表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アルカナ堂は今日もゆく〜素材屋リュネルの秘録〜  作者: 磨羯瑞花


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
38/43

第38話 閾下の思い

その日は、いつになく店内が広々として感じられた。

いや、正確に言うならば、いつもそこにいるはずの賑やかな気配がごっそりと抜け落ちていた。

「──というわけでして、ベルギスさんは今朝から近郊の契約農家さんへ新種の薬草の根をまとめて引き取りに行ってらっしゃいます。ソランさんは、昨夜から『どうしても食べたい珍味があるから、日の出までに隣町の市場へ行って帰ってくる!』と大張り切りで飛び出していったきりですね……」

帳場に据えられた大きなマホガニーの机の上で、厚みのある帳簿を丁寧にめくりながら、店員のリラが困ったような、しかしどこか諦めたような笑みを浮かべていた。

彼女はいつも通り、しっかり手入されたエプロンドレスを身に纏い、髪をきっちりと結わえている。

その指先は相変わらず甲斐甲斐しく、手際よく本日の売上予測の数字を書き込んでいた。

「ネレウスくんも、今日は学校ですからこちらには来られないでしょうし……リュネルさん、今日はお店、少し大変かもしれませんね」

「あはは、見事なまでにみんなの予定が重なってしまったね」

調合室の入り口に佇み、袖口を軽く捲り上げながら苦笑したのはリュネルだ。

ちょっとクセのある柔らかい黒曜色の髪が、朝の清々しい風に遊ばれている。

リュネルは少しだけ手薄になった店内を見渡す。

「ソランの食欲は今に始まったことじゃないけれど、まさか仕入れと重なるとは思わなかったな。あそこのおじいさん、ベルギスをえらく気に入ってるからいつもお願いしちゃうけど、仕方ないなですね。まぁ幸い、今日は大がかりな調合の予約は入っていないし、リラさんと僕の2人いれば、普段通りの接客は何とかなるさ」

「はい。私も精一杯、帳場と並行して品出しを進めますね」

リラは力強く頷き、さっそく店の入り口に掲げる「営業中」の木製プレートを整えに向かった。

そんな2人のやり取りを、店の片隅──普段はフリースペースとしている、日当たりの良い木製ベンチから、じっと静かに見つめている影があった。

暗めの赤髪。

背筋を一切曲げることなく、まるでお手本のような姿勢で腰掛けている女性。

カリナである。

彼女はいつもと変わらず、制服を身に纏っていた。

その瞳は、猛禽類のように店内の隅々にまで配られ、微かな不審な動きをも見逃さないという「監視役」としての職務を忠実に全うしているように見えた。

軍の上層部から命じられたリュネルの動向監視。それが彼女の本来の任務だ。

だが、この1ヶ月というもの、アルカナ堂で繰り広げられるのは、およそ国家を揺るがす陰謀とは無縁の、あまりにも穏やかで、泥臭いほどに地域に根ざした素材屋としての日常ばかりだった。

「……私共の後輩はアレとして。本日、あの騒がしい助手や、ベルギス氏までもが不在とは」

カリナは低く、しかしよく通る凛とした声で呟いた。

その視線が、リュネルへと向けられる。

「リュネルさん。アナタほどの情報整理の能力がありながら、これほど店員の稼働が重なる日を予測できなかったのは、いささか不用意ではないですか? 監視対象としての危機管理能力に、些かの疑問を抱かざるを得ません」

「手厳しいね、カリナさん」

リュネルは肩をすくめ、困ったような微笑みを浮かべた。

「ソランの突発的行動は僕にも予測は厳しいですから。だから、ベルギスに頼ってしまう事が多いとも言えますね。でも、今回の新品種は外せないモノでしたから、仕方ありません。まあ、あと2.・3人人手があっても良いですが、2人いれば問題ありませんよ」

「なら結構です。私は監視の任務でここにいるのです。アナタたちが静かだろうが忙しかろうが、私のやるべきことは変わりません。ただ、アナタたちの行動を正確に記録するだけですから」

