第36話 Off the Record(オフ・ザ・レコード)
その夜。
まだ昼間の熱気と夜の賑わいが冷めないままの街を、深いフードのついたローブを目深く着た男が、雑多な人の流れに沿って静かに歩いている。
色とりどりの灯りがまたたく歓楽街となっている賑やかな通りから、一本細い裏道へと入れば、先ほどまでの喧騒は嘘のように少しずつ遠ざかって行き、代わりに夜露にしっとりと濡れたような濃密な静寂が足元からじわりと広がっていく。
整然と、しかしどこか迷路のように複雑に入り組んだ路地には、夜の闇に紛れるようにして、主張しすぎない店々の看板が控えめに並んでいる。
男はまるですべての道を熟知しているかのように、迷わずに確かな足取りで歩みを進めていたが、ひっそりとした広場の片隅にある一体の古びた石像の前でふと足を止めた。
その石像は、暗闇の中で誰かを誘うように、静かに左手を差し出しているポーズをしていた。
男は迷いなく石像の冷たい手に己のそっと手を乗せると、どこからか重い鉄の錠がガチリと外れるような、低く重厚な音が足元から響いた。
男がそのまま滑らかに石像の裏へと回ると、その姿は夜の空気に溶けるようにして、跡形もなく消え去った。
薄暗い石造りの階段を降りるたびに、カツン、カツンと靴の音が心地よく響く。
肌を撫でる少しひんやりとした空気は、ここが深い地下だからなのか、どこか薬草のような少し特徴のある香りと、心を落ち着かせるほのかなアロマの香りが絶妙に混ざり合い、日常から切り離された不思議な空間を作り出している。
長い通路の突き当たり、低い天井の下には年季の入った重厚なオーク材の扉が粛に待ち構えていた。
そのノブに手をかけ、回す瞬間わずかな抵抗が確かな手応えとして手に伝わった。
扉を静かに開いた瞬間、目に飛び込んできたのは、円形の広間に並ぶ均等な4つの扉と、その中央で背筋を伸ばして佇む執事風の身なりをした壮年の男性の姿だった。
「お待ちしておりました。リュネル様、本日は2番の部屋にお願い致します」
男性が恭しく一礼し、男がパチンと指を弾けば、身に纏っていた重いローブは煙のように解けるように消え去った。
男――リュネルは、鈍い金色の“2”の札がか気になっている扉へと歩み寄り、その扉を開けた。
古びた木の優しく軋む音と共に、信じられないほど爽やかで心地よい空気が一気に向こうから入り込み、リュネルの五感を優しく撫ぜた。
地下の扉の向こうにあった、――目の前に鮮やかに広がっていたのは、夜だというのに淡い光に照らされ、様々な季節の花が咲き乱れる美しい幻想的な庭園と、その中央に佇む白亜の東屋だった。
リュネルがその境界を完全に通り抜けると、背後でひとりでに扉は静かに閉まり、まるで最初から存在しなかったかのように景色の中に消えてしまった。
東屋までは、夜露を弾く綺麗な煉瓦で舗装された小道がまっすぐに続いていた。
その東屋にはよく見知った男が、琥珀色の液体が揺れるグラスを片手に静かに待っていた。
「アル」
リュネルは東屋の手前まで来ると、親しみを込めてその男に声をかけた。
「やぁ、リュネル。こんな時間にわざわざ足を運んでもらってありがとう」
声をかけられた男――アルデランは、嬉しそうに目を細めてグラスを掲げた。
「いや、僕たちが会うことを誰にも、それこそ軍の上層部や影の目にも悟られないようにするなら、方法は限られているからね」
リュネルが苦笑しながらアルデランの真向かいの椅子に腰を下ろすと、いつの間にか現れたヒュロスが、全く音も無く滑らかな所作で2人の前に磨き上げられた銀のカトラリーを並べた。
「夕食はもう済んでいるか?」
アルデランが気遣わしげに尋ねる。
