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アルカナ堂は今日もゆく〜素材屋リュネルの秘録〜  作者: 磨羯瑞花


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第34話 揺らぐ思い

夕陽もあと半刻程で沈みそうな頃。

人の往来も引き、街の賑わいの音がかわる時間帯。

アルカナ堂の向かい、伸びゆく影に紛れるようにして、私はまだその場所に佇んでいた。

「監視」という名の、不確かな距離。

上層部から、決して越えてはならぬと厳命された、危うい均衡の上に成り立つ距離。

店の中では、今日最後となる客が精算を終えたのだろう、扉に吊るされた鈴が、涼やかな音を微かに残して揺れた。

日中の喧騒が嘘であったかのように、周囲の空気は凛と冴え、沈黙が街を包み込み始める。

(……私は一体、ここで何をしているのだろう)

報告書の草案は、脳内で幾度となく推敲を繰り返している。

客層の分布、商品の回転率、取引の総量、そして対価の妥当性。

――それらは「観測事実」として、容易に列挙できる。

けれど、この店がその存在を以て、「この街の営みをいかに巡らせているか」という一点だけは、どうしても言語化の網から零れ落ちてしまう。

ここにあるのは、人々の「営み」そのものだ。

欠けた日常を補填し、滞った流れを解きほぐし、停止しかけた運命の歯車に、微細な油を差し込む。

ここは軍靴で踏み荒らして良いところではない。

監視対象に対し、これほどまでに親和的な心象を抱くのは危うい兆候だ。

「情動は、任務という秤を狂わせる」

上司の警告が、冷たい風となって耳朶を打つ。

だからこそ私は――己の輪郭を保つために、頑なに店の外へと留まり続けていた。

――その時。

背後から、静寂を切り裂くことなく、それでいて明確な意志を持った足音が近づいてきた。

規則正しいリズムを刻んではいるが、硬質さは感じられない。

雑踏に埋没するほど希薄ではなく、かといって周囲を圧するような威圧感もない。

ただ、その「間」の取り方だけで、相応の熟練者であると直感させる歩調。

私は反射的に背筋を伸ばし、周囲への警戒を内包したまま、ゆっくりと振り返った。

そこに立っていたのは、一人の男だった。

年齢は私より幾つか上だろうか。

纏っているのは至って普通の装いで、街を歩いていれば誰も気に留めない一般人だろうが、私には同業であると判断できた。

肩の力は極限まで抜かれているが、その中心にある芯は、微動だにせず構築されている。

男は、私の視線を受け止めると、無防備とも取れる明るさで、にっと口角を上げた。

「おー、あんたが“今回の監視役”さん?」

第一声が、それだった。

私は一瞬、自らの「隠密性」を棚に上げ、この男の語彙の選択について苦言を呈したくなった。

無礼と断じるほどではない。

だが、それはあまりにも、秘匿任務にある者同士が交わすには、親愛の情が過ぎる距離感だった。

「……カリナ・エルゼン。現在、第3号任務の遂行中です」

事務的な自己紹介を返すと、男は意外そうに目を瞬かせた。

「あ、そうなんだ。俺はアルク。まぁ、よろしくな」

軽い。

拍子抜けするほど軽い。

だが、その名が私の鼓膜を震わせた瞬間、胸の奥で小さな警鐘が鳴り響いた。

(……アルク。アルク・ギルフェンか)

聞き覚えがあった。

第2王子、アルデラン殿下の直属部隊を率いる隊長であり、冷徹な戦術判断を下す一方で、上の顔色よりも部下の生存率を優先し、組織の論理を平然と無視する男。

規律違反のスレスレを踊るような「しなやかさ」で渡っているのに、なぜか処罰を免れ続けている、得体の知れない人物。

「……初対面のはずですが、随分と寛がれているのですね」

私が釘を刺すと、アルクは不思議そうに首を傾げた。

「ん? あぁ、そうだな。俺はあんたのことは知らないぜ」

悪びれる様子もなく、さらりと、あたかも今日の天気を語るような口ぶりだ。

「臨時ではありますが、私は本日付で貴方の部隊へと転属されているはずです。辞令などは読まれていないのですか?」

「あぁ、書類関係は部下に任せてるからな!

