第35話 綴れぬ思い
翌朝の空は、どこまでも滑らかな青空で、薄い雲が一枚だけ、誰かの手で引き伸ばされたように白く流れていた。
週末の街は普段の喧騒が嘘のように、その営みを穏やかに保っている。
石畳を叩く荷馬車の車輪も、店先の活気ある呼び声も、今日は少しだけ遅い始まりを告げている。
けれど、騒音が少ないぶん、この街の持つ「素肌」の匂いと気配が、より鮮明に立ち上がってくる。
焼き立てのパンが放つ芳醇な甘さ、朝露に濡れた石畳が放つ冷気、そして遠くの尖塔から響く、礼拝の鐘のゆったりとした余韻。
そして、アルカナ堂の扉。
そこに掛けられた木札が、今日は裏返しになっていた。
《定休日》
それぞれの店が動きを止めるだけで、街を流れる空気の質が、ほんの僅かだけ変化する。
その不可思議な相関関係を、ここ数日の張り詰めた観察の中で、私はようやく理解し始めていた。
私はその札を見つめたまま、冷たい朝の空気を肺に溜め、呼吸を整える。
今日の任務は「監視」ではない。
こちらが軍人としての名札を明確に示し、相手の領域へと踏み込まねばならない。
背後から、聞き慣れた足音が近づいてくる。
昨日と全く同じ、弛緩と緊張が絶妙に同居した歩調。
規則正しいリズムの中に、隠しようのない堂々とした風格が滲んでいる。
振り返るまでもなく、その人物の表情が脳裏に浮かんだ。
「よ、カリナ。早いな」
アルクが、ひらひらと片手を挙げて近づいてきた。
今日も彼は軍服を纏っていない。
だが、その背中には、数多の修羅場を潜り抜けてきた「部隊長」としてのオーラを、隠そうともせず背負っている。
彼の後ろには、二人の屈強な部下が控えていた。
昨日、客を装って店内に潜入していた2人だ。
彼らは私の視線に気づくと、決まりが悪そうに、あるいは申し訳なさそうに視線を彷徨わせた。
(……やはり、あの後で隊長に振り回されたか、という顔をしているわ)
彼らの内面の葛藤が、隠しきれずに表情の端々から漏れ出している。
私は小さく咳払いを一つ落とし、姿勢を正して彼を迎え撃った。
「時間です。アルク隊長」
「固い、固いぞカリナ。今日は挨拶だろ? もう少し肩の力を抜いて、ゆるくいこうぜ」
「ゆるく、と言われましても。私にそこまでの柔軟性は備わっておりません」
昨日の彼の、あの驚異的な人心掌握術は確かに一つの正解なのだろう。
だが、それを即座に模倣できるほど、私の魂は器用には造られていないのだ。
アルクは扉の札を、指先で軽やかに弾いた。
「定休日、か。……いいよなぁ、これ。うちにも導入してほしいもんだ」
「導入したところで、私達に真の安息など訪れないことは、貴方が一番よくご存知のはずでしょう」
「それもそうか。じゃ、行くぞ」
どこまでも軽い声音でそう告げると、彼は躊躇なく扉へと手をかけた。
鍵は――掛かっていない。
からん、と。
澄んだ鈴の音が、静謐な朝の空気に昨日よりも深く、長く、その余韻を刻み込んだ。
店内の光景は、昨日の賑わいが幻影であったかのように静まり返っていた。
整然と並ぶ棚の薬瓶は、差し込む朝日を浴びて艶やかな光沢を保ち、床に落ちる光の帯は、塵一つない空間をまっすぐに横切っている。
乾燥した香草の薫りと、年月を経た木材の匂いが、呼吸を介して私の内側へと、すっと淀みなく浸透してくる。
そして――。
そこには、「運悪く」という言葉がこれ以上なく似合う人物が、作業台の前で商品の整理に追われていた。
燃えるような栗色の髪、そして、深い森の奥底を思わせる濃緑の双眸。
ネレウス・ヴェルディア。
彼は手にした木箱を持ち上げた瞬間、鈴の音に反応した。
ゆっくりとこちらを振り返った彼の瞳には、露骨な「しまった、最悪だ」という文字が、ありありと浮き彫りになっていた。
