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アルカナ堂は今日もゆく〜素材屋リュネルの秘録〜  作者: 磨羯瑞花


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第40話 魔導工業都市アウレクシア〜探訪〜

アルデランの依頼から2日が経った。

陽の光が窓に届ききらない薄明の時間から、アルカナ堂は動き始めていた。

入り口の扉に掛けられた木札は「準備中」が向いていた。

けれど、表通りの静けさとは対照的に、店の奥は忙しさに支配されていた。

見慣れた街から遠く離れるための旅支度というものは、ワクワクと同時に緊張感も運んでくる。

特に今回に関しては、緊張が勝るだろう。

硬質な真鍮の留め具がガチリと鳴り、繊細な魔法薬の瓶が厚手の布に一筋の隙間もなく包まれていく。

いつもならば、1日の始まりに向けて棚の商品を整えている時間に、今日の彼らは装備の最終確認を、厳かに行っていた。

「先生、これ、ほんとに持っていく必要があるの?」

ソランが、旅用の金属製の水筒を持ち上げて軽く振ると、ちゃぷ、と重い水の音が響いた。

「いるよ。いつでも綺麗な水が手に入るとは限らないからね」

リュネルは、いつもと変わらぬ淡々とした声音で答えながら、別の遮光性の小瓶に、自ら精製した特製の“吸着灰”を丁寧に詰め直していた。

いつだったかに使用したものと同じ系統の術理を持つものだが、今回のものはより一層、粒の粒子が細かく均一に揃えられている。

その灰は、大気中の不純な水にも、異質な匂いにも、あるいは魔力を持った特定の物質にも吸着する。

「先生の収納魔法ボックスにも、山ほど装備が揃ってるっていうのに、わざわざ鞄でも持ってくなんて、二度手間で少し面倒じゃね?」

ソランは、リュネルから指示された通りの手順で、様々な用途の道具を詰めていく。

その筋肉質の逞しい腕は、どれほど荷物が重くなろうとも決して揺らぐことはないだろう。

「それだと、万が一僕の魔法が封じられた時、もしくは、僕自身がみんなと完全に分かれた状況になったら、何もできなくなっちゃうだろ?」

リュネルはソランの手元に的確な指示を出しつつ、自身の手持ちと、魔法空間の両方の装備の最終確認をしている。

その群青の瞳には、一切の妥協がなかった。

「あはは、先生がそんなヘマをするわけねぇーって!」

「ありがとう。でも、念には念をね」

そんな二人の、まるでいつもと変わらない日常の延長線上にあるかのようなやり取りを横目にしながら、カリナは少し離れた位置で、黙って己の荷の点検を行っていた。

長剣、短剣、応急救急キット、煙幕……

ベルギスは薄暗い玄関脇に静かに立ち、開店の準備をしつつリュネルたちの出発の様子を静かに見守っていた。

その寡黙な佇まいは、今回の旅に対して怒っているわけでも、あるいはアルデランの要請に反対しているわけでもない。

ただ、己が経験として今回の危険を感じているがゆえの、重い沈黙だった。

「……決して、無茶な真似はするなよ」

ベルギスが、地の底から響くような低い声で、しかし絞り出すように小さく言った。

「わかっているよ、ベルギス。店を頼むね」

「あぁ」

ベルギスはそれ以上、感傷的な言葉を重ねることはせず、いつものように店内の丁寧な掃除へとうつった。

そして、店の奥からリラがおずおずとした足取りでやってくると、胸元で大切に抱えていた小さな布の包みを、壊れ物を扱うかのようにリュネルへと差し出した。

「あの……念のため、これを持って行ってください。薬飴と、精神を落ち着かせるためのお香です。それと、あと……」

「どうした? リラ嬢」

ソランが不思議そうに首を傾げて彼女の顔を覗き込む。

「あの、……どうか、無事に。何事もなく、元気に帰ってきてくださいね」

リラは、二人を安心させるようににこりと愛らしく笑ってみせたが、その瞳の奥にある震えから、無理に笑っているとありありと分かった。

「心配すんなって! 先生とオレが帰って来なかったことなんか、これまで一度だってねぇーだろ?」