でも、内容は聞いてるぞ。“真面目で堅実”“融通は利かないが、背中を預けるには最高に信用できるヤツ”……だったか?」

思わず眉間に皺が寄りそうになるのを、鋼のような意志で抑え込む。

(……一体誰の評価なんだ)

アルクは私の沈黙を、彼なりの解釈で楽しむように笑った。

「あ、今のは俺なりの最上級の褒め言葉だからな?」

「……そういう事にしておきます」

軽口。

だが、不思議とこちらを試すような、冷たい気配は感じられない。

アルクは私の隣に並ぶように立ち、黄昏に沈みゆくアルカナ堂へと視線を向けた。

「で? ずっとこうして、外で石像の真似事をしてるわけか?」

「……命令ですので」

「ふーん」

短く投げやりな返事を残し、彼の意識は店内へと向けられた。

棚の配置による死角。

入店から退店までの客の動線。

帳場の背後にある出入口、あるいは拠点としての機能。

彼の双眸が、瞬時に仕事人のそれへと変貌する。

「中、入らないのか?」

「不用意な接触は控えるように、と」

「へぇ」

アルクは、今度は可笑しそうに吹き出した。

「でもさ、それだと逆に目立つぞ」

言い方はどこまでも軽いが、その指摘は急所を穿つほどに正確だった。

「こんな時間に外で微動だにせず突っ立ってる軍人なんて、この街じゃ珍しいだろ、王都じゃあるまいし」

反論の言葉が、喉の奥でつかえる。

……確かに、この街の空気は私のような者に敏感かもしれない。

アルクは、私の困惑を拾い上げるように言葉を続けた。

「それに、もう俺の部下たちは、とっくに店の中に入ってるんだろ?」

「……はい。内部の動向については、こちらの魔道具でリアルタイムに確認していました」

私は掌に収まる携帯端末型魔道具を提示した。

鏡面には、客を装った工作員が送ってくる映像が映し出される。

「さっき最後の客が帰ったな。もう店仕舞いだ」

彼は緩んだ表情のまま、私の手から魔道具をつまみ取り、片手で操作し始めた。

「………あ、ちょっと! ………えぇ、さっきの退店を以て、本日の内部観測は終了です。私以外の要員は、既に撤収準備に入っています」

アルクは気の抜けた返事を鼻歌混じりにしながら、画面上の数値や配置を、恐ろしいほどの速度でスクロールし、凝視を繰り返していた。

……この男、単なる軽薄者ではない。

視線が掠め取る情報の解像度が、異常に高いのだ。

拾うべき情報の核を捉え、不要なノイズを躊躇なく削ぎ落としている。

その間、私は物理的な扉の向こうに全神経を集中させていた。

木製の重厚な扉の隙間から漏れる、帳場のささやかな灯火。

あそこに滞留している空気は、軍の殺風景な詰所や、陰謀が渦巻く謁見の間とは、全く異質の成分で構成されている。

アルクはそんな私の様子を見て、揶揄うように肩をすくめた。

「つーかさ」

アルクは、悪戯が成功した子供のような笑みを浮かべる。

「直接、会いに行けよ」

私は即座に、軍規を盾に拒絶した。

「それは明確な命令違反です。監視の原則は非干渉にあります」

「命令は“監視”だろ? “接触を禁ずる”なんて一文、どこにも書いてなかったぜ。俺が読んだ範囲じゃな」

言い返せない。

報告書の空白を、彼は独自の解釈で埋めてしまっている。