(……本当に、同情したくなるほど運が悪いわね、貴方は)
彼自身の内心が、そのまま顔の造形に反映されている。
しかも現在の彼は、軍学校の制服姿ではない。
動きやすそうな私服を纏い、おまけに使い込まれたエプロンまで身に付けている。
それは、どこからどう見ても、店での「修行中」そのものの姿だった。
「……師匠、お客様がお目見えです」
彼は一瞬のフリーズから、驚異的な速度で精神を立て直し、深々と一礼を捧げた。
この、絶望的な状況下での切り替えの早さ。
それこそが彼を「主席」たらしめている所以なのだろう。
その声に応えるように、奥の部屋から穏やかだが確かな重みを持った足音が近づいてくる。
「おはようございます。朝早くから賑やかですね――」
今日は店を休んでいるためか、彼の装いも少しラフで、シャツの袖は無造作に捲り上げられている。
だが、その双眸は普段と変わらない。
眠たげなヴェールを被りながら、その実、空間に存在するすべての異変を余すことなく拾っている眼。
「……おや。今日はみなさんお揃いで」
その言い方はどこまでも柔らかいが、状況を完全に支配下に置いた者の余裕が滲んでいる。
奥の調理場からは、紅髪の青年がまだ寝癖の残る頭を掻きながら顔を出し、裏口の方からは、巨大な木箱を軽々と抱えた屈強な男が、岩山のような威圧感を伴って姿を見せた。
リュネルは一瞬、鋭い視線を走らせた。
一瞬だ。
だが、その刹那に皮膚を刺すような緊張が空間に満ちるのを、私は敏感に察知した。
「……あー、なんだ」
アルクが後頭部を乱暴に掻き回し、場の空気を強引に弛緩させるような、意図的に明るい声を張り上げた。
「まず最初に断っておく。今日は買い物に来たわけじゃない。……れっきとした、仕事だ」
そう言い捨てると、彼はリュネルの真正面で足を止めた。
そして、旧知の友に負い目を感じているような、独特の苦笑いを浮かべて軽く頭を下げた。
「リュネル。単刀直入に、包み隠さず言うわ。俺たち、正式な“監視任務”としてここに来た」
馬鹿正直。
剥き出しの本題を無造作に投げ出したのだ。
空間が、凍りついたように静止した。
ネレウスは口を半開きにしたまま目を白黒させ、ベルギスの眉間には、深い、あまりに深い断絶の溝が刻まれる。
ソランは一瞬、「何を言っているんだ?」と呆気に取られた表情を見せたが、次の瞬間、その口端が、獲物を狙う猛獣の如き獰猛な角度へと引きつった。
しかし、肝心のリュネルだけは――
「あぁ、やっぱり」
と、何事もなかったかのように平然と頷いたのだ。
「昨日から、明らかにお客じゃない人が3人、……外には1人、ずっと張り付いていたもんね」
それは相手を責めるでもなく、自らの観察眼を誇示するでもない。
ただ昨日の出来事から判断した感想を述べただけだ。
アルクは自嘲気味に、重い溜息と共に肩を落として笑った。
「だよな。……バレてるよな。これでも部下たちには、超のつく隠密を命じてたんだがな」
「もう少し潜入の訓練したら?」
あまりにも淡々とした、その不気味なほどの落ち着きが、逆に周囲の若者たちの感情の導火線に、容赦なく火を点けた。
「師匠、それ……普通に受け入れて良い話なんですか? 権力による不当な干渉ですよ」
ネレウスの声が、震えるような小声となって漏れ出した。
到底、理性的には許容できる話ではないはずだ。
けれど、目の前に立つ自らの師が、あまりに凪いだ海のように静かだから、そのギャップに感覚が麻痺しそうになっているのだ。
そこにソランの怒声が空気を裂いた。
「――おい。何が『バレてるよな』だ。ふざけんじゃねぇぞ!」
ソランが爆風の如く距離を詰めた。