ソランが豪快に胸を叩くと、リュネルもリラからの温かい包みを両手で恭しく受け取り、いつものようにすべてを包み込むような穏やかな笑みを浮かべた。

「リラさん、ありがとうございます。ソランの言う通りですよ。僕らはいつも通り帰ってきますから、何も心配はいりません。大丈夫です」

「──はい……はい! そうですね、お帰りをお待ちしてます!」

そう応じたリラの表情は、二人の揺るぎない自信に救われたのか、幾分か明るいさを取り戻したようだった。

リュネルは魔法空間を閉じると、腰の装備を確認して外套を羽織った。

店の扉を開けて外へと足を踏み出すと、朝の街はまだ深い眠りのなかに半分だけ微睡んでいた。

空の隅では白む青にオレンジが混ざりだし、角にあるパン屋の窯から立ち上る白い煙が、一本の道の様にまっすぐ空へと伸び始めていた。

「それじゃあ、行こうか。ソラン、カリナさん」

「おう、出発だ!」

「……はい」

発せられた小さな気合いの違いが3人の歩幅に滲み出ていた。


合流地点として指定されていたのは、官庁街の外れ、目立たない古びた建物の裏庭だった。

そこは表の通りからは見えない馬車溜まりで、主に深夜の物資の運び込み場として使われている場所だった。

そこにはすでに“情報部”の面々が気配を消して静かに待っていた。

人数は、3人。

リュネルからして、いかにもな佇まいの男が2人。その目は決して笑わず、"ただ居る"だけである。

注意していなければ、背景の古い石壁の風景にそのまま混じってしまうのではとリュネルは思ってしまった。

そして、その不気味な二人の真ん中に、不自然なほどに笑顔が整っている男が、悠然と立っていた。

男がリュネル達に気が付くと胸元にそっと手を当て、完璧な角度で丁寧に頭を下げた。

「お待ちしておりました。今回の、アレクシアにおける本作戦の全体取りまとめ役を務めます、サイラスと申します」

その笑顔は確かに柔らかく、発せられる声のトーンも聞き手にとって丁度いい心地よさを持っている。

けれど、その瞳の奥の深淵には計り知れないものがあった。

その立ち振る舞い、礼儀作法は一寸の狂いもなく完璧。

だが、完璧すぎて人間味が削ぎ落とされているがゆえに、リュネルとしては最も信用しにくい種類の人間にカテゴライズしてしまう。

その隣の二人は、自らの口から名乗ろうとはしない。

この場において、自分たちの個人の名前など名乗る必要性すら存在しないと、その無感情な表情が語っていた。

サイラスが、彼らの代わりに流れるような調子で紹介を添える。

「こちらの、少々目つきの悪い者がニコラ。そしてこちらの、一際体躯のデカいのがエルヴィンです。2人とも些か冗談の通じない堅物ではありますが、与えられた仕事だけはキッチリと、完璧にこなしますよ」

「そんな紹介するヤツが、冗談通じませんって言うなよ」

ソランが、リュネルの影に隠れながら小声で的確な突っ込みを入れると、ニコラは、瞬き一つ、微動だにせずにソランをじっと見据えた。

ただそれだけだが、ソランは本能的に半歩後ろへと引いた。

(……うわ、マジで冗談の通じないヤバいやつだ)

ソランの引きつった表情が明確にそう物語っている。

サイラスは彼らの反応を気にする風もなく、再びリュネルへと真っ直ぐに向き直った。

「本件の運用において、我々はあくまでルキフェリア王国の“関与を完全に否定できる”範囲内で動くことになります。つまり、あなたが現地で表立って派手に立ち回る必要は一切ありません。それだけは頭に入れておいていただきたい」

「安心してください、僕もそんな面倒な舞台に立つつもりは毛頭ありませんよ」

リュネルが淡く、突き放すような温度で返すと、サイラスはその言葉の裏にある確かな諦念を歓迎するように、一層嬉しそうに口元を歪めて笑った。

だが、その仮面のような笑みが、逆にこちらの警戒心を鋭く刺激する。

「それは結構。では、現地の行動範囲と権限を確認します。基本的には、専門家としてのあなたの判断を最大限に尊重しましょう。

ただし、それはすべて我々情報部が提示する命令の範囲内、という絶対的な条件付きですがね。なにせ、ここには国規に忠実な優秀な監視役の方も、わざわざ同席していらっしゃることですし」