だが、物理的な一歩を踏み出すのを躊躇うこの感覚は、果たして任務への忠実さゆえだろうか。

それとも――自分の中に芽生え始めた、報告書には書き得ない彼らに対する、名前のない敬意を守るための防壁なのだろうか。

その迷いを見抜いたのか、アルクはふっと鋭い眼光を緩め、私に背を向けた。

「安心しろ。俺が先陣を切ってやる。あんたは俺の部下として、後ろに付いてりゃいい」

「……は? 待ってください! 距離を詰めては、今までの潜伏が台無しに……!」

制止の声も虚しく、彼は軽快な足取りで歩き出した。

あっという間にエントランスへと辿り着き、扉に手をかける。

からん、と。

渇いた鈴の音が、夕闇の街に響き渡る。

カウンターで翌日の仕込みをしていた監視対象が、一瞬だけ動きを止め、こちらを振り返った。

だが、「いらっしゃいませ」と柔らかく投げた後、その視線はすぐに作業へと戻る。

(……この人は)

アルクは既に自然な振る舞いで店内を物色し始めていた。

私は、胃の辺りに重い石を抱えたような心地で、数歩遅れてその敷居を跨いだ。

途端に、私の五感は処理能力を超えた情報量に襲われる。

微粒子の如く舞う乾燥薬草の芳香、鋭い香辛料の刺激、古びた羊皮紙と上質なインクの匂い、そして魔素材特有の、僅かな気配。

それに加えて――奥からだろうか、暴力的なまでに食欲を刺激する香りが漂ってくる。

……硝煙と鉄錆、泥と血。

戦場を構成する匂いには、嫌というほど慣らされてきた。

だが、こうした「豊かな生活」が放つ複合的な薫りは、無防備な精神の深部を鋭く刺し貫く。

胸の奥の、固く閉ざしていたはずの鍵を容易く緩めてしまう。

私の意識がその異質な空間に翻弄される中で、アルクは棚から適当な乾燥素材の小袋を一つ取った。

カウンターの向こうで、リュネルが顔を上げる。

底の見えない静謐な瞳が、アルクを正面から捉えた。

一瞬、火花が散るような緊張感が走ったように見えたが、それは瞬き一つの間に融解する。

アルクは、何年も通い詰めた馴染みの客のような調子で、にこやかに声をかけた。

「どうも。これはここにある分で全部かい? 掘り出し物だと思ってね」

軽い。だが、土足で踏み込むような無粋さはない。

リュネルもまた、過不足のない礼節を以て応じた。

「在庫はまだありますよ。用途にもよりますが、どれくらい必要でしょうか?」

「そうだな…、10人分。10日くらいは持つと助かるんだがな」

「それでしたら、こちらの方がオススメですよ」

会話は自然に流れていった。

私は一歩引いた位置から、やり取りを注視していた。

(……何が狙いなの。この男は)

私は、その円滑なコミュニケーションの外側で立ち尽くしていた。

店内を見渡せば見渡すほど、異常な事実が浮かび上がる。

旬の野菜から果物、……果ては丁寧に処理された肉や魚までが並んでいる。

どれもが選りすぐりの一級品だ。

品揃えの豊富さは、中央都の朝市にすら引けを取らない。

そして何より驚愕すべきは、魔素材の精製度とその多様性だ。

冒険者からの持ち込み品を加工しているにしても、王立研究所でしか見かけないような希少鉱物や、幻と謳われる高山植物の乾燥芽までもが、当然のように棚の一角を占めている。