床板を蹴る鋭い音と共に、アルクの至近距離まで顔を突き出す。
あまりの素速さに、アルクの両脇に控えていた部下たちすら反応が遅れたほどだ。
剥き出しの殺気にも似た敵意が、熱波のようにアルクの肌を炙り立てる。
「監視? 覗き見? 先生がこの街で一体何の法を犯したってんだ! お前ら軍の連中が土足で踏み込んで良い道理なんてこの世界のどこにも転がってねぇぞ!!」
今にも襟首を掴み上げんばかりの勢いに、アルクの眉が、わずかに、しかし鋭く跳ねた。
ソランの瞳の中には、制御不能な怒りの劫火が爛々と燃え盛っていた。
「ソラン」
リュネルが低く、しかして威圧感無くその名を呼んだ。
そのたった一言だけで、ソランは帳場まで引いた。
けれど、その瞳に宿る火までは消えてはいない。
ベルギスもまた、同じだった。
彼は言葉を重ねることをしない。
ただ、その眼差しは完全に敵を殲滅する者のそれであり、全身から放たれる闘気は、一触即発の臨戦態勢を雄弁に物語っていた。
「……説明しろ」
地の底から響くような、ベルギスの低い声。
アルクは彼を一瞥し、今日初めて、道化の仮面を脱いだ真剣な貌になった。
「……する。そのために、わざわざ休日を選んで足を運んだんだ」
アルクは一度、深く肺を空っぽにし、リュネルへと視線を戻した。
「まず、言葉通りの監視ではあるが……別に俺たちは、ここを“潰す”ために来たわけじゃない」
「だろうね」
リュネルは即答した。
「本気でここを潰すつもりなら、こんな回りくどいやり方は選ばない。あれこれと根も葉もない言いがかりつけて、令状を引っ提げて僕を連行すれば良いだけだもんね。もしくは、……暗殺とか?」
軍、あるいは国家という権力が、いかにして目障りな個を排除するか、よく知っているかの口ぶりだった。
ソランが小さく、忌々しげに舌打ちしようとしたが飲み込んだ。
アルクは、降参したと言わんばかりに苦笑を浮かべる。
「……まぁ、そんな真似できるとは思えないけど」
「ほんと、嫌になるくらい分かってるよな」
「君だってよく知っているだろう? 何がしたいのかちょっと戸惑ったよ」
そこへアルクは言葉を続けた。
「……アルデラン殿下は、この監視任務の決定に際し、否定の意を示された」
その名が口にされた瞬間、場の温度が変わった。
ソランの激昂が僅かに鎮まり、ベルギスの眉間の険しさが変質する。
ネレウスは、顔色が青くなった。
「否定的?」
リュネルが首を傾げた。
「殿下は仰せられた。『彼には監視の必要などない』と。だが、軍の上層部や議会の連中は“形”を執拗に求めた」
アルクはそこで一度、言葉を溜めた。
普段、軽妙な口調で世間を渡り歩く男が、決して軽くは語れない、重い事実を慎重に紡いでいる。
「だから、殿下は俺を寄越したんだろ。……得体の知れない“牙”を向けさせるくらいなら、気心の知れた俺たちがここに立つ。それが、今できる最善だった」
そう言って、アルクは私の存在を指先で示した。
「で、このカリナは、病的なまでに真面目な軍人だ。彼女なら、権力の思惑に忖度して余計な脚色を加えるような真似はしない。彼女が綴る記録は正確だ。……そうだろう?」
私は思わず、反射的に背筋を伸ばし、鋼のような直立不動の姿勢をとった。
勝手に他者から評価のラベルを貼られるのは不快だが、否定できない自負がある自分に、さらなる不快感を覚える。
ソランが鼻で笑った。
「真面目で堅実。融通の利かない、融通を利かせるという言葉を知らない女。……あぁ、昨日のあの不自然な立ち姿、まさしくって感じだよな」
「ソラン」
リュネルが再び、制止の声をかける。
だが、今回のその声音には、隠しきれない慈しみの笑みが混じっていた。