「いや、一応店で用意はしてきたのだけれど、色々とバタバタしていて、僕はまだ何も食べてないんだ」
そう言ってリュネルは、空腹のお腹をそっとさする。
「それは良かった。こちらの準備も無駄にならずに済む。じゃあヒュロス、頼む」
アルデランが満足げに頷いて指示を出すと、ヒュロスは2人に向けて深く頭を下げ、東屋の外の闇へと一瞬で消えた。
だが数秒もしないうちに、香ばしい湯気を立てる極上の料理を乗せた銀のワゴンと共に、ヒュロスは何事もなかったかのように戻ってきた。
慣れた手つきで、2人の前に手際よく料理が並べられていく。
「本当なら、前菜から順番に出すべきなんだろうが、」
「僕は別に気にしないけどね。まぁ、コース料理のあの雰囲気も嫌いじゃないけれど、こうして目の前に並んだ色んな料理を少しずつ食べる方が好きだよ。行儀はあまりよくないかもしれないけれどね」
リュネルは子供のようにイタズラっぽい笑みを浮かべる。
「ハハッ、ここにはうるさい説教をする執事もチューターも乳母もいないからな。マナーを気にする必要はどこにもないな!」
アルデランもまた、立場を忘れて少年の頃に戻ったみたいな、心から楽しそうな顔で大らかに笑った。
2人は目の前の料理に次々と舌鼓をうつ。
大皿から取り分ける時にお互いに一番美味しい良い部位を譲り合ったり、逆に自分の大好物に関しては子供っぽく互いに譲らなかったりと、張り詰めた日常を忘れさせるなんとも楽しそうな、穏やかな時間が流れていた。
「――さて、食べながらで構わない、聞いて欲しいことがある」
ひとしきり食事が落ち着いた頃、アルデランはそっとフォークを置き、真剣な眼差しでリュネルに向き直った。
「さすがに一国の王子相手にそれができるほど、僕は図太くないよ」
リュネルは困ったように苦笑して肩をすくめると、同じようにフォークを置いた。
アルデランはその様子に一度優しく目を細めて笑ったが、すぐにその表情を厳格なものへと引き締めた。
「単刀直入に聞く。君があの演習場から持ち帰った、例の蛇の死骸から一体何が見つかった?」
リュネルは手元のナプキンで丁寧に口を拭うと、少し視線を落とした。
「……魔術の痕跡は確かにあったけれど、それ以外は特に決定的な証拠は見つからなかった。組み込まれた術式そのものが最初から不完全だったのか、あるいは目的を果たした後に自動で消える仕組みだったのか。…それとも、もっと別の秘密があるのか」
アルデランは逃がさないようにリュネルの顔をじっと深く見つめた。
「本当は、どうなんだ?」
リュネルはそのすべてを見透かしたような言葉に一瞬驚き、そして完全に観念したように、肩の力を抜いて大きなため息をついた。
「……自律崩壊の術が施されていたんだ」
アルデランの表情が一気に険しくなった。
「完全な崩壊はなんとかギリギリで抑え込んでいるけれど、あの状態からこれ以上何か新しい情報を探るのは、正直に言ってかなり厳しいと思う」
リュネルは新しく淹れられた温かいカップを手に取り、その深い色を見つめながら、数日前に自ら回収したあの不気味な『霞毒蛇』の姿を頭の裏で思い浮かべた。
あの軍学校での演習から帰った翌日、リュネルはアルカナ堂の奥にある自身の作業部屋に籠り霞毒蛇の本格的な調査を行ったのだ。
流石に大蛇の身体は通常の作業台では大きすぎたため、リュネルは室内を傷つけないよう、拡張魔法と空間魔法の応用で創り上げた、作業用の結界内で蛇の本格的な解体を行おうとした。
そこでリュネルが最も気になった箇所――それは、蛇の首元に刻まれた、ごく小さな、しかし奇妙に歪んだ魔術痕だった。