サイラスは、さらりとその冷ややかな視線をカリナの身体へと向けた。

カリナは、背筋を真っ直ぐに揃えたまま、微動だにせず視線だけを彼へと返した。

相手の神経を無駄に刺さない程度の最低限の視線。

「監視役、というその直接的な言い方」

リュネルが、張り詰めた場の空気を和ませるような穏やかな声音で割って入る。

「僕の周りには、どうにもその言葉を直接耳にするのが、あまり好きじゃない人が多いので、ね」

「あぁ失礼いたしました。かく言う私もその回りくどい表現は大嫌いです」

サイラスは、その胡散臭い笑顔を崩さないまま即答した。

「組織の面目を保つため、利益の為ならば仕方ありませんが…、やはり手っ取り早く済ませるのが一番です、はい」

(……ずいぶん正直な男だな)

リュネルは心中で小さく溜息を吐き出す。

こういう類は作戦の遂行において余計な嘘はつかない。

その代わり、目的を達成するためのやり口が、常軌を逸してえげつないのだ。

サイラスが、懐から綺麗に整えられた薄い資料の束をリュネルへと手渡した。

「リュネル様のアウレクシアへの入国に際しては、我が国の商談に同行する“技術顧問”という形式をとっています。リュネル様以外の名義や身分の履歴はこちらで完璧に偽造したものを用意しました。ソラン殿は、表向きは荷物の護衛兼、運搬役。そしてカリナ殿は……随行員、です」

言葉の端々に、どこかカリナという軍人に対して、僅かに棘のある物言いが混じっていた。

「……随行員という立場で結構です。異存ありません」

カリナが、感情を排して短く答える。

ルキフェリア軍としての正式な肩書きは、今回の隠密という緊迫したシチュエーションにおいては相性が悪いことを、彼女自身が一番理解していた。

サイラスは満足そうに頷いた。

「結構、では早速現地へと向かいましょうか。念の為ポータルを二度中継して入国します」

ソランが、ここぞとばかりに腕を大きく回し、快活に笑った。

「よっしゃ、久々のよその国、アウレクシアだ! 先生、向こうの街にも美味い匂いがするような屋台ってたくさんあるかな?」

その呑気な問いに対し、大柄なエルヴィンが表情一つ変えずに淡々と声を落とした。

「ある。だが、任務中の不用意な食べ歩きは徹底して控えろ。現地の水や油が合わず、胃腸の支障をきたす原因になる」

「うわ、出たよ。先生と同じ、小言の多いタイプだ」

ソランが心底渋い顔をすると、リュネルが軽く肩をすくめて目を細めた。

「どうやら、君のような食いしん坊に対する大人の認識というものは、国や組織を問わず世界共通のようだね」

その微笑ましいやり取りの最中、サイラスの笑顔が、ほんの少しだけ冷たい陰りを見せた。

「では、行きましょう。私たちが追うべき“裏社会の暗がりに潜む連中”は、のんびりとは待ってはくれませんからね」


アウレクシアへの入国は、拍子抜けするほどに滑らかでスムーズなものだった。

──ただし、たった一人の例外を除いては。

アウレクシアの国境に設置された巨大な検門は、徹底して機械的であり、極めて丁寧であり、そして恐ろしいほど淡々と進んでいく。

新興の魔導工学の国を自負するだけはあり、入国者の固有の魔力波形を瞬時に読み取る、巨大な円環状の“門”の魔導装置が幾重にも並び、人の身分証や荷物のこれまでの移動履歴を、淡い、青白い光の波で冷徹に照らし出していく。

サイラスが用意した偽造書類は、何の問題もなくその検閲をパスする。

ニコラの、光を映さない死んだ顔も、装置の光をそのまま通り抜ける。

エルヴィンの、威圧感そのものの沈黙も、システムを滞らせることはない。

ソランの、訓練された軍人なら一目で警戒するような“怪物じみた”気配すら、この機械の目の前では、単なる「力仕事を担当する若造の、強靭な肉体」という評価だけで簡単に通り抜けた。