いやこれは「素材屋」とかいう範疇を超えているのではないか。

もちろん、それら最高級の品々は店頭展示ではなく、要相談品という扱いになっている。

ちらりと見えた値札の額は……適正価格が私の勉強不足とはいえ、他の日用品の価格から推測するに、恐らく誠実か、あるいは破格の安さで提供されている。

さらにこの店舗、表向きには簡素な術しか見えないが、実際には数層にわたる精緻な魔法が多重展開されている。

それも、上手く背景の魔力に擬態させてはいるが、王室付き魔導師クラスが数人がかりで編み上げるような、高等魔法の式が組み込まれていた。

この店は、単なる「街の素材屋」として処理して良い存在ではない。

そして――国の、あるいは誰かの下らない権力闘争の犠牲として、無為に潰されて良い場所でもない。

……いや、私はあくまで観測者。

見たままの鏡面を、上層部へ届けるだけの装置に過ぎないのだ。

思考が迷走する私を置き去りにして、アルクは支払いを済ませ、丁寧に梱包された袋を受け取ろうとしていた。

「助かったよ。いい買い物ができた」

アルクがその袋に指をかけた瞬間、リュネルは渡す手を僅かに止め、射抜くような視線をアルクへと向けた。

「……君が、今回の現場責任者なのかな?」

アルクの指先が一瞬だけピクリと反応したが、彼はそれを瞬時に「荷物の重みを確かめる動作」へと昇華させた。

「何の話だい? 俺はただ、通りすがりの買い物に来ただけの善良な市民さ」

アルクは表情一つ崩さず、平然と言ってのけた。

傍らで見ていた私からしても、呼吸の一片、瞳孔の揺れすら感じさせない完璧な演技だった。

……だが、店内の空気の密度が、劇的に変質したのは分かった。

「そうか。なら、1つだけ質問をして良いかな?」

「あぁ、いいとも。答えられる範囲ならな」

空気がほんの一瞬だけ、極低温の刃のように張り詰める。

「僕の些細な独り言が、誰かの査定や、あるいはその後の“待遇”に、影響を及ぼす可能性はあるのかな?」

アルクの表情から、一切の軽薄さが消え失せた。

それは、彼が初めて見せた剥き出しの「真剣」の色だった。

「……そうだね、可能な限り控えてもらえると、俺としても嬉しいかな」

リュネルは相変わらず春の木漏れ日のような柔らかい微笑を、私たち二人に向けている。

それなのに、何故、心臓を直接握りしめられているような、この落ち着かない圧迫感があるのだろう。

これは恐怖なのだろうか。

「なら、そうするとしようか。じゃあ、また来てくれ」

アルクは袋を受け取り、人の良い、それでいてどこか複雑な翳りを帯びた笑顔を返した。

"また来てくれ"