「そんな事言うもんじゃないよ。……真面目さというのは、強力な武器にもなるんだよ」
「……先生が言うと妙な説得力があるから困るよなぁ」
ソランは不貞腐れたように唇を尖らせつつも、その矛先は丸みを帯びていった。
◇
「とりあえず、立ち話もなんだから、お茶でも淹れようか」
リュネルの提案に、アルクが深く頷く。
ベルギスが無言で椅子を引き、ソランも不承不承ながらそれに従った。
ネレウスは「え、僕も?」という顔をしたが、リュネルが瞳だけで「座りなさい」と命じたため、黙って座った。
私も、彼らに促されるようにして席についた。
アルクは椅子に腰を下ろすと、降伏の意思を示すように、いきなり両手を頭上に挙げた。
「先に言っておくぜ。俺は“監視”なんていう、陰気臭い仕事は大嫌いだ。だが、まぁ、俺もあくまで軍人だから命令には従わなきゃならない。だから俺もそう呼ぶしかない立場にいる」
自己弁護のようにも聞こえるが、それは彼なりの、誠実な前置きだった。
リュネルは流れるような所作で湯を沸かしながら、背中で応じた。
「別に、こちらとしても、特別に見られて困るような事はしてないからね。まぁ、やり方、次第かな」
そこでアルクは、少しだけ遠くの、ありもしない地平線を見つめるような目をした。
昨日、見せた「軽さ」が霧散し、代わりに部下の命を背負ってきた「指揮官」の瞳が宿る。
「……あぁ、やり方の話をしようか」
彼は、この店に派遣される前夜、あの静まり返った司令部での出来事を語り始めた。
アルクの回想は、磨き上げられた冷たい廊下の匂いから始まった。
軍の施設の一室。
彼の上官は、広大な机の上に置かれた一通の封筒を滑らせた。
『アルク。今回の任務は、監視だ』
アルクは、その時「はぁ?」と口走りそうになった己の衝動を、懐かしむように苦笑した。
「俺、その時の自分の顔……たぶん、今のソランくん?と同じ顔してたと思うぜ」
ソランが「ふん」と、不機嫌そうに鼻を鳴らす。
ベルギスは黙って聞いていた。
『対象は錬材師リュネルとアルカナ堂。過剰な圧をかけることは厳禁とする。距離も詰め過ぎるな。だが、その一挙手一投足を、正確に観測しろ。……必要とあらば、その手で止めろ。あるいは、命を懸けて守り抜け』
上官の、あの鉄のように硬質な声が、アルクの口を通じてこの店内に再現される。
彼は物真似を専門としているわけではないだろうが、言葉の「熱量」や、行間に込められた「迷い」までを完全にトレースしていた。
「……監視命令に『守れ』という一言が付け足される時、その裏では必ずと言っていいほどドロドロとした政治の闇がうごめいているんだ」
リュネルは湯を注ぎ込みながら、静かに頷いた。
「見られたくないことなんてしなければ良いのに…」
「まぁ、その辺は上層部も一枚岩じゃねーんだよ。……でまぁ、そこに殿下が現れた」
アルクの眼差しが、一段と真剣味を帯びる。
『アルク。分かってるだろうが、彼を敵に回すような愚行は犯すな』
回想の中のアルデラン王子の声は、ひどく静謐だったという。
命令ではなく、一個人しての、切実な「願い」の形をしていた。
『形式上の監視が必要だというのは致し方ない。だが、私はは望んでいない。……それ以上に、彼の周囲に余計な手が伸びることを、私は断じて許さない』
アルクはそこで一度言葉を切った。
この後に続く言葉こそが、彼にとって、一番面倒なのだろう。
「殿下は、最後にな……こう仰ったんだ」
アルクは、湯気の中に佇むリュネルを、真っ直ぐに見据えた。
「『彼の、あの鮮やかな世界の整え方を……私はもっと間近で見たい』ってな」
リュネルの眉が僅かにピクリと動いた。
ソランが「……何だそりゃ」と、呆れたように呟く。