しかし、リュネルの番が訪れたその瞬間、魔導装置の放つ青白い光が一瞬だけ、凝固するかのようにその密度を濃くした。

リュネルがに忍ばせている、各種装備の魔力に敏感に反応したのだろう。

「……錬材師」

機械の数値を凝視していた検問官が、冷たく言った。

その声音は硬く、一切の感情が排除されている。

「我が国において、一体何を行う目的がある」

「我が国の商会への技術協力です。それと、商談時における各種素材の鑑定を」

リュネルは、検問官の曇りのない瞳を見つめ返し、真っ直ぐに答えた。

それは一切の嘘偽りのない事実だ。

検問官は一拍の沈黙を置き、手元の魔導機械の数値へと目線を戻す。

すると、強張っていた円環の光がふっと薄まっていった。

「……通れ。次の者」

それだけだった。

そこには、人間の持つ直感的な疑念や、感情の機微による摩擦など、微塵も存在しなかった。

その門を抜けた瞬間、全身の皮膚に触れる空気感が劇的に変わった。

舗装された道の隙間から立ち上る匂いが、ルキフェリアのそれとは決定的に違った。

アウレクシアの街の中心部は確かに目を見張るほどに栄華を極めていた。

馬車が三台同時に並んで走れるほどに広い通り。天を突くように高く聳え立つ金属とガラスの建物。

一点の曇りもないガラスの窓。

音もなく滑らかに走る最新式の荷車。

行き交う人々の衣服は一様に整っており、あちこちから朗らかな笑い声すら聞こえてくる。

露店から漂う美味そうな香りは決して周囲の美観を損なわぬよう強すぎず、街角で奏でられる音楽の音量も、派手すぎずに統制されていた。

(……賑やかな、普通の街だ)

ソランが退屈そうに肩をすくめた。

「先生、なんだか思ったよりも全然普通じゃん。もっとこう、怪しい組織の実験場っていうからさ、街中から紫色の怪しい煙とかがモクモク立ち上ってるもんだと思ってたよ」

「ソラン、本当に怪しい所は、怪しいって分からないようにしてあるものだよ。『私たちは怪しい事をしています』なんて自分からひけらかすはずはないだろう?表向きは市民に受け入れてもらえるような事業を行って根付くか、力と恐怖で支配するかのどちらかさ」

リュネルが瞳を細めて返すと、ソランは「うわ、またそういう小難しいお説教は勘弁してよ」と言いたげな、分かりやすい不満の顔を作った。

一方でカリナは、警戒を解かぬまま周囲の風景を観察し、その美しい眉を少しだけ不自然そうに動かした。

整いすぎているのだ。

すべてがミリ単位で統制され、完璧に整っているのに、肌に触れる大気がどうしようもなく居心地が悪い。

サイラスが、二人を促すように短く告げた。

「我々は、このまま記録保管局へ向かいます。あなた方は、夕刻までこの街の調査を」

「え? ここでいきなり別行動かよ?」

ソランが紅の瞳を丸くして驚きの声を上げる。

カリナもまた、そのサイラスの意図を測りかねるように訝しげに首を傾げた。

サイラスはその胡散臭いいつもの笑顔をにっこりと浮かべる。

「ええ。意外ですか? ……まぁ、私としても意外ですね」

意外、と言葉では口にしながらも、その冷え切った目の奥はそう語っていない。

「あなた方はあくまで“民間の専門家”という建前です。それに、大勢で一緒に行動していては、かえって周囲の目に留まりやすくなりますからね。……ここには、優秀な監視役の方も同行していらっしゃることですしね」

彼は、さりげなくカリナへとその視線を向けた。

カリナは、自身の感情の揺らぎを悟られぬよう、小さくため息を吐き出した。

「……つまり、こちらがこの街をどのように歩こうが、現時点では自由である、と?」

リュネルが、確認するように問いかける。

「命令の範囲内、すなわち我が国への不利益を被らない行動であるならば、基本的にはどこをどう歩こうが自由で構いませんよ。ただし、夕方にはこちらの宿で必ず合流を。お互いが掴んだ情報を冷徹に突き合わせましょう」