それは形式的な、買い物客に向けられた言葉であった。

でも、その実――リュネルは「ここに来るな」とも「是非来い」とも断じていない。

すべてはあなたの意志次第であると、重い選択を相手の手に返している。

その、突き放すようでいて包み込むような返し方に、私は余計に足元が覚束なくなるのを感じた。

私も下がり店を出ようとした、その時。

リュネルが、今度ははっきりとした声で、アルクへと声をかけた。

「そうだ、アルク。これ返しておくよ」

彼は、カウンターの下から取り出した袋を投げ渡してきた。

袋は金属がぶつかり合う硬質で高い音を立てアルクの右手に吸い込まれるように収まる。

「また使えるようにはしておいたから、安心してくれ。それに……そんなものを使わなくても、君の話ならいつでも聞くよ」

やはり彼は微笑んでいたが、その表情にはほんの僅かだけ、悪戯っぽさが混じっていた。

「……そんなもの」

今、私は確信した。

アルクが密かにこの店に対して仕掛けていた、あるいは使用していたモノの存在を。

そして、それをこの店主が、いとも容易く看破したという事実を。

それにも関わらず、この二人は平然と友人のように会話を終えた。

つまり――これは明確な敵対関係ではない。

けれど、決して利害の及ばぬ純粋な馴れ合いでもない。

アルクは困ったように肩をすくめ、片手を軽く挙げてそのまま店を後にした。

一歩外へ出ると、濃密な夕暮れが街を鈍い銅色に染め上げていた。

屋台には明かりが灯り、料理の刺激的な匂いが路地から溢れ出す。

行商人の張り上げた声は夜の静寂へと溶け込み、代わりに酒場から漏れ出る、粗野だが陽気な笑い声が近づいてくる。

店を出てから数分、アルクは黙ったまま歩みを進めた。

私は声をかけたか、彼は答えない。

答えないのではなく。周囲のすべてに、意識を全方位へと拡散させているのだと気づく。

路地の暗がり。屋根の上の死角。窓から漏れる灯火の揺らぎ。

彼は軽い歩調を崩さないまま、街の様子を眺める。

大通りまで出たところで、ようやくアルクは肺から溜まった熱を逃すように口を開いた。

「ほら。ちゃんと会えただろ?」

「……やはり、接触すべきではなかったのではないですか。店主には、我々の素性も目的も、すべてお見通しだったようですが」

アルクはやれやれといった風情で、もはや言い訳というよりは、高度な理論武装に近い屁理屈を、淀みなく並べ立て始めた。

店での、あの言葉を介さないやり取りで、おおよその見当はついていたが、2人は顔馴染みだったのだ。

「……それにしても、貴方のやり方は軽すぎます」

「よく言われるよ、それは」

アルクは屈託なく笑い、だが次の瞬間、その瞳から一切の光を消して真顔になった。

「でもな、カリナ。この店は、遠巻きに眺めてるだけだと、誤解する」

その言葉に、私の胸の奥が微かに震えた。

「誤解」――。その単語の重さが、「報告書」に直結しているからだ。

誤解は、書類という無機質な媒体の中で、悪性の腫瘍のように増殖する。

たった一行の、観測者の不備による誤解が10人の権力者の判断を歪め、そして、誰にも取り返しのつかない惨劇を招く。

「中に入って、その肌で空気を感じて、初めて理解できるんだ。ここは、秩序を脅かす“危険な火種”なんかじゃない」

アルクは、今度は私の方を見ずに続けた。

「だから、本気で監視を完遂したいなら、中に入れ。外側に立って壁を築いているだけだと、あんた自身が街の営みを"腐らせる"原因になるぞ」

――街の営みを、腐らせる

アルクは、まるで私の思考の断片を直接盗み見たかのように、その言葉を当然に口にした。

私は思わず、己の胸元を強く握りしめそうになる。

私の中に記すことのできない一文が、明確な形を持って芽生えてしまったからだ。

(この店は、この街の穏やかな営みを維持する為に、いや、…この国の維持のために欠かせない……)