カリナはそう言って、膝の上に置いた革のメモ帳へと視線を落とした。

その態度はどこまでも頑なで、市井の空気には一切染まらないという、鉄の意志を感じさせた。

しかし、その「2人いれば問題ない」というリュネルの目論見は、開店の鐘が鳴り響いた瞬間から、あまりにも鮮やかに打ち砕かれることとなる。


午前10時の鐘の音が街に響き渡ると同時に、アルカナ堂の重厚な扉が開け放たれた。

そして、そこから流れ込んできたのは、リュネルの予想を遥かに上回る、圧倒的な数の人々だった。

「すまない、リュネル! 街の南の街道で馬車が横転しちまってな、積み荷の保存用に『氷結の粉末』が急ぎで30袋必要なんだ!」

「リュネルさん、うちの裏庭の畑に妙な青虫が大量発生しちゃって! 害虫除けの『苦ヨモギの蒸留水』、まだ在庫あるかしら!?」

「あ、あの、冒険者ギルドからの急ぎの依頼で、下級の解毒薬を10本、大至急納品してほしいとギルド長が……!」

次から次へと舞い込む、予想だにしない突発的な需要の波。

どうやら近隣の地域でいくつかの小さなアクシデントが重なり、その解決のための素材や薬品を求めて、街の人々が一斉にアルカナ堂へと押し寄せてきたようだった。

その後も一般客や冒険者達が次々と店にやって来る。

「順番に伺います! リラさん、氷結の粉末は地下倉庫の第三棚だ。解毒薬の検品は僕がやるから、帳場をお願いできるかい?」

「はい! ……あっ、申し訳ありません、そちらの害虫除けのボトルは、今ちょうど棚の分が切れてしまっていて……今すぐ在庫分をお持ちしますので!」

リラが帳場の書類を捌きながら、小走りで地下への階段へと向かう。

リュネルもまた、カウンターの奥で発注履歴を元に次々と小瓶を取り出して準備していくが、いかんせん人間の「手」が圧倒的に足りていなかった。

客たちの熱気と焦燥の入り混じった声が、店内の空気を急激に押し上げていく。

リラが息を切らせて地下から戻り、氷結の粉末を大袋に詰めるが、その隣の棚では別の客が「目的の素材がどこにあるか分からない」と困惑した声を上げていた。

普段なら、ソランがその怪力で重い袋を瞬時に運び出し、リラが的確な誘導で客の列を整理し、ベルギスが機転を利かせて棚の補充を行い、その他をリュネルが埋めていた。

リュネルの額に、微かな汗が浮かぶ。

濃い群青の瞳が、一瞬だけ店内の混雑状況を把握するために鋭さを増した、その時だった。

ス、と店内の喧騒を切り裂くように、一つの影がベンチから立ち上がった。

ロングコートの裾を翻し、迷いのない、しかし音もない無駄のない歩調で、その影は混雑する棚の前に移動した。

もちろんカリナだった。

彼女は、客たちが困惑して立ち尽くしていた「乾燥薬草」のコーナーへ歩み寄ると、いつものように威圧的ではない凛とした声で話しかけた。

「そちらの御婦人。お探しなのは『ローリエの乾葉』ですか?」

「え? あ、あぁ、そうなのよ。いつもはこの辺りに並んでいるはずなんだけど、見当たらなくて……」

「それならば、3歩左の、上から2段目の棚です。現在は在庫の補充が追いついておらず、奥の列に隠れてしまっています」

カリナはそう言うと、手袋を嵌めた細長い指先を、一切の迷いなく棚の奥へと滑り込ませた。

そして、奥に眠っていた遮光袋をいくつか手前へと引き出し、ラベルの文字が客の目線に真っ直ぐ向くように、等間隔で綺麗に並べ直し、その1つを手に取った。

その動作の美しさと正確さに、おばあさんは呆気に取られながらも、「あら、ありがとうねぇ」と袋を受け取った。

カリナの動きは、それで終わりではなかった。

彼女は店内の状況を一瞬で俯瞰し、まるで戦場における戦力配置を分析するかのように、己のなすべきタスクを瞬時に細分化した。

「リラさんはお会計待ちのお客様の方を。そちらの『氷結の粉末』の計量と大袋への詰め替えは、私が引き受けます」

「えっ!? カ、カリナさん……?」

「それくらいなら私にもできます。グラム単位の計量など、造作もありません。店長、そちらの解毒薬の箱詰めが終わったら、私の元へ回してください。私が最終確認と封緘を行います」