サイラスは笑顔の仮面を貼り付けたまま宿の券を3枚渡してきた。

「あぁ、それからもう一つ。不用意にスラム街へは足を踏み入れないこと。今日はあくまで、この“街の綺麗な表の顔”だけを、丹念に観察してください」

リュネルはその意図を正確に咀嚼して静かに頷いた。

「分かりました。そちらの潜入も、どうぞお気を付けて」

「もちろん。我々にとってミスとは死を意味しますからね」

サイラスがさらりと恐ろしい事を口にした。

その言葉が、どこか借り物のように聞こえたのはリュネルだけではないだろう。

情報部の3人は、声を掛け合うこともなく、まるで大波の人混みのなかに吸い込まれるみたいに、一瞬にして消え去った。

残された3人は互いに一瞬だけ目を合わせ、それから全く同じタイミングで、目の前に広がる機械仕掛けの街並みを見回した。

「……別行動って逆に怖いな」

ソランが背後の気配を気にしながら小声で呟く。

「先生、俺たちこれから具体的に何すればいいんだ?」

「そうだね、とりあえず……観光でもして行こうか。一見綺麗なこの街にも、何かが紛れ込んでいるかもしれないからね」

リュネルは街の匂いを深く吸い込み、目を細めた。

アスファルトの匂い、乾いた埃、鉄の摩擦、そして様々な香辛料の香り。

その何層にも重なる大気の奥底に、

(……イヤな臭いがするな)

リュネルの勘のような嗅覚が捉えた、わずかな生臭さ。

彼の頭のなかでアルデランから提示された複数の憶測が、忙しなく行き交い始める。

カリナが周囲を見つめながらポツリと呟いた。

「……この街に、本当にスラムが存在するとは到底思えませんね」

「そうですね」

リュネルは静かに頷く。

行き交う人々の表情やその服装も、ルキフェリアの活気ある街とほぼ変わりはなく、都市の構造や技術の違いはあれど、目に見えておかしな点は無い。

「まずは、一番人が集まる繁華街に行ってみよう。さっきからソランのお腹の虫が鳴きっぱなしだからね」

そう言ってリュネルは、迷いのない足取りで歩き出した。

少し呆れたような顔でカリナがその後に続き、最高に嬉しそうな顔でソランがリュネルのすぐ隣へと駆け寄っていった。


3人は昼下がりの活気に満ちた中央繁華街の雑踏を歩く。

飲食店が立ち並ぶエリアのなかには、手軽な軽食を提供する多くの屋台も活発に出店していた。

それらの屋台から漂ってくる香ばしい肉の焦げる薫りに、ソランはよだれを垂らしそうになりながら、あっちの店、こっちの露店へと、磁石に引き寄せられるようにして視線を彷徨わせていた。

やがて、両手いっぱいに現地の食べ物を抱えたソランは、それを口いっぱいに頬張りながら、実になんとも楽しそうな様子でリュネルの隣を歩く。

リュネルは現地のスパイスが利いたケバブを、カリナは小ぶりなチキンサンドをそれぞれ口に運びながら、恐ろしい勢いで食料をがっついていくソランに対して、各々の感情を込めた視線を向けていた。

工房区の入り口。広大な流通区の倉庫群。活気ある市場。

そのどこを見渡しても、整っている。

魔導灯が昼の明るさのなかでも白い光を保ち、魔術仕掛けの清掃用の自動人形が路面の塵を一つ残さず吸い込み、レンガの壁の掲示板には“市民向けの有益な案内”が整然と並ぶ。

けれど、その市民向けのありふれた案内の一つの端に、小さく記号が印刷されているのをリュネルは見逃さなかった。

それは、四角いゲートの形に酷く酷似した印だった。

アルデランから手渡された資料のなかで見た紋章によく似ていた。

(……ゲート、か? いや、これはただの工房印か)