それを報告書に記せば、上層部は「観測者の正気が失われた」と笑い飛ばすかもしれない。

だが、嘲笑されるだけならまだ救いがある。

最大の問題は――万が一、その事実が「正しく」理解されてしまった場合だ。

ここが生命を繋ぐ枢要な機関だと認識された瞬間、権力はそれを「手中に収めて掌握する」か、あるいは「自分たちの支配下に置けないなら切り捨てる」か、その二択を選ぶ。

どちらの道を選んでも、この街の営みは、致命的な機能不全に陥るだろう。

「……貴方は、一体どちら側の人間なのですか」

思わず口からこぼれた問いかけ。

あまりにも稚拙な、二元論に基づいた質問。

軍は世界を境界線で分断し、管理したがる。

味方か、敵か。

服従か、排除か。

その簡潔な整理がなければ、巨大な組織という怪物は、一歩も前に進めないからだ。

でも今、私が求めているのは、そんな組織のための便宜的な答えではない。

アルクは意外そうに眉を跳ねさせ、それから可笑しそうに肩をすくめた。

「さあな。ただ一つ、言えることがあるとすれば――」

彼は立ち止まり、長く伸びた自分の影が指し示す、アルカナ堂の方向を静かに振り返った。

「俺は、あいつという存在を、こんな下らない事で切り捨てたくは無い。……それだけだ」

それだけを言い残し、彼は再び夜の雑踏へと溶け込むように歩き出した。

私はその頼りなくも頼もしい背中を見送って――見送るだけでは心が収まらず、追いかけるように、肺にあるすべての空気を声に乗せた。

「切り捨てたくない、ということだけでは、あまりに曖昧です。……それでは、任務を完遂したことにはなりません!」

自分の口から出た言葉が、鋭い氷の礫のようにトゲトゲしいことに気づく。

けれど、もう引っ込めることはできなかった。

アルクは歩みを止めることなく、肩越しに、どこか遠くを見つめるような声音で答えた。

「分かってるよ。だから俺は、“曖昧に誤魔化す”んじゃなくて、あえて“言葉の余白を残す”んだ」

「余白……? そんな不確かなものを、上に報告しろと言うのですか?」

「事実を隠せって言ってるわけじゃねえ。書けることは全部書け。正確な数字も、客層の分布も、商品の品質もな。でも――」

彼はそこで、夜風にさらわれないよう、ほんの少しだけ声を落とした。

黄昏の残滓が、彼の輪郭を幽かに揺らす。

「……“性急な結論”だけは、絶対に下すな。あの店に、安易なレッテルを貼り付けて定義を確定させた瞬間、世界中の“動きたくて堪らない連中”が、一斉に牙を剥くぞ」

……あぁ、と。

胸の奥底で、バラバラだったピースが不吉な形を成して噛み合った。

上司が言った「監視は歪む」という言葉の真の恐怖が、全く別の、より深い絶望の色を伴って視界を覆う。

「動く、というのは……軍の上層部だけを指しているのではないのですね」

「上も。横も。下もだ。欲深い商人も。利権を漁るギルドも。そして、自分たちこそが正義だと信じ込んで疑わない、哀れな連中もな」

アルクの口調は依然として軽やかだったが、その言葉には、研ぎ澄まされた処刑人の刃のような鋭利さが宿っていた。

私は、喉の奥で冷たい空気を飲み込む。

この人は、決して「軽い」のではない。

圧倒的な「軽さ」という仮面を被ることで、あまりに重すぎる、"責任"を運んでいるのだ。

「……では、私は結局、何を書けばいいのですか」

私は自分でも驚くほど、幼子のように率直な迷いを口にしていた。

アルクは、今度は足を完全に止め、真正面から私を見据えた。

沈みきった太陽の余光が、彼の横顔を鋭く縁取っている。

その表情は笑っているようにも、疲れているようにも見える。

「書ける事実は、そのまま書け。だが、書けない一文は……お前の中の、一番深い場所に沈めておけ」

「それは、任務放棄です」

「違うな。すべてを暴き立て、白日の下に晒すことだけが任務じゃない」

アルクは短く断じ、視線を再び街の喧騒へと戻した。

「監視って仕事の本質は、対象を覗き見ることじゃない。自分が綴るたった一行が、どこに、誰に、どれほど深く突き刺さるか――その『刃の行方』までを観測し続けることだろ?」

言葉を失う。

それは、私が今まで教わってきた事を全て否定するような物言いだ。

だが痛いほどに真実を射抜いた言葉だった。

情報は、鋼の剣よりも遥かに容易く、そして残酷に人を殺め、国を滅ぼす。

「……貴方は、その信念で動いていて、よく今まで処罰を免れてこられましたね」

思わず、尊敬を隠すための嫌味に近い問いが零れる。

アルクは、今度は本当に可笑しそうに笑った。

それは今までのどんな「軽さ」とも違う、どこか渇ききった、戦士の笑いだった。

「されかけたことなら、星の数ほどあるさ」

そして、彼は唐突に笑みを消した。

「でも、俺の部下は、一人も死んでない。……現場の人間が生き残っているという事実だけで、赦される事もあるもんさ。それが、この狂った世界の、唯一の救いなんだよ」

その「赦し」という奇跡が、どれほど危うい、剃刀の刃の上を歩くような均衡によって保たれているか。

同じ軍人である私には、想像を絶するほど理解できてしまった。

無数の偶然と、裏工作と、政治的な駆け引き。

そして、誰かの比類なき温情。

つまり、それはいつでも些細なきっかけで崩落し得る。

私は自らの内側に、あの一文が深く、深く沈殿していくのを感じた。

(この店は、この街の生命を巡らせる、代えの利かない止まり木だ)