カリナは言うが早いか、リラの手からスコップを滑らかに引き取り、作業台の前に立った。

その手際は、まさに「完璧」の一言だった。

天秤の針が指定の目盛りを指すのと同時に、一粒の零れもなく粉末を袋へと滑り込ませ、紐できっちりと、解けやすくも頑丈な結び方で縛り上げていく。

さらには、手が空いた一瞬の隙を見て、乱れていた棚の小瓶を、危険度順、そして名称順へと、並べ替え始めた。

その並びはあまりにも美しく、一目で何がどこにあるかが理解できるほどの、圧倒的な視認性を誇っていた。

「そこの方。ギルドへの納品依頼の品は、こちらのカウンター右側にまとめてあります。サインはこちらの書類の右下に。……次の方、害虫除けの蒸留水は、こちらのボトルです。液漏れのないようキャップを増し締めしてあります」

凛とした声が店内に響くたびに、滞っていた人の流れが、まるで詰まりの取れた水路のように滑らかに流れ始めた。

受付での無駄な問答が消え、客たちは彼女の放つ独特の規律ある空気に圧されるように、自然と一列に並び、迅速に会計を済ませていく。

カウンターの奥で、リュネルは作業する手をとめることなく、カリナが店を回す様を横目で見ながら笑みを浮かべていた。

カリナの加勢という、予想外にして最強の援軍のおかげで、あれほどの怒涛の混雑は、わずか1時間ほどの間に、驚くほど綺麗に解消されていくのだった。


正午を告げる鐘の音が響き渡る頃には、店内の混雑は嘘のように引き、元の静寂を取り戻していた。

最後に残った常連のおばあさんが、カウンターで会計を済ませながら、不思議そうにカリナの姿を見つめていた。

カリナは、使い終わった天秤を布で念入りに拭き上げ、元の位置へミリ単位の狂いもなく戻しているところだった。

「いやぁ、助かったわぁ、リュネルさん。それにしても……」

おばあさんは、腰をさすりながら、カリナの凛々しい後ろ姿を指差した。

「あそこにいるお嬢さん、見ない顔だねぇ。リラちゃんやソランくんとは、ずいぶん雰囲気が違うというか……なんだか、ものすごく強そうで、おっかないくらいに背筋がピシッとしてるじゃないの」

その指摘に、リュネルは一瞬だけ瞳を瞬かせた。

まさか「彼女は国から遣わされた僕の監視役の軍人です」と正直に言うわけにはいかない。

街の人々に余計な不安を与えるのは、この店の理念にも反する。

リュネルは即座に、いつもの人当たりの良い穏やかな微笑みを顔に張り付けた。

「ああ、彼女ですか? 実は彼女『錬材師協会』のから遣わされた方なんですよ」

「へぇ? きょうかい?」

「はい。定期的に各錬材師の所に監査に行くようにしたらしいんですよ。それにほら、うちの店は少し変わった素材や、希少な魔獣の部位なんかも多く扱っているでしょう? だから協会としても、品質管理や安全基準がちゃんと守られているか、抜き打ちで監査を行うようにしたみたいでして。彼女は監査官なんです」

「なるほどねぇ! 道理で、お薬の並べ方がお城の棚みたいに綺麗だと思ったわ。やっぱり、お国の方のやることは違うねぇ。リュネルさんも、変なものを売らないように目を光らされて大変だねぇ」

「ははは、本当にその通りです。毎日身の引き締まる思いですよ」

リュネルは愛想のよい相槌を打ちながら、おばあさんを笑顔で見送った。

カラン、コロン、と扉が閉まり、完全に店内に三人だけの静寂が戻った、その瞬間。

「──リュネルさん」

背後から低く、地を這うような、冷やかな声が響いた。

リュネルが振り返ると、そこには天秤を拭く手を止め、茶色みがかった瞳をジロリと据えかねた様子でこちらに向けているカリナの姿があった。

「……その『錬材師協会の監査官』というのは何かしら」

カリナは一歩、また一歩とリュネルとの距離を詰め、彼を睨みつけた。

「嘘をつくにしても、いささか無理があるのではないですか? 私のこの服装のどこをどう見たら、文官の集まりである協会の監査官に見えるというのです。目立つので階級章などは外してますが、軍服の意匠は、知識のある者が見れば一目で分かります」