現時点で、性急な断定はしない。

かと言って、これが目の前の危機と無関係であると完全に排除するわけでもない。

案内の内容は、労働者を募集する、ごく一般的な工房の求人票だった。

リュネルがその紙面をじっと注視しているのに気が付いたカリナが、彼の横からその内容を流暢に読み上げた。

「『リッダ工房で一緒に働きませんか。女性の労働も大歓迎。託児施設あります。長期休暇中のお子様の職場体験プログラムも実施中』。……リュネルさん、コレのどの辺りがそんなに気になるのですか?」

「いや、内容そのものよりも、この隅にある小さなマークがね」

リュネルは、案内に印刷された、あの角ばった印を指先で静かに指さした。

「あぁ、それでしたら……ヴラタ技研連盟から認証を受けている、安全な企業や工房であることを公的に証明するための組合マークだそうです」

カリナはコートの内ポケットから、丁寧に折り畳まれた一枚の薄い紙を取り出すと、リュネルの目の前へと提示した。

リュネルがその内容に素早く目を通すと、確かにカリナの指摘する通り、アウレクシアの商条令に関する公的な解説が記されていた。

「なるほど、その通りね。…ところでカリナさん、この資料は一体どこから? 少なくとも、僕が事前に殿下から預かった情報資料のなかには、こんな組合印に関する記述は無かったのですが」

カリナは、普段の鉄の仮面のような表情を一瞬だけ緩め、小さく、だが明確な得意気さを多分に含ませた、悪戯っぽい笑顔で言った。

「……今朝、合流地点であの情報部の一際人相の悪かった、ニコラという男から盗──いえ、一時的に借りました」

「……あはは、なるほどね」

リュネルは、彼女の予想外の大胆な行動に対して、何も見なかったことにしようと心に決めたと同時に、彼女への評価も変化があった。

こうして街を小一時間ほど歩き回った頃、お腹がいっぱいになったソランは、その単純な性質ゆえに少しずつ退屈の兆候を見せ始めていた。

彼は退屈の限界を迎えると、いつも突発的に余計な行動を起こす。

アルカナ堂の日常においては微笑ましいが、この異国の地においては、極めて危険な兆候だった。

「ソラン、あそこの店で何か甘いものでも買って行こうか?」

リュネルがその機嫌を宥めるように言うと、ソランの瞳が待ってましたと言わんばかりに輝いた。

「おっ、買う! 先生、オレ、あのルカルマティってやつが食いたい!」

露店で買い求めた出来立ての焼き菓子は、外側の生地がカリッとして香ばしく、中は驚くほどふんわりと柔らかい。

中心部からはジワリと甘い蜂蜜のシロップが濃厚に染み出してくる。

ソランはその大きな口で一口に半分を消し去り、実になんとも幸せそうに目を細めた。

カリナがその様子を見て、ほんの僅かに優しく口元を緩める。

──その、全員の意識が一瞬だけ弛緩した、まさにその刹那だった。

前方から歩いてきた、小柄な平民の男の肩が、リュネルの右腕に軽く当たった。

大勢の人間が行き交う繁華街の混雑のなかにおいて、このような些細な接触など決して珍しいことではない。

だが、リュネルには違和感があった。

それは、偶然ぶつかったというよりも、通り過ぎる一瞬の間に、“指先でこちらの腰回りを触って確かめた”かのような接触だった。

リュネルは反射的に、自身の外套の下にある腰のベルトを確認する。

魔道具。指輪。緊急用の薬品小瓶。

(……ある。僕の気のせい、だろうか……)