ネレウスは、今度こそ完全に息を呑んだ。
自分の敬愛する師が、一国の王子という雲の上の存在から"観察対象"として意識されている事実が、単純に怖いのだ。
「殿下は、監視には否定的だ。でも王族としての立場がある。だから……俺たちに、その役目を託された。俺たちなら、不当な圧力をかけることも、私欲に溺れて事実を捏造することもない。……そういう判断だ」
アルクは深く息を吐き出す。
「つまりだ、リュネル。今日の俺たちは、君を屠るための“牙”としてここに来たんじゃない。外敵から君を守るための、最も身近な“盾”として置かれた監視役なんだよ」
ソランが、不満を隠しきれずに口を尖らせる。
「じゃあ何だ。監視っていう仰々しい看板を掲げながら、実際にはボディーガードの真似事でもしろってのか」
「そう。最高にめんどい仕事だろ?」
アルクは、少年のような屈託のない笑みを浮かべる。
だがその笑みは、現場で数多の矛盾を呑み込み、不条理を咀嚼してきた、老獪な男の笑いだった。
リュネルは、淹れたてのお茶を、全員の前に恭しく配り終えた。
「ありがとう。……じゃあ、こちらからもひとつ」
リュネルは茶を一口啜り、ゆっくりと言葉を置いた。
「監視が付くこと自体は構わない。ただ、この店の運営だけは邪魔しないで欲しい。祖父から受け継いだこの店は、この街にだいぶ根付いているんだ。……自分で言うのもなんだけど、ここが無くなって困る人は大勢いるんだ」
物言いはどこまでも柔らかく、静かだ。
けれど、その中心にある芯は、どんな刃よりも鋭利に研ぎ澄まされている。
昨日、私が胸の中で反芻していた言葉が、今、本人の口から、より強い確信を伴って提示された。
(……報告書に書けない事がまた増えていく)
私はそれを肌で感じ、同時に、書けない事実が「重なっていく」ことへの恐怖に身を震わせた。
観測事実が情動に侵食され、任務の天秤が決定的に歪んでいく。
その崩壊の予兆が、今まさに、この茶卓の上で静かに進行している。
アルクは、力強く頷いた。
「分かってる。だから俺は最初に言っただろ。潰すためじゃないって」
リュネルは、凪いだ瞳で頷き返す。
「では、具体的に。監視のやり方は、僕の方から提案しても構わないかな?」
「え?」
ソランが、驚愕の声を漏らした。
ネレウスもまた、信じられないものを見るような目で師を見つめている。
監視される側が、その手法を提案するなど、権力に対する明白な「挑発」か、あるいは「愚行」のどちらかだ。
けれど、リュネルの顔にはそんな意図は微塵も感じられない。
そこにあるのは、ただ効率的に仕事を回そうとする、誠実な仕事人の顔だけだった。
「店内で僕を一挙手一投足見張りたいのであれば、店の“見える仕事”を、手伝ってください。荷運びでも、棚整理でも……何でもあります」
「…………」
「そうすれば、不自然に突っ立っているよりも店の流れが詳細に見えるし、何より、君たちも粗探しがしやすいでしょう?」
アルクが細めていた目を大きく開き、そして耐えきれぬといった風に爆笑した。
「……ハハッ、すげぇな、君は! 監視を“有益な労働力”に使おうってのか!」
「“潜入調査”ってやつかな、ね?実際に店に入り込んだほうが監視しやすいでしょ?」
彼はそう言いって、私の方を見た。
まるで私の胸の内をすべて読み透かしたかのように。
私は一瞬、肺の機能が停止したような錯覚に陥る。
(……この人は、本当に底が知れない。そして、恐ろしいほどに、面倒な人だ)
慈悲深い聖人のようでありながら、その裏では、冷徹なまでの「合理性」という刃を隠し持っている。
そして彼が示す「正義」は、我々が守護すべき「国家の正義」とは、決定的に異なるベクトルを向いている。