「いやぁ、でもカリナさん」

リュネルは両手を軽く上げて、弁明するように笑った。

「あの手際と、素材の在庫を完璧に把握する鑑識眼を見せられたら、街の人は誰だって『ただの手伝い』とは思わないですよ。むしろ、国の凄腕の専門家だと言われた方が、みんな納得がいく。現に、あのおばあさんも完全に信じていただろう?」

「それはあの方が善良な市民だからです」

カリナはハァ、と深い、絵に描いたようなため息を吐き出し、コートの襟を正した。

「私はあくまでアナタの監視のためにここに配置されている身。このような市井の詐術に加担するつもりはありません。……ですが、リラさん」

カリナは視線を、帳場の奥で恐る恐るこちらの様子を伺っていたリラへと向けた。

「私の手際、何か不備はありましたか? ある程度の法則を推測して並べましたが、この店の動線と照らし合わせて、不都合があるならば今すぐ元に戻しますが」

「いえ、滅相もありません!」

リラはブンブンと首を横に振った。

「むしろ、驚くほど使いやすくなっています! 素材の危険度と名称が完璧にリンクしていて、これなら私が一人で帳場を見ている時でも、一瞬で在庫の有無が判断できます。カリナさんありがとうございました……!」

リラが心の底から感動したように頭を下げると、カリナはわずかに毒気を抜かれたように、ふい、と視線を逸らした。

その耳の裏が、ほんの少しだけ赤くなっているのを、リュネルは見逃さなかった。

「……業務の効率化は、基本ですから。不備がないのであれば、それで結構です」

ぶっきらぼうに言い放つ彼女の姿に、リュネルは胸の奥で、小さく温かな波紋が広がるのを感じていた。


昼過ぎ、街の喧騒が完全に落ち着き、アルカナ堂の店内には、ただ窓から差し込む斜光と古い柱時計の刻む規則正しい音だけが満ちていた。

リラは午前中の激務で疲れた体を休めるため、リュネルの勧めで奥の控え室で少し長めの休憩を取っている。

店内には、リュネルとカリナの二人だけだった。

カリナは相変わらず、何事もなかったかのように椅子に腰掛け、メモ帳にペンを走らせている。

だが、その指先は午前中の立ち仕事の連続によるものか、心なしかいつもよりわずかに強張っているように見えた。

リュネルはカウンターの整理をしながら、棚の最上段に置かれた、ひときわ異彩を放つ遮光瓶に手を伸ばした。

その瓶の中には、どす黒い紫色をした不気味な植物が納められている。

カリナはその動きを、ペンを止めて静かに見つめていた。

彼女の軍人としての直感が、その素材が持つ「危険性」を敏感に察知したのだろう。

「リュネルさん」

カリナが声をかけた。

「その棚の、一番奥にある紫色の素材……それは『ニガガタ草』の葉ですね?」

「おや、よく知っていますねカリナさん。軍学校でならいましたか?」

「ええ。第Ⅱ種実技演習の教本で、もっとも警戒すべき『一級危険毒草』の1つとして記載されています。その葉に含まれる毒素は、人間の神経を麻痺させ、最悪の場合は呼吸を停止させる。戦場においては、井戸水に混入させるための暗殺用、あるいは矢毒として用いる事もあります。れっきとした危険な素材です」

カリナの言葉は、冷徹で、一点の迷いもなかった。

彼女にとって、その草は「人を害するための道具」それ以外の何物でもなかったのだ。

軍という、敵をいかに効率よく無力化するかを競う世界で生きてきた彼女にとっては、それが唯一の“正解”だった。

リュネルは、その紫色の瓶を大切そうに両手で抱え、カウンターの上にそっと置いた。

リュネルの瞳が、カリナを真っ直ぐに見つめる。

「確かに、カリナさんの言う通りだよ。この葉をそのまま口にすれば、たとえ屈強な軍人であっても簡単に命を落とす。紛れもない猛毒だ」

リュネルは瓶の蓋を静かに開けた。

中からツンとした、鼻を突くような独特の刺激臭が漂う。

「でもね、カリナさん。世界にあるすべての素材には、それ自体に『善』も『悪』もないんだ。あるのは、それをどう扱い、何をするかという、人間の思考だけさ」

リュネルは作業台から、琥珀色の別の小瓶を取り出した。

中には、ドロリとした黄金色の油が入っている。

「これは、ウチでも栽培しているナッツから抽出した、ただの『食用油』だ。何の変哲もない、どこの家庭の台所にもあるものだよ。……でもね、この猛毒のニガガタ草を、極限まですり潰して微細な粉末にし、この油と特定の比率で混ぜ合わせ、魔力で一定の時間、一定の温度を保ちながら融和させると、どうなると思う?」