通常の解析魔法を試みても「詳細には情報不足」との曖昧な結果になってしまったため、彼は仕方なく、原因を物理的に突き止めるべく蛇の冷たい身体に鋭いメスをすべらせた。
だが、メスの鋭利な刃がその硬い鱗をほんの浅く切りつけたその瞬間、霞毒蛇の巨体はまさにその魔術痕の箇所を中心にして、内側からボロボロと崩れていったのだ。
まるで長年放置された灰の塊が一気に崩れ去るかのように、あまりにも脆く、解けるように簡単に形を失い、崩れていったのだった。
「ここのところ、ギルド経由で僕が受けた依頼でも、妙に変異した魔獣を見かけたけれど……その前の事例のやつと、今回の演習場のやつは、多分違う、と僕は思うね」
「そうか、……厄介な事になりそうだな」
アルデランは痛むように額に手を当てて重いため息を吐くと、首元のタイを緩め椅子の背もたれに深く寄りかかった。
整えられた金糸のような髪を、見栄えを気にすることなく乱暴にかきあげたアルデランは、伏し目がちにリュネルを静かに見やる。
「リュネル、君にどうしても謝らなくてはならない事がある」
「“監視”の件なら、別に構わないけれど。……思っていた以上に面倒な事になってるみたいだね」
リュネルは中身を半分残したまま、そっと手元のカップをテーブルに置いた。
「逆に君が僕のために、できる限りの手を使ってくれたみたいじゃないか、アルクを寄越すなんてね」
リュネルは面白そうに右目を細め、唇の右側も悪戯っぽく吊り上げた。
アルデランもまた、したり顔をしている。
「まぁね、アイツは俺の腹心の中でも特に信用している男だし、カリナに関しても安心できるだろう。第三機関の司令には“良いやつ”を見繕ってもらったからな」
リュネルはテーブルのカップを再び愛おしげに手に取ると、残っていたお茶を全て静かに飲み干した。
「……確かに、君の言う通りカリナも“アルク”も、信頼できる人間だ。――ただ、彼の部下たちはどうだい?」
「――おい、まさか」
アルデランは一気に緊張感を漂わせ、テーブルに身を乗り出してリュネルの顔を見る。
「可能性の話だよ。あくまで、可能性の。でもね、誰がどこで繋がっているか、それを知るのは案外難しいものさ。現に、街のしがない錬材師である僕と、この国の王太子である君がこうして裏で繋がっているように、意外な人が、僕たちの思いもよらない意外なところと繋がっているもんなのさ」
「俺達はまた話が違うと………まぁ、そうだな、分かった。そちらの可能性も含めて厳重に注意しておく」
深く大きいため息を吐いたアルデランの顔には、隠しきれない苦労の色が濃く滲み出ていた。
「……アル、今の派閥で厄介な連中はいるかい?」
リュネルは顔色を伺うように、静かな声音で尋ねた。
額にあてた手の陰から、アルデランの瞳が光る。
「……そうだな、今は2つ……いや3つだな。その内の2つに関しては、オレでと押さえつけるのはかなり難しいな」
「なるほどね、その内の1つは教会側かな?」
「その通りだ。で、もう一つは軍閥だ」
リュネルは手元のナプキンを指先でひらひらと弄びながら振った。
「おいおい、この国の軍というのは、王室の絶対的な指揮下にあるんじゃないのかい?」
アルデランはどっと押し寄せた疲労を隠さない顔で、自嘲気味に答えた。
「先の王、つまり俺たちのお祖父様さ。あの人は血の気が多い武闘派の王だったから、徹底した平和主義を貫く父上とは、思想の面で若干な……」
「武王と賢王とはよく言ったものだね。つまり、先帝派がまだ幅を利かせている訳だ」
リュネルは皿の端に残っていた真っ赤なベリーをヒョイと口に放り込み、甘酸っぱい果汁を味わった後、もう一度ナプキンできれいに口を拭うと、それを軽く丸めてテーブルの上に静かに置いた。