そう思考した、まさに次の瞬間、今度は真逆の左側から、全く別の不自然な人影が滑るようにしてリュネルの視界を横切った。

カリナが咄嗟にすっとリュネルの半歩前へと身体を滑り込ませ、その人影との進路を体で遮断した。

「今の動き……」

カリナが鋭い声音で言いかけたが、リュネルは外套の袖を引いて静かに首を振った。

「カリナさん、追わなくて大丈夫です」

ソランが、口の周りにシロップを頬張りながら、不思議そうに首を傾げる。

「え、何? 先生なんかあったのか?」

「いや、なんでもないよ。美味しいお菓子が見つかってよかったね」

リュネルはいつも通りの柔らかい笑みで答え、ソランの頬に付着していた甘いシロップを、指先で優しく拭いてあげた。

その笑みはどこまでも柔らかだったが、瞳の奥は先ほどよりも確実に鋭さが増していた。

一見すれば、誰もが幸福そうに暮らす理想的な街だったが、恩恵を受けていない者たちがいるのか、それ以外なのか。

それだけの事実を掴めただけでも、今日のこの退屈な街歩きは、決して無駄ではなかった。


夕方。

指定された宿は、諸国から訪れる商談客や技術者を対象とした、そこそこ上等で防音の行き届いた場所だった。

リュネルたちがサイラスに指定された最上階の部屋を訪ねると、ニコラが音もなく扉を開けて彼らを出迎えた。

室内ではサイラスが、手慣れた動作でお茶のための湯を静かに沸かしているところだった。

三人の帰還に気が付いたサイラスの顔には、やはり昼間と全く同じ、笑顔の仮面がそのまま貼り付けてあった。

一際デカいエルヴィンは、壁際に微動だにせず立ち、遮光カーテンの隙間から窓の外の様子を確認している。

「お帰りなさい、皆さん。初めてのアウレクシアの街はいかがでした?」

サイラスが、軽く両手を広げて彼らを席へと促す。

ソランが、真っ先に椅子の座面に腰を下ろしながら言った。

「めちゃくちゃ普通だった! メシも美味かったし、怪しいところなんて何一つねぇよ!」

あまりにも率直すぎる即答に、壁際のエルヴィンの太い眉が、わずかに不快そうに動いた。

リュネルが、彼の言葉を補足するように静かに言葉を添える。

「表向きは、至って平和で機能的な普通の街でしたね。まぁ、僕個人の視点から言えば、いくつか気になる点もありましたけれどね」

サイラスの貼り付けられた笑顔の密度が、一段だけ薄くなり、瞳の奥の光が鋭さを増した。

「気になる、とは? 具体的に伺いましょう」

「スリ、に遭いかけました。幸い何一つ盗られはしませんでしたけれどね」

カリナが隣で重々しく頷き、簡潔な言葉で短くその詳細を付け加えた。

「2人の連携で接近してきました。片方の平民がぶつかることで相手の意識を逸らしつつ所持品の形状を触知し、その直後、真逆から通り過ぎるもう一人が本命の獲物を抜き取るという、極めて手慣れたやり方でしょうね」

サイラスはその報告を聞くと、心底楽しそうに肺からクスクスと息を吐き出した。

「……素晴らしい。ええ、実に素晴らしい。あなた方は本当に、期待以上の良い働きをしてくれますね」

サイラスは、パチパチと音を立てずに手を叩きながら立ち上がると、窓際に立つ二人の部下の元へとゆっくり歩み寄った。

「……なんだか、彼の放つ言葉の響きには、とても……」

カリナは、席を同じくするリュネルの耳元に向けて、言葉を慎重に選ぶようにして小声で囁いた。その声には、情報部に対する本能的な拒絶が混じっている。

リュネルは、窓際で声を潜めて何事かを話し込み始めた情報部の三人の背中を静かに見つめた。

「カリナさん、アナタの言いたいことはよく分かりますよ。彼らは確かに僕たちと協力関係ですが、味方ではない……決して背中を無防備に晒してはいけない種類の人間です。彼らの動向には十分気を付けたほうが良いですね」

サイラスはリュネルの視線に気が付いたのか、一瞬だけその目を細め、すぐにいつもの笑顔に戻ってテーブルへと歩み寄ってきた。

「では、次に我々の得た情報の共有に移りましょう。ニコラ」

ニコラが、抑揚のない淡々とした口調で報告の言葉を挟む。

「セントラルの記録によると、特に工房地区の外縁部に位置する特定区画において、近年“立入整理”の執行件数が増加していた。名目上は、都市衛生の維持。だが、その実態は……特定の居住区を強制的に排除しするための隔離だ」

「整理、ですか。体裁の良い言葉を使いますね」

リュネルが茶の湯気の向こうで小さく呟く。

続いて、大柄なエルヴィンが低い声で言葉を重ねた。

「さらに、『ゲート』の紋章が刻印された巨大な隠し倉庫が、流通区の最も端の死角に、複数確認された。登記上の所有権は巧妙に分散されているが、資金の出所を辿れば、大元は同じひとつの場所に収束する」

