに専門家としての協力依頼が直々に来たって訳ね」

ヘルメスは立ち上がると、両手をパンパンと振って、指先に付着した血と汚れを落とそうとする。

しかし、そんなもので汚れが落ちるはずもなく、ヘルメスは無頓着にも、足元に転がっている賊の衣服で直接手を拭こうとしゃがみ込んだ。

「ちょっと待ちなよ、汚いな」

リュネルは仕方なくため息をつき、自身の手持ちの布切れを彼に渡してやった。

「目のつけどころは悪くないけど、それならこんなスラムは調査には向かないんじゃない?」

「サンキュ」と布切れを返してきたヘルメスに対して、リュネルは杖を向けその布を燃やしながら答えた。

「いや、今は僕から魔道具を盗んだスリを探しているんだ」

「はぁ? 何、リュンちゃんからモノを盗った奴がいるの? やるねぇ、ソイツ」

ヘルメスは心底意外そうな顔をして目を丸くしたかと思えば、すぐに細めた瞳の奥に、悪戯を思いついた子供のような悪だくみ顔を浮かべた。

「で、盗られた中身は?」

「僕が錬成した魔法石を使った魔道具さ」

ヘルメスは、腕を組んで納得したように深く頷いた。

「なるほど。それなら確実に追えるわけね」

リュネルは「そういうこと」と頷くと、少しだけ余裕を取り戻した笑みを浮かべた。

「じゃあ、少し手伝ってくれるよね?」

「えぇー? リュンちゃん、自分で魔力の痕跡を追えるんでしょー?」

「追尾魔法ほど正確な位置情報までは分からないんだよ。"ざっくりとこの辺りにいる"みたいな曖昧な感じ方しかできないからさ、この入り組んだスラムで隠れ家の場所を探すには、一人じゃかなり骨が折れる。それにキミは、僕なんかよりもこの裏路地に、随分と慣れているみたいだからねぇ」

ヘルメスは、やれやれといった大げさな表情で肩をすくめてみせたが、その目は明らかにこの危険なゲームを楽しんでいた。

ヘルメスは、リュネルを先導して路地をさらに奥へと進む道すがら、ここ数日の間に彼が掴んだゲートの不穏な動きについて語った。

数カ月前から、ゲートの内部で何らかの巨大なプロジェクトに向けた準備が急がれるようになり、特に昨日の夜から今日にかけて、その動きが一気に慌ただしく、かつ怪しくなってきたらしい。

証拠を隠滅しようとしているのか、あるいは計画を前倒しで実行に移そうとしているのか、何かを強引に隠蔽しようとする動きが、末端の構成員にまで顕著に表れてきているというのだ。

そして何より、彼が掴んだ最も重要な情報が、リュネルの背筋を凍らせた。

「ガルディア帝国の部隊が、アウレクシアに?」

「そう。それも、SSSドライが、だ」

ガルディア帝国軍特殊戦略部隊――『SSSドライ』。

強大な軍事力を誇るガルディア帝国の中にあって、主に他国への諜報活動を主軸とする影の軍団。ひとたび皇帝から命じられれば、国家規模の破壊工作、要人の暗殺、都市の転覆等、いかなる非人道的な活動をも一切の躊躇いなく遂行する、血塗られた戦闘狂の集まりである。

そんな部隊が、すでにこのアウレクシアに潜入しているという事実が意味すること……。

これは単なる違法素材の密輸事件などではない。

この決定的な事実を、情報部のサイラスたちはすでに知っているのか。

あるいは彼らすら出し抜かれているのか。

今後の調査の方向性を根本から再検討しなくてはならない。

リュネルの明晰な頭脳の中であらゆる最悪のシミュレーションが濁流の如く氾濫を起こし、思考が飽和しかける。

「おーい、リュンちゃん、どこ行くの? こっちよー」

細い裏路地からさらに暗い脇道に入るところで、ヘルメスの呑気な声に呼び止められ、リュネルは深い思考の海から現実へと意識を引き戻された。

「えっ? あぁ、ごめん。少し考え事をしていて」

「危ない危ない、迷子になっちゃうよ? ほら、手ぇ繋ごうか?」

ヘルメスは、暗殺者の血塗られた過去など微塵も感じさせない、貴族のように上品で甘い笑顔を浮かべながら、リュネルの腰に馴れ馴れしく腕を回そうと近づいてきた。

だが、リュネルはそれを、風が柳を避けるようにスルリと回避した。

ヘルメスのこの手の過剰なスキンシップには長年の付き合いで慣れていたつもりだったが、そのあまりにも胡散臭い笑顔が、最近行動を共にしている「あの情報部の男」の顔と一瞬重なり、既視感による強烈な拒絶反応で、身体が反射的に動いてしまったのだった。

「うわぁーん、俺、すっごく傷ついちゃったなぁ〜! リュンちゃんが危ない道で転ばないか心配だから、優しさでやったのになぁ〜!」

ヘルメスは、これ以上ないほどわざとらしい猫撫で声を発し、両手で顔を覆って泣いたフリをするという、お決まりのウザ絡みコンボを仕掛けてきた。

「ごめん。ここ数日、さっきみたいな笑顔を貼り付けた、信用できない男とずっと行動を共にしていたものだから……身体が勝手に反応しちゃって」

「えっ、女神様のように心の広いリュンちゃんに、そこまで言わせるなんて! よっぽどの曲者じゃん、そいつ!」

冗談か本気か、「是非一度、その面白そうな奴に会ってみたいねぇ」とまで言い出す始末。

「絶対にやめておきなよ」と言うリュネルの本気のマジトーンに、ヘルメスの危険な好奇心は、ますます掻き立てられたようだった。

先ほどの死線の緊迫感が嘘のように抜け落ちた、気の置けない軽妙な会話を交わしながら、彼らはスラムのさらなる深部へと続く暗い路地の奥へと足を踏み入れていく。

太陽がちょうど真上にやって来た時間帯であるはずなのに、スラムの中はどこまでも薄暗かった。

流れを失って淀んだ空気と、不快な湿気が重くねっとりと肌にまとわりついていた。

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