「今日はお開きにしようか。夜も更けてきたし、そろそろ君も自室に戻らないと怪しまれるだろう?」
リュネルがそう言って椅子から立ち上がると、アルデランはグラスに残っていた酒を飲み干して、勢いよく立ち上がった。
「そうだな。もう時間も遅いから送るぞ」
「では、お言葉に甘えて」
リュネルは胸元にそっと手を当て、優雅に軽く頭を下げた。
アルデランが軽やかに指を弾くと、彼の背後の空間が歪み、美しい装飾が施された光のアーチが現れた。
そのアーチの中央には、周囲の光が吸い込まれるように複雑に渦巻く、魔力の渦がゆらゆらとおこっていた。
アルデランはアーチの前でくるりとリュネルに向き直り、流れる優雅な振る舞いでエスコートするように左手を差し出した。
その周囲に光を瞬かせるようなキラキラとした雰囲気に、“まさにお伽話に出てくる王子様のようだ”と、リュネルは思った。
(……まぁ、お伽話どころか本物の王子様だからね)
「……おい、今なんか俺に対して微妙に失礼な事を考えてるだろ?」
完璧だったその極上のロイヤルスマイルは、一瞬でジト目へと変わった。
「滅相もございません。その様なことは決してございませんよ、殿下」
リュネルは貼り付けたような、わざとらしい恭しさの笑みを浮かべ、アルデランの差し出された左手に自身の右手を重ねた。
しかしその瞬間、アルデランによって思い切りぐいっと手を引っ張られ、不意を突かれたリュネルは完全にバランスを崩し、光のアーチの中へとなだれ込むようにして勢いよく吸い込まれてしまった。
アーチの先には上も下も、天地の判別すら一切つかない、混沌とした高次元の魔法空間が広がっていた。
周囲の景色は歪んだ極彩色の光の波が高速で後ろへと流れており、最初の引っ張りでバランスを崩したままのリュネルは、空中ですっかり天地返しをされたような、おかしな状態になってしまっている。
圧力で耳が圧迫されるような不快な感覚に加え、はるか遠くで響く鐘の音が、なぜかすぐ耳もとで直接鳴り響くという、何とも言えない奇妙な感覚が襲う。
ぐるぐると縦回転を繰り返し、地面がないため足も着けず、不思議な無重力空間の真ん中で不格好にもがくリュネルの姿を、アルデランは空間を自由に歩きながら、大笑いして見ていた。
〈おい、大丈夫か?リュネル〉
念話によるアルデランの楽しげな声が響く。
〈アル、……っ、おい、お前……!覚えてろよ……!〉
〈ハハッ、これでおあいこだな〉
そう言ったアルデランは、悪戯が成功した子供のように実に満足気な表情を浮かべると、パチンと指を弾いた。
次の瞬間、リュネルの視界は真っ白な激しい閃光に襲われたので、彼は反射的に強く瞼を閉じた。
それから暫くすると、手のひらにざらりとした冷たく硬い感触を感じ始め、自分の身体がしっかりと本物の地面の上に座り込んでいるという事実が徐々に分かり始めた。
目への強烈な刺激が弱まったため、リュネルがゆっくりと目を開けると、夜闇に包まれた見慣れたいつもの景色が、ぼんやりと視界に飛び込んできた。
まばたきを繰り返し、何とか目の焦点を合わせると、そこはやはりアルカナ堂の静かな裏庭だった。
リュネルは今、裏口の前で尻もちをついている情けない状態だ。
「やれやれ、本当にお転婆な王子様だよ……」
衣服についた土を払いながら、そんなやれやれという呆れた感情と同時に、日頃から宮廷の全方位からの凄まじい圧と戦い続けている、誰かさんのほんの一時の良い息抜きになれたのなら、まぁこれくらいは安いものか……という思いを胸の奥に抱きながら、リュネルは頭上に広がる、どこまでも静謐な星空を静かに見上げた。