サイラスが、その結論を歓迎するように怪しく笑った。

「つまり、その大元こそが……アレクシアの頭脳である『ヴラタ技研連盟』に他ならない、という明確な事実です」

カリナがその名を聞いて目を細める。

「ヴラタ技研連盟……。国家の繁栄の象徴が、裏社会の『ゲート』と手を組んでいるというのですか」

サイラスは、再び自らの椅子に深く腰掛け、指先を複雑に組んだ。

「現段階で、すべての結論を急ぐ必要はありませんよ。我々の本当の本命の作戦は、明日からですからね」

サイラスの笑顔の輪郭に冷酷な影が差す。

「もちろん、我々とて“不用意に”その牙城へと突入するような愚策は演じません。明日は、ルキフェリア外務棟の協力を得て、正式なルートを使って連盟へと向かいます」

ソランが、不満そうに太い腕を組み、フンと鼻を鳴らした。

「そんな大層なことをしてさ、逆にオレたちが何か裏の情報を探ってるって、あいつらに一発でバレちまうんじゃねーの?」

「探されているというその事実すら、相手に決して悟られないように完璧に立ち回るのが、我々情報部の仕事だ。余計な心配は必要ない」

ニコラが、一切の感情を挟まずに即答した。

サイラスが、一触即発になりそうなその二人の空気を宥めるように、柔らかく手を振る。

「まぁまぁ、どうぞご安心を。今回は正式な国家の外交手続きを踏んでいますから、向こうの受付も、まさか我が国の技術顧問が裏の倉庫を漁りに来たとは、夢にも思わないでしょう」

リュネルは、立ち上る湯気の向こう側で、そっと自身の腰にある指輪を撫ぜた。

(……面白くなっておもしろくなってきた、なんて言いたくはないな)

スリル満天の冒険譚などというものは、本の中のだけで十分だ。

現実は、できることなら退屈で、平和で、何事もなく終わるものが一番いい。

サイラスが、その笑顔のまま最後の指示を告げる。

「連盟への公式訪問を終えた後は、明日も二手に分かれて行動します。

あなた方は、今日街で見かけた気になる違和感をさらに深く掘り下げていただきたい。

我々は、その隙に例の『ゲートの倉庫』の内部へと隠密に探りを入れてみます。夕方には、再びこの部屋へと合流を。もしも現地で不測の事態が発生した場合、緊急の合図はこれを使ってください」

そういうとサイラスが小さな符を置いた。

それは、二対の符を持っている者同士が、いかなる距離にあろうとも、魔力を通すことで緊急時に知らせることができる、簡易的な魔術具であった。

情報共有も終わり、リュネルたちは割り当てられた自室へ戻った。

部屋の構造は、中央に全員が使える共有スペースがあり、そこを囲むように個室が四部屋並ぶ造りになっていた。

カリナがどこか安心したような表情を一瞬だけ見せたのを、リュネルは気づかないフリをした。

そんな事はつゆ知らず、ソランは、「なぁ先生、明日こそは派手に動いてもいいのか?」と、声を潜めて嬉しそうに聞いてきた。

リュネルは、そんな相棒の頭を軽く小突くと、「明日もしばらくは『火気厳禁』の静かな調査が続くと思うよ」と、同じように小声で優しく返した。

夜も更け、リュネルは一人、静まり返った個室の窓から、眼下に広がるアウレクシアの夜景を見下ろしていた。

魔導灯の白い光に照らされたその街並みは、未だ、何事もないかのような顔をして静かに息づいている。

この不自然な調和のなかで、一体誰が安全に通り、誰が社会の底へと弾かれ、そして誰が跡形もなく消え去っているのか。

やはり、このような国家の面倒な仕事は二度と御免だと心の中で深く毒づきつつも、目の前にある世界の歪みをどうしても見過ごすことができない、自らの厄介な性分にリュネルは夜の静寂のなかで、小さくしかし苦笑を漏らした。

錬材師として、そしてリュネルとしての性分がどうしてもこの暗雲の渦中へと駆り立ててしまうのだ。

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