アルクは楽しそうに肩をすくめ、愉快な気分を隠そうともせずに笑う。
「なぁ、カリナ。俺、殿下に報告するぜ。『監視対象から監視方法を提案されました』ってな」
「……皮肉ですか?」
「いや。これ以上ない、眩しいくらいの事実だろ?」
その「事実」が、また一つ、私の報告書の執筆を困難な迷宮へと誘う。
私は思わず、立ち昇る湯気の向こう側へと、視線を逃がした。
ソランが腕を組み、納得のいかない様子で口を開く。
「……で、先生。俺たちは結局、どうすればいいんだ。結局は見張られるんだろ?反吐が出るほどムカつくぜ」
「君の気持ちはわかるよ」
リュネルはソランを見つめ、慈父のような微笑を浮かべた。
「でもね。怒りに目を曇らせて“相手”を見誤ってはいけないよ。彼らはこの店を守るために置かれた人間でもある」
ソランは「……ちぇっ」と短く吐き捨てると、お茶を一気に飲み干した。
完全な納得には程遠い。
けれど、リュネルの言葉は飲み込んだようだ。
ベルギスが最後に短く付け加えた。
「……守ると言ったな。ならば、最後まで守り抜け」
アルクはその言葉を、避けることなく正面から受け止め、力強く首首肯した。
「あぁ。約束する。そのために、俺らはここにいるんだ」
会話が一段落し、茶から立ち昇る湯気がなくなった頃。
ネレウスが小さく手を挙げた。
「……あの、すみません。僕は修行で来ていて……」
彼の言葉は、途中で霧散した。
店内にいた全員の視線が、一斉に彼へと集中したからだ。
リュネルが穏やかな声で告げた。
「ネレウス。今日の入荷品運びの続きまだ終わってないよ」
「えっ、あ、ちょっ……」
ネレウスの顔が、彫像のように固まった。
「最高に運が悪い」という感情が、剥き出しの絶望となって、その整った顔立ちを歪ませる。
ソランがニヤニヤと彼に近づく。
「お前、今日は逃げられないな」
「………はい」
ネレウスがしょんぼりとする。
しかしその目の火は消えていない。
逆境を力に換えられるタイプなのだろう。
それを見てアルクが笑った。
「お、いいな。監視のついでに、弟子育成も見れるのか」
「君楽しんでないか?」
リュネルが即答する。
「まぁ弟子育成は、店の…延いては国の未来だから」
その言葉に、私は胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。
そして同時に、それを報告書に書けないことも理解してしまった。
(……書けない一文が、また増えた)
私の任務は“事実を書くこと”。
でも今、私の胸の中には事実以上のものが残り始めている。
アルクが椅子から立ち上がり、軽く伸びをした。
「よし。じゃあ今日は解散。明日から――いや、次の定休日からは“手伝い兼監視”でいこう」
「……そんなに頻繁に来るんですか」
私は思わず言っていた。
アルクは肩をすくめる。
「監視って、そういうもんだろ?」
そして、彼は少しだけ真面目な目になった。
書けない一文が、喉の奥まで上がってくる。
私はそれを飲み込み、代わりに言える言葉を探した。
「……報告書には、どう書けばいいんですか」
自分でも驚くほど、素直な声だった。
アルクが私を見て、笑う。
「書ける範囲で書け。書けない事はは――俺達で抱えろ。
抱えたまま動けるのが、お前だろ?」
ひどい答えだ。
でも、嘘はない。
リュネルが、ふっと笑った。
「抱えきれなくなったら、お茶でも飲みに来てください。…独り言をこぼすくらいなら許されるんじゃないですか?」
その一言が、また書けない。
私は敬礼しかけて、やめた。
ここは軍の施設ではない。
代わりに、深く頭を下げた。
「……失礼しました。引き続き、任務にあたります」