カリナは眉をひそめ、リュネルの手元を凝視した。

「……想像がつきません。毒が油に溶け出し、より強力な液状の毒になるだけでは?」

「逆さ」

リュネルは優しく微笑んだ。

「ニガガタ草の持つ強い毒素が、この油の持つ成分と結合することで、人間の体内に入ったとき、胃腸の毒素や有害物質を吸着する作用がある。つまり、激しい食中毒や、悪質な流行り病による猛烈な腹痛・下痢を、一瞬で鎮めるための、これ以上ない薬へと姿を変えるのさ」

「薬……」

カリナは絶句した。

彼女の頭の中にある知識が、今、目の前で音を立てて覆されていた。

人を殺すための道具、戦場を汚染するための素材だと思い込んでいた猛毒が、錬材師の思考と技術というフィルターを通すことで、人を苦痛から救い出すための至高の光へと昇華する。

「軍の世界では、敵を倒すための『力』や、蹂躙するための『破壊』が最優先されるかもしれない」

リュネルは瓶の蓋を閉め、元の棚へと優しく戻しながら、静かに言葉を続けた。

「でも、僕たちの生きるこの街の日常はそうじゃない。傷ついたものを癒やし、歪んだものを元の形に戻し、すべての素材が持つ可能性を、誰かの生活を豊かにするための『循環』へと繋げていく。それが、錬材師の義務であり、僕の祖父から受け継いだ理念であり、このアルカナ堂という店の存在意義なんだよ」

破壊ではなく、癒やし。

管理ではなく、循環。

カリナはその言葉を、己の胸の奥深くへとゆっくりと染み込ませていくように何度も咀嚼した。

彼女がこれまで信じて疑わなかった「規律」や「力」のさらに奥にある、世界の広さ。

ネレウスがすべてを捨ててこの人の弟子になりたがった理由、そして、アルデラン殿下がこのしがない素材屋の店主に、全幅の信頼を寄せる理由の片鱗に触れたような気がした。

カリナは、己の手袋をはめた手をじっと見つめた。

これまでは剣を握り、敵を排除するためにしか使ってこなかったこの手が、午前中のほんの少しの間、誰かの生活のための素材を整えるために使われた。

そのときの不思議なほどの胸の温かさが、リュネルの言葉と重なり合っていく。

「……世界の巡り、ですか」

カリナの口から、掠れるような、しかし確かな響きを持つ呟きが漏れた。

その瞳の奥には先ほどまでの硬さはなく、まるで新しい世界を目撃した子供のような、新鮮な感銘の光が静かにしかし深く灯っていた。


午後5時を回る頃、街の西の空は燃えるような茜色に染まり、東の空は深い紫色の夜の帳へと移り変わり始めていた。

リラも休憩から戻り、すっかり元気を取り戻して帳簿の最終チェックを行っている。

店内の片付けもほとんど終わり、あとは閉店の時間を待つばかりという、一日のうちでもっとも穏やかな時間が流れていた。

「カリナさん、少し休もうか」

リュネルが台所からティーポットとカップを2つ、トレイに載せて現れた。

カップからはいつものハーブの香りとは異なる、驚くほど高貴で、どこかフルーティーな甘さを含んだ、気品ある紅茶の香りが立ち上っていた。

リュネルはカリナの座るベンチの前の小さなテーブルに、そっとカップを置いた。

「これは……?」

カリナが不思議そうにカップを見上げる。

「僕特製のブレンドティーです。ベースは東方の高地で採れる紅茶なんだけど、そこにほんの少しだけ、乾燥させた『蜜リンゴの皮』と、心を落ち着かせる効果のある『星見草』のシロップを加えてある。……午前中、あんなに素晴らしい手際で店を助けてくれた、優秀な『監査官殿』への、僕からのささやかな御礼です」