書けない。書ける訳がない

でも、抱えたままでは、いつか私自身の魂がその重みに耐えかねて窒失してしまうだろう。

「……アルク隊長」

私が初めて、彼を正式な役職を以て呼ぶと、アルクはひどく嫌そうに肩をすくめた。

「隊長はやめろ。背中が痒くなる」

「では、アルク。……貴方は、私に何を期待しているのですか」

問いの角度を変えたつもりだったが、結局のところ、本質は同じだった。

アルクは少しだけ沈黙し、思考を巡らせるように空を見上げた。

そして今度は、一切の笑みを浮かべずに答えた。

「どうもしないさ。俺はただ、あんたという人間が、この任務の重圧で“壊れないでほしい”と願ってるだけだ」

「壊れない……?」

「監視ってのはな、単に覗き見るだけの楽な仕事じゃない。対象の人生に神経を削り、上からの理不尽な圧力に晒される。そんな、板挟みの極致みたいな場所で戦い続けてると、どんなに強靭な訓練を積んでいても、心がポッキリと折れちまうんだよ。そんな壊れた人間がまともに"監視"ができるはずもない」

アルクの視線が、一瞬だけ、かつて失った何かを悼むように揺れた。

「……あの店が壊れれば、街が死ぬ。街が死ねば、巡り巡って国も終わる」

彼の表情は、一瞬だけ、救いようのない悲劇を予感しているかのように、酷く痛ましく見えた。

「……貴方は、最初からそう思っていたのですか?」

「思ってるっていうか、見りゃ分かるだろ。……分からないやつが多すぎるだけだ」

アルクは再び、夜へと向かって歩み出した。

私はつい、その背中に追い縋るように、今日一番の「謎」をぶつけた。

「さっき、店で返された“袋”……あれは、一体何だったのですか。貴方は何を使っていたのですか」

アルクは振り返らず、肩越しに、軽くひらひらと手を振ってみせた。

「ただの、便利な小道具さ。……でも俺はもう、二度と使いたくないね」

その答えは、情報の半分しか開示していなかった。

だが、私にはそれで十分だった。

彼は事実を隠蔽した。

けれど、決して私を誤魔化しはしなかった。

私は今日、軍では教わる事のない「報告書に記してはならない真実」の存在を、明確に自覚した。

――そして、それこそが、彼女の今後の軍人人生において、最も厄介で、最も愛おしい「核」になるのだ。

「……貴方は、本当にどちら側の人間なのですか」

さっきの問いが、胸の奥でまだ燻っている。

アルクは、夜の闇に溶け込みながら、最後の一言を投げた。

「どちら側かなんてのは、争ってる時だけで十分だろ」

それだけを言い残し、彼は完全に街の闇へと消えた。

私は、その残響を胸に刻みながら、立ち尽くす。

監視という名の距離。

それを守るための、孤独な任務。

だが今日、私は知ってしまった。

監視ために置かれた人間が、必ずしも、血の通わぬ冷酷な側を歩いているとは限らないということを。

――葛藤の萌芽が、彼女の心の中で、確かに、そして力強く息吹き始めていた。

事実を綴る軍人として。

物語の余白を守る者として。

それでも私は、明日もあの場所へと立つだろう。

立ち尽くし、注視し、そして思考し続ける。

胸の内側に、震えるような一文を抱えたまま。

(この街の流れを……決して、停滞させないために)

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