アルクは片手を挙げ、部下を連れて出て行く。
鈴が鳴り、扉が閉まる。
定休日の店内に、また静けさが戻った。
アルクたちが帰って、カリナも帰ると定休日の店内に静けさが戻った。
……はずなのに、空気だけがまだ少し張っている。
湯気の抜けた茶の香りが、残り火みたいに机の上に漂っていた。
「……やっぱ納得いかねぇ」
ソランが椅子の背にもたれて腕を組む。
口を尖らせているが、目は真面目だ。
「監視って言葉がまずムカつく。先生が何したってんだよ」
ベルギスは短く鼻を鳴らした。
「守るとは言っていたが、アイツ自分で言っていたぞ。軍は一枚岩じゃないと」
その声には静かだが、確かな怒りがある。
リュネルは茶器を片づけながら、二人を見やった。
「気持ちは分かるよ。……でも、今は“角を立てない”ほうが得だ。…それに、この店にもみんなにも手は出させない」
そう言いながら、ネレウスの方に視線を移す。
「で、ネレウス。荷運びの続き、いける?」
「……はい……」
返事はしたが、声が半分死んでいる。
肩も腕も、わずかに震えていた。
手袋越しに手のひらの豆が痛むのだろう。
今日の話し合いで精神を削られた上に、肉体労働まで追加された。
ソランが即座にニヤつく。
「おいおい、“主席様”どうした? 顔が死んでるぞ」
「やめてください……今日は訓練並にキツかったんですよ、もう身も心もね……」
「はは、言うじゃん!」
リュネルが苦笑して、ネレウスの前に新しい茶を置いた。
「ほら、飲んで。気分を落ち着けて。今日はよくやったよ」
「……ありがとうございます、師匠」
素直な声だった。
悔しさより、嬉しさが先に出てしまった目をしている。
しばらくして、ネレウスが小さく咳払いをした。
「……あの。今日のこと、学校に……チクられたりしませんか」
ソランが「は?」と顔を上げ、ベルギスが眉を寄せる。
リュネルは、ネレウスの言葉の奥にある“損得”じゃなく“居場所”への不安を見抜いて、声の温度を落とさずに返した。
「彼の事だからそんなことはしないと思うけど、ゼロとは言い切れないかな。でもね、ネレウス。“退学”は君の手柄じゃないから心配しなくていい」
「……手柄って何ですか」
ネレウスは困った顔をしながらも、ふっと口元を緩めた。
「でも……もし本当に退学になったら、すぐここに来れますよね。僕」
その言い方が、冗談の形をしていて、でも本音だった。
「来るのは歓迎だよ」
リュネルはあっさり頷き、すぐ釘を刺す。
「ただし、その前に“卒業”だ。選べる道は多いほどいい。前にも言ったけど君の手で選ぶんだ」
「……はい」
ソランが、わざとらしく大げさにため息をついた。
「くぅ〜、先生、またいいこと言う〜。俺は先生の相棒なのにさぁ、なんか弟子に甘くない?」
「別に甘くないよ。ソランにも甘くない」
「それが一番ひどい!」
ベルギスが小さく息を吐き、棚の方へ視線をやった。
「……監視が増えるなら、余計に“店の中”を固める必要があるな」
「うん。僕らができることはやっていこう」
リュネルは淡い笑みで言って、最後の茶器を布で拭いた。
店は定休日でも、店の営みは止まらない。
「よし。ネレウス、休憩終わったら続きをやろうか。ソラン、からかうなら運ぶの手伝って。ベルギスは、庭の方をお願い」
「へいへい、りょーかい」
「わかった」
「……はい、師匠!」
それぞれの返事が重なって、空気が少しだけ軽くなる。
監視というのは確かにやっかいだ。
けれど、見られていると分かっているのなら、やり方はいくらでもある。
リュネルは一度だけ扉の方を見た。
もう外には誰もいない。
鈴も鳴らない。
それでも彼は、いつも通りに微笑んだ。