リュネルは隣に腰掛け、己のカップを手に取りながら微笑んだ。

カリナは躊躇うように、しかし立ち上るあまりにも心地よい香りに誘われるように、手袋を外した白い指先でカップを持ち上げた。

丁寧に、壊れ物を扱うような動作で、その琥珀色の液体を口に含む。

「──っ」

口内に広がる、えぐみのない、濃厚でありながらも驚くほど爽やかな甘みと酸味。

そして、喉を通り過ぎた瞬間に体中の緊張がふわりと解けていくような、極上の温かさが全身を巡った。

「美味しい、です……。このような上品な紅茶は、王都の高級サロンか、軍の陰湿な司令官の執務室でしか飲めないものだと思っていました」

「あはは、気に入ってもらえて良かった。実はこれ、アナタの好みに合わせて少しアレンジしてあるんです」

「私の、好みに?」

カリナが驚いてリュネルを見る。

「うん。アナタはいつも、真面目で、一分の隙もないように自分を律しているでしょう? だから、お茶のベースはしっかりとしたコクのあるものを選んだ。でも、内面はとても誠実で、周囲への細やかな気配りができる優しい人だ。だから、その奥にある柔らかさを引き立てるために、蜜リンゴの甘みを少しだけ強めに残してあるんです」

リュネルのその言葉は、何の衒いもなく、ただ目の前の人間の本質を正しく鑑定した結果を告げるかのように、あまりにも自然だった。

カリナは、カップを握る指先に、思わずぎゅっと力がこもるのを感じた。

自分のことを、そこまで深く、正確に見定めてくれている人がいる。

軍という組織の中で、「一個の戦力」としてしか扱われてこなかった自分が、今、このアルカナ堂という場所で、一人の「人間」として、その内面までをも肯定されている。

胸の奥が、熱い。

それは、紅茶の温かさだけではない、何かもっと強烈で、切ないほどの感情の波紋だった。

「……本当に、アナタという人は」

カリナは、カップを見つめたまま、声を微かに震わせた。

「本当に、人を見透かすのがお上手ですね。これでは、どちらが『監視』を行っているのか分かりません」

「おや、嫌でしたか?」

「……いえ。嫌では、ありません」

カリナはそう言うと、今度は大きめの一口を口に含んだ。

その拍子に、暗めの赤髪がサラリと揺れ、彼女の横顔を夕暮れの光が美しく切り取る。

その鉄の仮面は完全に剥がれ落ち、そこにあったのは、ただ一人の、年相応の誠実な女性のとても愛らしい素顔だった。

「たっだいまぁーー!! 先生、見てくれよ! 隣町の市場で、すっごく美味そうな燻製肉を手に入れたんだぜ!」

突然、店の扉が勢いよく開け放たれ、声を弾ませたソランが、文字通り大荷物を抱えて飛び込んできた。

その後ろからは、大きな荷物を背負ったベルギスが、苦笑しながらも確かな足取りで続いてくる。

一瞬にして、アルカナ堂の店内が、いつもの、いや、いつも以上の賑やかで騒がしい、愛おしい日常の熱気で満たされていく。

「あはは、2人ともお帰り。ちょうど今、お茶にしていたところだよ」

リュネルが立ち上がり、帰ってきた家族たちを迎え入れる。

「……え? 先生、そいつと?2人だけで? ……何か薬でも盛るのか?」

ソランが荷物を両手で胸に抱きながら2人の顔を見比べる。

カリナは目を鋭く細め、ソランをにらみつける。

その視線にソランは顔を逸らした。

「アナタ、私を何だと思っているわけ?…大体、今日はアナタのせいで大変だったのだから、明日はいつもの倍働きなさい。……それともリュネルさん、私に薬盛るのかしら?」

カリナは冷やかな笑顔でリュネルの方へ首を向けた。

「そんな事考えてませんよ。もし盛るなら、着任初日に盛りますから」

リュネルはいつも通りの穏やかな表情で言った。

(薬を盛るという発想はあるのか(んですね))

彼らのやり取りを黙って聞いていたベルギスとリラは心の中でリュネルの発言に不思議頷いてしまった。

彼ならそれくらいはやりかねないと思っているのか、それとも、やってしまうのですねという納得なのかは置いておこう。

カリナは、喧騒の中再びいつもの軍人としての凛とした佇まいに戻りながらも、その手元にあるカップの温かさを、名残惜しそうにいつまでも楽しんでいた。

夕暮れの空の下、店内の笑い声はいつまでも温かく響き渡るのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